4怪
家に至るまでの道中は、意外にも楽しく過ごせた。火六さんは無駄口が多いタイプではなかったが、話しかければ必ず答えてくれた。私はお喋りな方なので、沈黙はほとんど落ちることなく歩を進めた。
「プリンはとろとろと固焼き、どっちが好みですか? 私は昔ながらの固焼き派です。まあ、とろとろのも好きなんですけど」
「僕も、どちらかというと固い方が好みです」
「あ、それならおすすめのコンビニプリンがありますよ。……つかぬことをお伺いしますが、メロンパンはしっとり派か、それとも……」
「さっくり派です」
「カステラのザラメは」
「無いと物足りない派です」
最後に一つ禁断の質問を試みる。一歩間違えば戦争だが果たして……。
「里の者ですか、山の者ですか」
「山の民です」
「同士だ……火六さんとはおやつの嗜好が合いそうです」
「全くです」
最近は雨も少なく、日は強い。カンカン照りで熱されたコンクリートの道路にぽつぽつある水溜まりを視界の端に収めながら、会話を続ける。歩いている道から少し逸れた場所にあることが多いので特に気にしなかったけれど、一つ小さめの水溜まりが進行方向にあったのでひょいっと避ける。
「火六さん、そこ水溜まりがあるんで気をつけてください」
「はい」
火六さんは跨がず逸れることで水溜まりを避けた。
初めてこの部屋を見たときは心が踊った。これからここで暮らすのだと、わくわくした。一人っきりの不安よりも一人の自由に浮かれたものだ。
建物も、青空と一緒に記憶されているから、いつ思い出しても記憶の中のアパートは快晴だった。
なのに、ここ最近はずっと暗雲が立ちこめた空にそびえるアパートしか思い出せない。今日だって太陽はうんざりするほど晴れ渡り、地上を歩く人間達を炙っているというのに、今にも雨が降り出しそうな暗鬱な雰囲気を感じてしまう。
「ここですか?」
「はい、ここの三階です」
火六さんは少し癖のある長めの前髪と眼鏡の奥で見えづらい目を、きゅっと細めた。その視線が三階のベランダに固定されている。
「何か、見えますか?」
「いえ、まだ。今のところ昼は出ていないと伺ったので、とにかく直接ベランダを見たいです」
「分かりました」
ベランダ側からアパートの正面へと回る。こっちを見上げれば、廊下の手摺り越しに等間隔に並んだ扉が見えた。
アパートの入り口は自動ドアではないものの、鍵つきのガラス扉で管理されている。開けるときは手動で開けなければならないが、オートロックなので扉さえ閉めてしまえば鍵をかける必要はない。ここには二枚の扉があった。一枚目は鍵のかかっていない扉。そこと鍵付扉の間に住人達の郵便受けが並んでいる。
郵便受けを確認したら、警察の方から見回りの報告が入っていた。暑いから水分をしっかり取ってご飯を食べるようにと書かれていた。本当に、いつも気にかけてくれてありがたい。
ガラス扉の鍵を開け、火六さんを招き入れようと振り向く。彼は、何やら壁をじっと見ていた。
「橘花さん、掲示板の張り紙見ていますか?」
「そういえば最近それどころじゃなくて全然でした」
ゴミ出しの仕方などが変わっていることもあるだろうから、ちゃんとチェックすべきだった。いくら自分が追い詰められていたとしても、ルールを守らなくていい理由にはならない。沢山の人と同じ建物で暮らす以上、各々が気を遣わねば、壁一枚なんて目隠し程度の気遣いにしかならないのだ。
掲示板には何枚か張り紙が貼られている。ずっと貼られていて端がよれている物は既に読んでいた。何せ、私が入居するより前から張られていた物だからだ。
だから比較的新しい張り紙からチェックしていく。電力会社及びガス会社を名乗る不審な電話への注意促し。公演や発表会、お祭りのお知らせ。どれも初めて見ても初めてに思えない、よくある張り紙ばかりだ。
だが、最後の一枚は違った。感嘆符もカラー文字も一切使われていない、淡々とした文字を、火六さんが読み上げる。
「この周辺で首を切られた猫や鳥の死体が頻繁に置かれているそうですね」
「そ、うみたいですね……酷いことを、しますね」
私はそれらを見てはいないが、想像するだけで嫌な気持ちになる。何て酷いことをするのだろう。首を切られていたということは、人間がやったのだ。食べるためではなく、害すために行われた行為だということだ。
不気味さと不快感で眉を寄せた私とは違い、火六さんは顔色一つ変えなかった。黙々と他の掲示物も読んでいた。
