31怪
静かな町並みを、大きな歩幅のまま歩く。人の気配をそこかしこに感じるのは、静まりかえっていてもそこに人がいると知っているからか。それとも、神経がぴりぴりして過敏になっているからか。
森への階段を上る間も、柚木さんは手を離さなかった。
幅が狭く段が高い階段を、疲れた足で踏み外さないよう下ばかりを見て歩いていた私は、一番上に辿り着いたことを前にいる柚木さんの高さが変わらなかったことで気が付いた。
一度、振り返ってみようか。きっとどす黒い雲が渦巻く空が、そしてその色を反映させた海が見えるだろう。それだけだ。
まだ、飛浦さんがこっちを見ているかもなんて思ってはいけない。思いたくない。
迷いながらとりあえず上げた視線は、凍り付いた。
海を背にした私の視線は森へ向いている。階段を上がってすぐにある森はやはり空を塞ぎ、薄暗い道が続く。けれどもう夕方になった。この森でなくとも世界全てが薄暗い。
それなのに、呼吸が乱れる。背筋が凍り、胸がひくつき、肌が粟立つ。
沢山の人が、人型が、いた。
行きにも見た。道に割られた森の中、ぎっしりと人の形をした何かが並んでいた。老若男女の形をしたそれらは、こちらを見て笑みに似た何かを浮かべていた。
今も、いる。行きと何も変わらない。しかし、形相が違う。
どの人型も、憤怒を浮かべていた。
食いしばった歯で唇を噛み切り、目を血走らせ、拳を固く握りしめている。
「な、に……なん、で」
「ああ、怒ってるんですよ」
さらりと答えた柚木さんは、さっさと歩き出す。その手に引かれ、私もこちらを睨む集団の真ん中を歩く。私達が歩く動きに合わせ、人型の視線が追ってくる。
人の形をした何かは、行きに見せた歓喜ではなく、確かな憎悪を持って私達を睨んでいた。
「あの島へ送られた人間は不幸になる。少なくとも、人の営みから外される。そう定義する為に作られた島です。あの島へ関わった者は、必ず何かを欠けさせる。それは命だったり、それまでの生活だったり、繋がりだったり。そして不幸は連鎖する。島へ送られた人間のみならず、島で生まれた人間も、島を見張るという名目で追いやられた、準流刑の人々も。だから、特に不幸にならず何も欠けなかった僕達に怒っているんです。つまり」
喉の奥を冷たい塊が通り過ぎていく。
「つま、り」
「八つ当たりです」
「八つ当たり」
「道連れが来たとうきうき見送ったら、何も欠けずに戻ってきて、悔しさのあまり癇癪起こしている姿があちらになります」
「あちらになります」
すたすた進む柚木さんの歩みに淀みはなく、呆けた鸚鵡返ししか出来ない私もその手に引かれてぐいぐい進む。
「あの……これは、地獄、ですか?」
「地獄だと飲みこまれるものも多いので、こんなに散乱しません」
「散乱」
「ここは淀みです。線路が通り、あちこちから行き来が可能になって尚、淀みで在り続けた。だから、余所から同じ気質を持った存在が流れてきては、ここに溜まっていったんでしょう。簡単に言えば性格の悪い亡者が一カ所に集まって出られなくなっているだけです。何だかごきぶりホイホイを思い出しますね」
「なぜ恐怖に恐怖を重ねて例えてしまったんですか……?」
柚木さんの足は止まらない。もう半分以上走っている。
「ちょっと急ぎましょうか」
「この人達が、危険な存在だからですか……?」
「いえ、終電が」
「終電」
「ここ、一日二本しかないので。五時十七分を逃せば、駅で一晩過ごすことになります」
「いま何分ですか!?」
「五時十三分です」
聞くと同時に走り出していた。
さっきまで手を引いてくれていた柚木さんを追い越し、逆に私が引っ張る。左右から向けられる、柚木さん曰く八つ当りの視線が気にならないわけではないが、人とは終電を前にすれば、他の問題は些事にする生き物なのだ。
それに、終電を逃してしまえばこれと一晩共にすることになる。そんなのは絶対に御免被る。これが怖ければ怖いほど、これを無視して終電という希望目指してひた走るしかない。
