6怪
黙々と掃除を続ける。サングラスみたいだった窓も、だいぶ引っ越し当初の姿を取り戻しつつあった。
「火六さんは、幽霊、好きなんですか?」
「いえ、別に」
「別に」
「家業なのでやってるだけで、別に好きでも嫌いでもありません」
「家業なんですか!?」
代々こういう職業をされているということなのだろうか。確かに、言われてみればこういう職は代々やっている方が信頼出来るように思えるし、伝統芸能と同じで技も際だったイメージがある。だけど勢いで驚いてしまった。
今まで周りに霊能者と呼ばれる類いの人がいなかったこともあり、家業として本腰入れて代々やっていく職業だということに、失礼ながら驚いてしまったのだ。
「橘花さん」
「は、はい」
「害虫駆除の仕事をやっている人間が、虫好きだと思いますか?」
「………………いえ、思いません。改めて考えると、全く思いません」
虫が好きな人が虫を殺す仕事をするのはつらいだろう。これは、全く見当違いの質問をしてしまったようだ。考えなしにぽんぽん質問してしまったことを反省した。改めて考えて、質問する。
「火六さん、害虫駆除好きなんですか?」
「…………何故でしょう」
「たとえが害虫駆除ばかりだからです」
「…………そうですか?」
「今のところ」
「そうですか。単に例えやすいだけです」
「そうでしたか……私、お恥ずかしながらこういったことに関する知識が皆無なんで、もっとこう、お祓いみたいな事をしてくださるのかなーって思ってました。結構普通なんですね……いや、失礼な意味じゃなくてですね!? …………今のは失礼だったかもしれません。すみません」
やっぱり考えなしだった。一人で思考をくるくる回してから回ってしまった私を、火六さんは淡々と見つめていた。
「いえ、別段失礼と思いませんし、思ったことを言ってくださるほうが接しやすいです。内で悶々と不満や疑問を抱えて、退治の邪魔をされるほうが厄介です」
「成程……苦労されてきたんですね」
「そうでもないですが」
「そうでもないんですか!?」
これまた無表情で淡々と言うので、冗談なのか本気なのか、笑うところなのか何なのか、まったくテンポが掴めない。でも、寡黙な人でもないので一緒にいることが苦ではない。きつい言い方もしなければ、怒鳴ったりもせず、動作も静かだから余計にだ。面白い人だなぁと思う。
「形式立ててすることもありますが、場合によります。それに、僕の一族は対峙の仕方が他とは少々異なるので。相手が対話に応じる、または対話するに値すると判断すれば話し合いもしますが、今回のように一方的に相手に害成す輩は問答無用で退治します」
「そうなんですか」
「復讐などの動機があるのならともかく、通り魔に話し合いという人権を与える必要はありませんから」
「はあ。なる、ほど?」
「なので、今回の場合は問答無用で退治しにかかります」
きっぱり宣言されて、ほっとする。この人に頼んでよかったと改めて思った。だが、一つ疑問だ。
「あの、自分から言うのも何なんですが……私が復讐されるようなことをしたかもしれないとは、思わないんですか?」
私自身、そんな心当たりはないつもりだが、いつどこで誰かの恨みを買っているかは分からない。自分では心当たりがなくても誰かを深く傷つけている場合だってある。
あれがもし、もしも私が何かをしてしまった末の被害者の恨みの形であるのなら。もし、私が加害者であるのなら。そう思った瞬間、ぞっとした。
今まで考えもしなかった形が頭に浮かんだだけで、吐き気を催すほどの嫌悪感と恐怖が湧き出す。世界が一瞬で色を変えたように思えた。暑さも蝉の声も遠くなり、息もできないほど胸が痛み、日常は全て裏返
「思いません」
らなかった。
あっさり言った火六さんは、最後の汚れをきゅっと拭き取ると、窓ガラスの全体を見て満足そうに頷いた。