アパートにはエレベーターなんてものはないから、階段を上がる。三階の廊下を火六さんを伴って歩く。大学から少し離れた場所にあるこのアパートには、まだ友達も来ていない。呼べるほど仲よくなれていないのだ。だから、それなのに初対面の男の人を連れてきたのは、少し不思議な気分だった。
けれど、危ないとは何故か思えなかった。それは火六さんの少し不思議な雰囲気と、とても不思議な職業のせいだと思っている。
アパート自体はマンションほど大きなものではないので、階段を上がればすぐに私の部屋へと辿り着く。
「ここ、です……けど」
「けど?」
鸚鵡返しされて、私は今更思い出した事実に乾いた笑いを漏らした。
「ちょっと部屋片付けるので待っていてもらえませんか……」
誰かを上げる予定はなかったので、部屋の中は荒れている。最初は頑張っていた掃除も、男が現れ始めてからはそんな気力も湧かずおざなりだ。
苦笑のようなただの愛想笑いでへらりと誤魔化す私に、火六さんはあまり感情の読めない平坦な声で言った。
「僕は気にしません」
「私が気にします! それに、その……ベランダを使えないので、洗濯物を室内に干してるんです」
一応換気扇はつけっぱなしにしているが、窓も開けられないので空気が淀んでしまっているのはもう諦めるしかない。けれど、諦めないでいいものは諦めたくないのである。
火六さんは僅かに沈黙した。
「分かりました。ですが、ひとまず入れてもらえませんか。電気は消したままでもいいので。中を確認せずに依頼人だけで入ってもらうには、少々不穏な雰囲気です」
淡々と言われた内容に頬が引き攣る。さっきからあちこち視線をやっているように見えたのは、やはり気のせいではなかったのか。
「あの……何か見えますか?」
「臭います」
「ま、窓開けられないだけで私の部屋そんな悪臭を!? 扉越しでも分かるくらいにっ……え、もしかして私も臭うとか言います!?」
衝撃的なことを淡々と告げられて、色んな意味で泣きたくなってきた。
お風呂には毎日入っていたし、大学では誰もそんなことを教えてくれなかった。皆、最近顔色が悪い私に気を遣ってくれたのだろう。いい友人達だ。大事にしよう。だけどこういうことは早い目に伝えてくれた方がありがたかった。
自分の腕の臭いを嗅いでみてもよく分からないので、余計に焦燥が募る。必死に自分の臭いを確かめている私に、火六さんは小さく首を振った。
「貴方の体臭や部屋の臭いの問題ではありません。俗に言う怪異の中でも、特に霊異は、臭うんです。すえた生臭い臭いがすることが多くあります。一般人が感じることもあれば、僕達が吐き気を催すほど臭っても一切気づかないこともあり、一概に全てが臭うわけでもないので断言は出来ないのですが」
ひとまず人としての尊厳は守られたけれど、血の気が引くことは避けられない。
「…………どのくらい、臭いますか?」
「自分の身内であれば、どうしてこうなるまで放って置いたと罵るくらいには」
どこか遠くで鳴りわめく蝉の声がやけに白々しく聞こえる。私の日常はこんなにも非日常となってしまったのに、どこまでも夏の日の象徴を演出するかのように変わりなくやかましい。
「話を聞いた限り、中への侵入は許していないようなのですが、臭いが酷い。たかだかひと月程度でこれだけの臭いを発生させたとなると、警戒を強めた方がいい相手だと僕は判断します」
リュックを下ろし、中から透明の液体が入ったペットボトルを取り出した火六さんに頷く。自分ではどうしようもなく八方塞がりとなったから専門家を頼ったのだ。最終的には彼の言うことに従うつもりだった。
洗濯物は……下着を壁画へ向けて干していたことを昨日の夕方の自分に期待するしかない。
こうなるまでは朝か夜に洗って干していたけれど、朝は長い夜を越えて気力体力を使い果たし呆けていることしか出来ず、当然夜は論外だ。必然的に、帰宅してすぐに済ませてしまうしかなくなったのである。
「それ、何が入ってるんですか?」
ペットボトルを指して問う。
「お酒です」
「お酒……おいしいですか?」
「飲んだことはないので何とも。僕は未成年なので購入は知り合いに任せています」
淡々としているがきちんと答えてくれるので好感が持てる。愛想があってもおざなりにされては好感は持てない。好感には必ずしも愛想が必要ではないんだなと学んだ。
扉の前にしゃがみ、いろいろな物を取り出しては中に戻している火六さんの邪魔をしないよう、一歩下がる。何やら選んでいるようだ。商売道具なのだろうが、用途がよく分からない物が多いので秘密道具に見える。