あらゆる意味で破裂しそうになった心臓を宥める間もなく、電車が滑り込んでくる。下りてくる人はおらず、乗車するのも私達だけだった。
電車は停車したばかりだから急ぐ必要はないはずなのに、急かされるように飛び込む。飛び込んだ私達の足が一列に揃う時間も待たず、背後の扉は閉まった。舌打ちが、聞こえた気がした。
「え?」
振り向けば、電車はもう動き出していた。違和感を覚える。だって、今さっき停車したばかりではなかっただろうか。私は、目の前に滑り込んできた電車に飛び乗ったのだ。
疲れていて、そう思っただけなのだろうか。それとも本当に発車が早かったのか、それとも、それとも。
本当は、電車はもう来ていて、私は疲れのあまり幻でも見たとでもいうのだろうか。
呆然と振り向く。柚木さんは私と一緒に飛び込んだ。だから当然、背後には誰もいない。舌打ちは、気のせいだったのだろう。
まだ鳴り止まない心臓の音で、放送がよく聞こえない。ふと視線を向けた電光掲示板は、次の停車駅を映しているだけだった。
かたん、かたん、たんたんたんたん。
心地よい音と振動が疲れた身体を揺する。席は沢山空いていたので気兼ねなく座ることが出来た。
そもそも、この車両には私達しかいない。終電がこれで、売り上げとか大丈夫なのだろうかと、他人事ながら心配になった。
だが今は、座れる事実が何より有り難い。
何度か乗り換えなければならないが、最初の乗換駅までまだ間があった。
柚木さんは、腕を組んだまま俯いている。その目蓋はしっかり閉ざされていた。意外と長い睫毛を何とはなしに見る。
眼鏡はかろうじて鼻に引っかかっているも、その命は風前の灯火だ。あと少しの振動で、彼の膝へ落下する。取ってしまいたいが、もし寝ていなければ余計なお世話だろう。
どうしたものかと悩んでいると、視線を向けすぎたのか、長い睫毛が震えた。
そして、ゆっくりと開いていく。若干ぼやけた瞳が私を向き、その拍子に落ちた眼鏡が彼の膝で小さく跳ねた。
「梓さん、辞めないでください」
「ん?」
「バイト……辞めないでください」
睡魔に溶けた声が、瞳が、それでもまっすぐに私へ向けられていた。
生きた人の目は、温かい。それが、私の心に添ってくれた人のものなら尚のこと。
善人が罪を犯さないとは限らない。善人が他者を害さないとは限らない。罪人が悪人であるとは限らない事実と同様に。
真実は必ず暴かれなければならないものだろうか。
少なくとも、私にその意思も無ければ権利もない。私は警察でも裁判官でもない。法は遵守されなければならないが、怪異を裁ける法はない。加害者が怪異である以上、誰も裁いてはくれないのだ。
裁かず、罰さず、時に罪すら信じられず認知されない。存在が認知されていない加害者により齎された悲劇は、被害者が被害者を生み、けれど現実に裁かれる罪の在処は被害者にしかない。
それはとても悔しい。悔しく、虚しく、悲しい。それら全てがない交ぜになって、やるせない。
怪異による事件は、悲しいものが多い。だって死者がいることが前提なのだ。死は取り返しがつかない最たるものだ。そして、悲しい死は、死者も生者も停滞させる。
怪異を専門として取り扱うこの事務所でバイトを続ける限り、このやるせない気持ちは幾重にも重なっていくのだろう。
黙った私をどう思ったのか、眼鏡をかけ直さないままの瞳が見つめてくる。
柚木さんは、言葉で分かり合うより先に瞳で分かってしまう人なので、その辺りがちょっと疎かな気がするのだ。言葉より先に、見つめてくるのである。
でも、大事なことはちゃんと言ってくれるので、基本的には問題ない気もした。若干友達の欲目も入っているとは思うが、総合的には問題ないはずだ。
顔面を取り繕っても全部見えてしまう友達を前に、私は心からへらりと笑う。
「辞めたりしませんよ。だって私、柚木さんと働くの楽しいですもん。仕事内容は、そりゃ、大変なこととか……嬉しくないことも、ありますけど……でも、そう簡単に辞めたりしません。やだなぁ。大丈夫って、言ったじゃないですか。柚木さんがいるなら平気ですよ。何せ、私達は親友ですからね!」