「貴方は恐らく善良な人間です。まっとうな危機管理能力があり、これだけ執拗な害意を向けられても染まらず、他者へ攻撃的な言動を見せることがない。人は追い詰められれば本性を現します。どれだけ優しさの皮を被っていても、自らに危険が及ぶや否や他者を身代わりにしようとする人間も多くいます。だけど貴方は、穢れを他者へ振りまいていない。今の状態でさえ他者の痛みに心を向けることが出来る。掲示板で殺された動物の張り紙を見て、貴方は『酷いこと』と言いました。その狂気が自分に向くことを恐れる人間は『怖いこと』と言います。自分のことしか考えない人間は『今はどうでもいいこと』と言います。それなのに貴方は、『酷いこと』と言いました。自らが追い詰められ、胡散臭い僕なんかに頼るような現状にもかかわらず、害意に引き摺られることなく、人として真っ当な他者への痛みを口にした。だから、貴方はいい人だと僕は判断しました」
淡々と口にされた、手放しの賞賛にぽかんとなる。次いで、じわじわと胸と頬が熱くなる。くすぐったいような、照れくさいような、暑さに茹でられているような、その全てのような気持ちがじわじわと広がる。
それらの感情が爆発的に広がらなくてよかった。もしそんなことになってしまったら、興奮してのぼせ上がりそうだ。
「ひ、火六さんって、凄く、何というか、人誑しです」
「初めて言われました。あと、貴方はベランダの男が擦り付けようとした穢れがつこうとした形跡はありますが、それ以外に悪意を持ったものは何も憑けていないので、特に悪いことをしたわけじゃないんだろうなと思っただけです」
「火六さん、たぶんそれ言わなくていいことです」
「そうですか」
「そうですよ! 褒めてくれたところで止めてくれていいんですよ! そうしたら私、勝手にうぬぼれますから!」
「すみません。あと、掃除終わりました」
「ありがとうございます! お茶とお水、どっちがいいですか!? あと、お昼どうします!? もう食べてますか!?」
これは、照れてしまった自分が恥ずかしいやつだ!
私は、軍手を外した左手でぱたぱた頬を仰ぎつつ、右手で靴下を脱ぐ。火六さんも靴下を脱いで部屋の中に上がる。袖を下ろすような動作をしていたので、袖が捲れてしまったのかもしれない。それなら捲ったままにしておけば少しは涼しかっただろうにと思う。
今度は火六さんがバケツを持ってくれたので慌てて受け取ろうとしたら断られた。ついでに手も洗いたいそうだ。私も洗いたい。窓と鍵を閉め、部屋の奥に移動する。
「昼は、食べていません」
「じゃあ、何か召し上がりますか? ……といっても、本当にろくなものがないんですが。料理する気にも、なれなくて」
「僕も一人暮らしですが、暑さで料理する気になれません。そもそも、一人暮らしだと自炊のほうが高くつく場合がありますし」
「あ、分かります分かります。上手な人って何回分か纏めて作って置いておけるらしいんですけど、私多めに作って全部食べちゃってました。それとか、カレー作ったら延々一週間カレーがなくならない事態に……」
「僕はカボチャのあんかけが大惨事でした」
「大惨事」
「朝昼晩食べても無くなりませんでした。しかもまずかったです」
「それはつらい……」
料理に慣れていない一人暮らしの苦悩をしみじみ分かち合いながら手を洗い、その流れで冷蔵庫を開ける。洗面所から部屋までの動線に台所があると、こういうとき便利である。ただし、お風呂上がりにアイスを食べやすくなるので、ダイエットと便利は同居できないとしみじみ悟った。
冷蔵庫を開けるといっても、実際開けられたのは冷凍庫だ。冷蔵庫には飲み物しか入っていないのである。まともに考えられないし、料理する気力もないとなると、もっぱらお弁当か冷凍食品、またはレトルトのお世話になるのだ。お弁当も、夜に外へ出ることは憚られたため、結局冷凍食品が多かった。
火六さんは、みちっと詰まった冷凍食品をまじまじ見つめる。
「凄い量ですね」
「……近くのスーパーが、昨日、冷凍食品半額の日だったんです」
「どこですか?」
火六さんが食いついた。
まさかの食いつきに、一人暮らし同士としての使命感が沸いた。
彼はきっと分かっている。何か食べようと思ったとき、冷蔵庫が空っぽのむなしさを。誰かが買ってきてくれることがないので、自分が買わないと冷蔵庫は延々と空っぽのままで。冷凍庫に何かがあるときの喜びを、安堵を、彼は知っているのだ。
「昭和スーパーっていうんですけど、毎週水曜日が冷凍食品半額です。火曜日はお肉が安く、木曜日はハム・ソーセージが三割引です」
