7怪
食べ終わった後、お互い座ったままゆっくりする。この部屋でこんな気持ちになれたのは、本当に久しぶりだ。
「この後、どうするんですか?」
「夜に出るということなので夜まで待ちます。深夜になれば眠くなるかもしれませんから、寝ていただいても結構ですが」
どうしますかと聞かれても、返事は一択だ。
「起きてますよ!? どうして眠れると思ったんですか!?」
普段だってあれが来ていることが怖くて眠れないのに、退治に来てくれた夜にどうして眠れると思ったのだこの人は。それとも、寝ていろということなのだろうか。
もしかして秘術的なもので、よその人は見てはいけないものなのだろうか。その場合は見ないように努力しなければならないが、眠れるだろうか。否、眠れるわけがない。それでも眠らなければならない場合はどうすればいいのだろう。
恐る恐る、いま考えたことを聞いてみた。ついでに睡眠薬の手持ちも聞いてみた。
火六さんは、静かに口を開く。
「全くそんなことはないです」
「ないんですか!?」
「初対面の相手を部屋に入れている状態で、相手に睡眠薬の有無を聞かないでください。貴方は危険察知が出来る人間かと思った自分の考えを訂正する必要を感じます」
「こんな状況じゃなきゃそんなこと言いませんし、部屋にも上げませんよ! そもそも、初対面の男の人に家を教えたりしません!」
「そうしてください。僕が言ったのは、眠らないまでも勝手に気絶したりする人がいるので、その場合頭打っても面倒ですし、守るのも手間なので、それなら最初から決まった場所で寝ていてくれたほうが楽だということです」
成程。それは大変だ。
あの男を最初に見たとき、私はもしかしたら朝まで気絶していた可能性があることに気がついた。だって、朝までの記憶がほとんどないまま朝を迎えていたのだ。
邪魔をするわけにはいかないが、だからといって眠ることも難しい。さてどうしたものかと考えている間に、火六さんは続けた。
「僕としては起きていていただきたいのですが」
「え? そうなんですか?」
これは意外だ。さっきの言い分から鑑みるに、邪魔なのでさっさと寝ていてほしいと言い出すと思っていたのだ。
意外な気持ちが顔に出てしまったのだろう。火六さんはそんな私を見て、小さく溜息を吐いた。
「退治した場面を見ていてもらわないと、退治したかどうかが分からず、確認できるまでいてほしいと願われたりするので。余計に何泊もするのは、忙しいときは大変困ります。更に、既に退治し終わってもう存在していないと証明するのも相手が納得しない限りは難しいので、出来るだけその現場を見てもらうようにしています」
「な、成程」
「最後の最後で、退治の瞬間を見ていないが為に納得できずと支払いを渋られるのも面倒ですし」
大変実務的な理由だった。
霊能者といえば浮世離れ足したイメージがあるが、内情を聞けば霊関係に全く詳しくない私にも納得のいく悩みの数々。どんな職業でも人が行い人を相手にしている以上、悩みも似たり寄ったりになるのかもしれない。
私はしみじみ頷いた。
「大変なんですね……」
「そうでもありません」
「そうでもないんですか……」
私のしみじみを返してほしい。
私のしみじみを淡々とぶった切った火六さんは、お茶を飲みながら頷いた。少し癖のある髪が邪魔なのか、耳にかけている。その耳に赤いピアスがつけられていることに気づいた。黒髪に赤が映えて、一気に垢抜けて見える。おしゃれだなぁと見惚れる。
しかし、それと一緒に自分の化粧がぼろぼろなことも思い出した。落ち込む。
「減額分しか払わなかった人間からの依頼は二度と受けませんので」
「そうなんですか!?」
「慈善事業ではないので。警察や裁判沙汰にしないだけありがたいと思ってもらいます」
「確かに……」
詐欺、とは違うかもしれないけれど、払うといっていたのに払わないのは問題だ。
それとも、支払いを拒否したくなるほど高いのだろうか。確かに値段は聞いていない。退治する相手を見なければ分からないという言葉も納得がいくが、だんだん不安になってきた。一生背負い続けるローンだったらどうしよう。
そわそわが顔に出てしまったのか、私を見た火六さんは少し考えた。
「お昼も頂きましたし、掃除を手伝って頂きましたし、耳寄り情報も頂きました。安くしておきます」
「お、おいくらほどですか?」
「一万でいいです」
「安くないですか!? 駄目ですよ! 今日日水回り関係できてくれた人も五分で一万近くかかるんですよ! しかもこんな暑い日に来て掃除までしてくれたんですから、相場分かりませんけどもっと上げてください! 安すぎても不安ですよ! 嫌ですよ!? つぎ事務所に行ったら倒産してたとか! 次も頼らせてくださいよ!?」