あまり覗き込むのも失礼かなと思い、視線を外した先では蝉が死んでいた。廊下の隅にひっくり返って足を閉じている蝉の死骸を拾う。生きている内はかしゃかしゃと動く足は綺麗に折り畳まれ、二度と動くことはない。乾燥した死骸の軽さに、失われた命は水分だったのかななんてどうでもいいことを思った。
「橘花さん」
呼ばれて、振り向く。
どうやら用意を終えたらしい火六さんがリュックを背負い直している。ペットボトルはケースに入れられ、手首に引っかけられていた。暑いだろうに、首元まできっちりファスナーを閉じたまま、私を見ている。
部屋の鍵を開けなければと、鞄を開きながら近づく。
「あ、いま開けます」
「お願いします。それと、一つお伺いしたいんですが、虫、お好きですか?」
「え? 虫? いやぁ、苦手です。子どもの頃は平気で持てたんですけど、今はもう全然。特に足がカシャカシャしてるタイプがもう駄目で駄目で。どうして昔は平気だったのか不思議です」
「そうですか。でしたら」
そこで一度言葉を句切り、火六さんはゆっくりと手を伸ばした。
私の前で、握られた彼の拳が解れていく。一本一本、ゆっくり流れるような動作で開かれていく指に、どうしてだか酷く魅入られた。
「それ、僕に頂けませんか」
「それ?」
それが何を指しているのか分からず、首を傾げる。鸚鵡返しになった私にいらだった様子は見せず、火六さんの手は変わらず広げられたままだ。
「鍵、ですか?」
「いいえ、いま貴方が持っている物です」
「持っている物……」
呟いて、自分の手に視線を落とす。蝉の死骸がかさりと音を立てた。
もう二度と鳴かない、動かない、乾ききった命の残骸。かつて命だった名残を形に残して、あちこちに散らばった死の形。
「ありがとうございます」
お礼を言われて首を傾げる。
気がつけば、私は彼の手に乾いた物を乗せていた。
彼はそれを無言で持ち上げる。ゆっくりと、けれど明確な意思を持って、地上へと捨てた。
特に意味があるわけではないけれど、落ちていくそれを何となく見送るために廊下から身を乗り出す。もう二度と飛ばないそれは、当たり前の常識に従って地上へと落ちていく。
さっきまで私達がいた入り口が見えるななんて、どうでもいいことをぼんやり思いながら、それが落ちるまできっちり見送る。音なんて聞こえるはずもないのに、地面に落ちたそれがかしゃりと砕けた音を聞いた気がした。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。がちゃりと重たい音がして、鍵が開いた。いつも気が重く、震えるほど怖い扉をゆっくり開ける。
開けた瞬間、あれが中にいたらどうしようと、あれが電気のついていない部屋の中央であの笑顔で立っていたらどうしようと、開けた瞬間目の前に立っていたら引きずり込まれたら目の前にあれがいたらまた笑っていたら笑っていたら笑っていたら。
恐怖に震えながら開けた先には、いつも、何もないのだけれど。
ほら、今日も何もない。
だからきっと今晩も乗り切れるだなんて思えたらどれほどよかっただろうと、いつも思う。
カーテンを閉め切った部屋の中は昼間でも暗い。薄く開けた扉の光が届く範囲だけが明るく、何だかさっきの事務所の階段を思い出す。
入ってすぐの左右の扉に、それぞれトイレと洗面台とお風呂場。廊下に台所と家電。台所と奥の部屋を隔てる扉は、あれから閉めるようになっていた。
私と一緒に中を覗き込んだ火六さんは、ざっと部屋の中を見回す。
「失礼してもいいですか?」
「はい……汚いのは、その、見逃して頂ければ」
「こういう仕事をしていると汚れた部屋は見慣れています。それに、綺麗ですのでお気になさらず。洗濯物はどちらに?」
「あ、お風呂場です」
「分かりました。そちらを見る際には一言声をかけます」
もうこうなったら電気をつけない方が危ない。諦めて、電気をつける。昼間なのでカーテンさえ開けてしまえば電気はつけなくてもいいのだけど、そもそもカーテンを開けられるのなら火六さんに出向いてもらう必要はないのだ。
かちりと、プラスチックの固さが醸し出す音が部屋の中に光を連れてくる。
火六さんはざっと台所を見回し、ほんの僅かに眉を寄せた。慣れぬ料理をする気力がなく、冷凍食品やレトルトお弁当のお世話になっていたのがばれたのだろうか。だが、食べないよりマシだろうと自分を納得させた結果なので許してほしい。