「耳よりな情報提供ありがとうございます……一つ聞いてもいいですか?」
律儀に丁寧な礼を言ってくれた火六さんは、冷凍庫の中を指さした。そこには、ラップに包まれた薄黄色の物体がみっちり詰まっている。
「冷凍庫の一角を占拠しているこれは何ですか?」
「ホットケーキです」
「ホットケーキ」
「ホットケーキミックスが安い日にまとめ買いし、休みの日にまとめて焼き、まとめて冷凍しておけば、朝ご飯に早変わりします。食パン焼くより時間がかからないので重宝してるんです」
「成程。これは?」
次いで指さされたものは、これまたラップに包まれた薄黄色の物体だ。ホットケーキより色が薄い黄色である。
「これはバナナです」
「バナナ」
「はい。切って冷凍したバナナを牛乳に放り込め、適当に潰せば即席シェイクもどきになります。暑くて食欲ない朝でも流し込むだけなので食べやすいですし、バナナと牛乳なのでカロリーもそれなりに取れて腹持ちもいいので、これまた重宝します」
「大変勉強になりました」
それが本心かどうかは分からないけれど、そう言ってもらえて悪い気はしない。一人暮らし仲間として、便利情報やずぼら情報は是非とも共有していきたい。
だが、何はともあれ今はご飯だ。
「どれ食べます?」
「このスパゲティは初めて見ます」
指さされたのは、私もこの前初めて食べた新商品だ。おいしかったので追加で買ってきた物である。
「おいしかったですよ。トマト系が好きならおすすめです」
「じゃあ、これをお願いします」
「はーい」
紙の器の中に入っているタイプだから、袋を開けて上のビニールをちょっと剥がせば準備完了だ。慣れた動作をさっさと済ませて冷蔵庫の上に乗っているレンジに突っ込む。スイッチを入れた間に、自分の分を選ぶ。
「このトマトリゾット、食べたことあります? 私まだなんですよ」
「あります。おいしかったです。上にチーズが乗ってるんですが、そんなに癖がないです」
「あ、よかった。たまに苦手なチーズがあるんですよ。じゃあ、私これにします」
スパゲティが出来上がったら即リゾットを入れ、リゾットが出来るまでにコップとペットボトルのお茶を用意する。リゾットも完成し、二人でテーブルに向き合う。
「じゃあ、いただきましょう」
「ごちそうになります」
「冷凍食品にそれを言われると心苦しい気もします」
「企業が本腰入れて研究して商品として提供してるんですから、莫大な金額がかかった結果生み出されたものです。ごちそうです。たまに好みに合わないものもありますが、それは嗜好の問題ですし」
「確かに……あっつぅ!」
チーズが熱かった。だがおいしい。
さらっとしているのに濃いトマトの味に、しっかりしているのに存在を主張しすぎないチーズ。これはおいしい。当たりだ。次も買ってこよう、半額の日に。
火六さんを見れば、黙々と食べているので口に合ったのか合わないのかいまいち判断がつかない。一定のペースで食べ続けているので、口に合わないわけじゃないのだろうと思えるが、合わなくても黙々と食べそうな印象があるのでよく分からない。
「どうですか?」
分からないので聞いてみた。
「おいしいです」
「よかったです」
おいしかったようだ。
ほっとする。おいしいと思っている物を勧めたら、相手にとって今一だったとき、微妙に反応に困るのである。それこそさっき火六さんが言っていたように嗜好の問題で、そういうこともあるのが普通であるが、なんとなくお互い気まずい思いをするのだ。
「火六さんはこのお仕事が家業だって言ってましたけど、いつ頃から開業されてるんですか?」
「正確には分かりませんが、飢饉や百姓一揆が普通にあった時代からだそうです」
「………………かなり昔ってことじゃないですか!」
あまりの規模に一瞬固まってしまった私の叫びに、火六さんは淡々と答えた。
「かなり昔です」
「はぁー……凄い世界もあるんですね。そんなに続いているお仕事なのに、私、職種自体全然知りませんでした」
「平和が一番です。ごちそうさまでした」
黙々と食べ続けていた火六さんが先に食事を終えた。そんなに時間を空けずに私も食べ終わる。量があるものでもないから、食事に時間はかからない。