労働の搾取は頂けない。ブラック企業は滅びるべし。パワハラセクハラ加害者は撲滅すべし。
大学の先輩達から吐かれる呪詛のごとき怨嗟を聞いた身としては、自分がブラックに染まるなんてまっぴらごめんだ。
私も決して余裕のあるわけではないし、まだ学生の身だが、仕事に対し真っ当な対価が支払われないのは駄目だということは分かる。無料サービスは、回り回って自分のタダ働きに返ってくると就職課の人が言っていた。
「ち、ちなみに、普段だったらどれくらいなんですか? ちゃんと定価でお支払いします!」
「百万超えますけどどうします?」
「……………………………………奨学金もあるので、四十年ローンをお願いしてもいいでしょうか」
「冗談です」
「笑えませんよ!」
そして、冗談と本気の境が全く分からない。さめざめ嘆く私を淡々と見ている人の顔が、しれっとしているように見えてきた。
「火六さん、冗談のセンスないです!」
「よく言われます」
「よく言われるんですか!?」
「貴方に何か憑いてますとか」
「まっっっっっったく笑えませんね」
「そうですか。まあ、本当に憑いてることが多いので冗談じゃないんですが」
「笑わせてくださいよぉ!」
もしかして私はおちょくられているのだろうか。
「ちなみに、五分で一万取るような水回りの企業は基本的にぼったくりの詐欺集団なので、水回りで困った場合は市役所のサイトに掲載されている契約会社に連絡してください」
「そうなんですか!?」
平然としている人の顔は全く楽しそうではないものの、会話は途切れないし、何だかんだと私は楽しい。ちなみに水回りの企業には驚いた。ポストに投函されていたり張られているカードから連絡してはいけない事実には大変驚いたが。
そんな話をしていたら、あっという間に時間は過ぎて、いつの間にか外は赤くなり始めていた。
一般的な一軒家より位置が高いこともあり、ここからは家々の屋根が赤く染まる様がよく見える。夕日の威力が倍増したように見えて、初めて見た日は感動したものだ。
「もう夕方ですね。久しぶりにこの部屋から夕日を見ました」
「それはよかったです」
そもそもこの窓から外を見ること自体が久しぶりだ。暗くなる前にはカーテンを閉めたほうがいいだろうか。それとも開けたままのほうがいいのだろうか。
どちらにしても、久しぶりの景色をもう少し見ていたい。カーテンが開いているだけで、部屋の中がうんと広く見える。カーテンを閉め切った部屋は、空気が淀んで閉塞感があり、何倍も狭く感じたものだ。
外を眺めていたが、はっと気づく。
「そうだ。あの、ベランダにある大量の蝉……あれ、外に置いといて大丈夫でしょうか。中には、あんまり、入れたくなくて……」
ベランダにゴミを出すのは抵抗があるが、部屋に入れたくないのも事実だ。私が無意識に部屋に持ち込んでいたと言われる袋の、かしゃかしゃとした音と軽さは思い出したくない。
もそもそと問うた私に、火六さんは「ああ」と何か思い出したかのような声を上げた。
「僕が始末しますから大丈夫です」
「お、おいくら万円ですか?」
「一万の中に含まれてますのでお気になさらず」
「え、やっぱり一万のままなんですか!? もっと定価に近づけてください!」
「考えておきます」
全く考えておかないようにも、深く真剣に考えるようにも聞こえる、つまり全く変わらない淡々とした声で答えられた。これは後で念押ししなければと固く決意する。
「橘花さん」
「はい?」
決意のために拳を握ったが、一応電気くらいはつけておこうとリモコンを探す。電気をつけたところで、名を呼ばれたので返事をした。しかし、目の前に座る人は特に何かを話し出す気は無いらしい。それなら何故呼んだのか。一万円は譲らぬぞという硬い意思表示なのか。その意思表示、拳でたたき壊せるだろうか。
「橘花さん」
私が固い拳を握り直したら、再び火六さんが私を呼んだ。
「橘花さん」
「橘花さん、僕を見てください」
同じ声が、同じ言葉で、私の名を呼んだ。
片方は、少し言葉が多かった。同じ声に挟まれて、不思議な気分を味わった。ふわっと身体が浮くような、空気の固まりを押しつけられたような、妙な感覚を受けた後、急に締めつけられるような不安を感じた。
「橘花さん」
「僕を見てください」
声が、聞こえる。前に座る火六さんが話す声と、私の後ろ、玄関の方から私の名を呼ぶ火六さんの声がする。
「橘花さん」
「橘花さん、玄関ではなく僕を見てください」
玄関を向いて何かを確認したい気持ちと、死んでも見たくない気持ちがせめぎ合う。