火六さんは扉を開け、部屋に入っていく。ベッド、タンス、冬は炬燵にもなる机とその上にノートパソコン。本棚、座椅子とクッション。家具はそれくらいだ。掃除機はクローゼットに押し込んである。テレビは親戚からもらう予定だったけれど、それも古い品だったから結局もらう前に壊れてしまったらしく、ならばもう買わなくてもいいかと所持しないまま過ごしている。実家では何かとだらだら見ていたけれど、無いなら無いで困ることなく過ごしていた。
あまり視線を向けたくない窓には、ぴっちり閉じたカーテンがある。合わせ目の部分を洗濯鋏で止めたのだ。万が一でも開いてしまわないように、万が一その隙間から向こうが見えてしまわないように。万が一、その隙間から、私が見えてしまわないよう、必死の祈りをこめて、カーテンを閉ざした。
部屋の中を見回した火六さんは、ベランダを確認に行くかと思いきや、一旦台所に戻ってきた。そして、ゴミを置いている場所の、一番小さな袋を指した。
本来ならば冷蔵庫を入れるために作られていたスペースらしいのだが、どうにも幅が合わず、現在はゴミ置き場に使っている。同じ物でも、実家にいた頃とは少々勝手が違う分類がされるゴミに、一人暮らし当初はわたわたしながら不動産からもらった分類表を見ていたものだ。
燃えるゴミ、プラスチックゴミ、缶瓶。大まかにはそんなゴミが多くなる。火六さんは、一番小さな袋を指さした。
「これ、頂いて宜しいですか」
「え……ゴミ、ですよ?」
「はい、ゴミです」
表情も声音も一切動かさず、淡々と言う火六さんに首を傾げる。ゴミなんて、どうするのだろう。ゴミを人に渡していいのだろうか。私の中の常識が、ちりっと不快感を燃やす。
よく分からないまま火六さんが指した袋を持ち上げる。やけに軽い重さの袋は、動きに合わせてかしゃりと鳴った。
「……あの、ゴミなんて、どうするんですか?」
何か嫌だなと思う。だってゴミだ。使用済みの物だ。それを私は今、どうして人に渡しているのだろう。このまま受け取らないで欲しいと思っている私の願いをあっさり裏切り、火六さんはその袋を受け取った。
そして、「ゴミなので捨てます」と、当たり前のように言った。
そりゃそうだ。ゴミはゴミなので捨てるべきだ。特に大仰なこともなく、当たり前のように言い切った火六さんに、私も酷く納得してしまった。
「えっと……じゃあ、お願いします?」
この言葉が正しいのかいまいち疑問だが、自宅のゴミを渡した相手に他に何を告げれば適切なのか思いつかない。
火六さんは一つ頷いて、袋を持ったまま靴を履き直した。
「ちょっと外に出してきます。扉の前にはいるので何かあったら呼んでください」
「はあ……ベランダ、見なくて大丈夫ですか?」
「これを出してからの方がよさそうですので。すぐ戻ります」
よく分からないけれど、この隙にささっと部屋の中を片付けてしまおうと決意する。
小物は箱に適当に詰め込み、服もクローゼットに投げ込んでしまおうと作戦を練っていると、火六さんがくるりと私を振り向いた。
「後でご説明しますし、貴方は今そういう状況ですので仕方がないですが、初対面の人間を部屋に入れてはいけませんし、その場合はご家族なりご友人なりの立ち会いの下なさるべきですし、乞われたからと言ってゴミなんて譲ってはいけないということを思い出しておいてください」
「え」
何を言われているのか理解する前に、火六さんは部屋を出て行ってしまった。がちゃんと重たい扉が閉まった音を呆然と聞く。
閉まった扉をぼんやりと眺める。
「部屋、片付けなきゃ……」
やらなければいけないことを呟き、のろのろと動き出す。何か、嫌なことがあったような気がする。とても不安なことがあった後のように、嵐の前の静けさのように、心臓が嫌な速度で動いている。早すぎる訳ではないが、酷く大きな音で、ゆっくりと、呼吸を奪うほどの強さで鳴り響く。
気怠い身体を叱咤し、何とか片付けを始める。何にこんなに疲れているのか分からない。けれど、人を招き入れるのならせめて下着くらいしまっておかないと。のろのろと風呂場と部屋を往復していた私は、残されたゴミ袋の前で足を止めた。
生ゴミ。プラスチックゴミ。ペットボトル。缶と瓶。紙ゴミとほんの僅かな不燃ゴミ。
それらが入った袋をぼんやり眺める。一通りのゴミはここにある。
それなら、さっき火六さんが持っていった袋には、一体何が入っていたのだろう。