ぎゅっと握りしめた拳が、自分の意思では開けなくなるほどの力がこもって軋む。指が折れてしまいそうだ。だけど力をこめないと精神が壊れてしまいそうなのだ。
私の前に座る人が、少し長いほうの言葉を紡いでいるのだと、それだけをかろうじて認識する。そんな私の思考を読んだはずもないだろうに、背後の何かはそれよりももっと長い台詞を喋り始めた。
「橘花さん、入れてください。僕です。橘花さん、橘花さん」
何かが私を呼んでいる。目の前に座る人と同じ声で、私の名前を呼んでいる。
コンッと、何かが扉を叩いた。
コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン
一定間隔でノックの音が続く。合間に、私の名前が挟まる。
橘花さん
コン
橘花さん
コン
橘花さん
コン
橘花さん
コン ココン
橘花花さん
コンコンコンコンコンコンコンコン
橘花花花ばなばなばなばなばなばなばなばなばなばなばなさんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん
不自然なハミングが、かつては自分の名前だったものだと思うだけで、目の前が点滅するほどの不快感と恐怖がない交ぜになり、吐き気がする。呼吸が荒くなり、瞬きすら出来ない。
「橘花さん」
火六さんは、何も変わらず淡々と私を呼ぶ。
「毎日細々と穢れを持ち込ませて、そろそろ中に入れるかなと早めにウキウキやってきたら、蝉の死骸も穢れも全部処分されており、がっかりしてやけくそになっている悪霊があちらになります」
淡々と説明された内容が、玄関から聞こえてくる恐怖音声に全く釣り合わない。あちらになりますって、どちらになるのだ。
現状はこんなに『非日常』なのに、火六さんはどこまでも私の知っている『日常』からはみ出ない。
「……そんなノリで、いいんでしょうか」
「そんなノリでいいんです。別段珍しいものでもありませんし」
淡々と頷かれてしまった。
後ろからは相変わらず止まらないノック音と、奇妙なハミングに成り果てた私の名前。目の前ではお茶のおかわりを入れた拍子に勢いが出過ぎてお茶が散り、ティッシュでテーブルを拭いている火六さん。ペットボトルって、たまにべこんってなって勢いよくでますよね、分かります。でも、いま分かりたかったわけでもない。
「火六さんは……霊、怖くないんですか?」
「橘花さん、害虫駆除している人間は、虫が怖いと思いますか?」
「それは……毎日の仕事が地獄じゃないでしょうか」
「そういうことです」
「どういうことですか!?」
訳が分からなすぎて、思わず大声で突っ込んでしまった。
その拍子に、玄関の音と声がぴたりと止んだ。音が止めばほっと出来るかと思いきや、それはそれで怖い。だって、次はどこに行ったのだ。次は何をするつもりなのだと気になって仕方がない。
しかし、火六さんは何一つ気にしてないのか、淡々と話を続けた。
「橘花さん、害虫駆除をしている人は、虫が好きでも嫌いでもない人です。そうなると僕は?」
「霊が、好きでも嫌いでもない人、ですか?」
「正解です。正直、自分に関係なければどうでもいいです」
「どうでもいい」
鸚鵡返しするしかない私の気持ちを、誰か分かってほしい。
他にどう返事すればいいのか。唯一の頼りである霊能者から、霊がどうでもいいと宣言された私は一体、どんな顔をすればいいのだろうか。
「害虫駆除している人は、目につく虫全部を殺すわけではありません。あくまで依頼された場所で、依頼された虫を退治して収入を得る。無差別に虫を殺しまくる人は業者ではなくただの問題ある人です」
「ただの問題ある人」
「僕らも同じです。家業だといっても、そこら中の霊をどうにかして回ったりしません。そこら中にいるものをどうにかするほど暇じゃないですし、体力もありません。そもそも世界中どこででも人は死んでるんです。事故で事件で病気で自殺で寿命で、何だかんだで人は死にます。どんな死に方であろうとあっさり成仏する人もいれば、寿命なのに認めず彷徨ってる人もいます。そういうのが溢れている世界を見ている身としては、あなた方の感覚に例えるなら、あ、蚊が飛んでる、といったところです。部屋の中にいれば自分に害をなすから潰すなり蚊取り線香焚くなるするでしょうが、屋外で通り過ぎたときにいちいち潰しますか?」
「潰さない、ですね……」
「そういうことです」
言いたいことは何となく分かったが、そういうことなんですねと言うには少々躊躇う。こっちが心の臓が凍り付くほど脅え、震え上がっている現象を、蚊に例えないで頂きたい。