今日勝手に決めた続柄を、胸を張って宣言する。
一応本人からの許可ももらっているから大丈夫だろう。図々しいなと思われたらどうしようと少し心配だが、柚木さんならそう思えば口に出してくれるから安心である。柚木さんは、説明のタイミングと用法用量がずれているだけで、基本的には素直な人なのだ。
だから、まるで子どものようにふわりと笑ったその顔は、彼の本心なのだろう。
私は彼のように、人が心の中で浮かべた表情を垣間見ることは出来ないが、仲良しの友達が浮かべた表情が嘘かほんとかくらいは分かるつもりである。
「そうですね。梓さんは僕の相棒ですからね」
「そうですよ!」
「じゃあ、相棒。帰ったらぽちを洗うの手伝ってください」
「よしきた任せろっ……レポートは?」
「忘れていたかった」
「なんかすみませんでした」
瞬時に虚ろな瞳になった親友は、私の頭にすこんと掌を落とす。それに痛みはなく、ただ柔らかな重さと温もりが降っただけだった。
「まだ時間ありますし、ちょっと寝ます?」
「そうしたいのはやまやまですが、あっちに水死体がいるので」
「ん!?」
「歩いているし、こっちに来るなら一応起きていた方がよさそうです。電車の中でぽちを出すわけにはいきませんし……まあ、寝たら寝過ごしそうなので、ちょうどいいですね」
欠伸をしながら伸びをした柚木さんごしに、隣の車両を見る。
四角く切り取られたガラスを数枚隔てた先に、やけに大きな人がいた。島にも大男はいたが、あの人は縦に長かった。この人は、全体を一回りも二回りも大きくしている。
ただ太っているのではない。膨れているのだ。ぶよぶよした紫混じりの身体を揺らしながら、車内をぐるぐる回っている。その様はまるで、建物内に迷い込んでしまった虫のようだった。
こちらを向いた拍子に目が合いそうになり、反射で逸らす。視線は柚木さんに固定し、いつのまにか冷え切っていた手をぎゅっと握りこむ。
「柚木、さん」
「はい」
「そういうとこだと思うんです」
「はい?」
わっと両手で顔を覆う。
「こっちの心の準備が必要なこと、さらっとぽろっとこてっとぶっちゃけるところがタイミングー!」
「あー……梓さんって怖がりですよね」
「柚木さんが強靱な可能性を忘れていらっしゃる……」
「………………水死体は見た目が派手だから駄目なんですよね?」
「見た目に限らず、幽霊であればとりあえず全部怖い私は、たぶん標準水準だと思うんです」
「え……?」
こっちが「え……?」である。
諸々気になる箇所はあるものの、幽霊への反応は真逆である私達は、同じ年で、料理のレベルが一緒で、同じ事務所で働いていて、食の好みがあっていて、柴犬が好きという共通点がある。
だからまあ、総合的に見ればそれなりにいい関係を築いた相棒だと思うのだ。
今度は私が柚木さんの頭にすこんと手刀を落とす。そして、二人揃って噴き出した。
他に人がいないのをいいことに、背もたれに体重を預け、足を伸ばす。座席からお尻がずり落ちかけるが、落ちていないのでセーフである。横を見れば、柚木さんもだいぶずり落ちていた。
「何はともあれ、一泊で済んだのはありがたいです。レポートに一日取れました」
「着くの深夜になるのは分かってるんですけど、どうします? 事務所寄ります?」
「はい。郵便物は確認したいので」
「了解しました。じゃあ私、その間に家戻って資料と着替え取ってきますね」
「駄目です。深夜に一人で出歩かないでください。タクシー使うので、梓さんの部屋、事務所の順で寄って、僕の家に帰りましょう」
「大丈夫ですよ。徒歩圏内ですもん」
「従業員の安全を確保するのは、雇用主としての義務です」
柚木さんは、こういうところは大変過保護だ。
けれど彼は、理不尽な死をたくさん見てきた人だから。殺された死を、たくさん知っている人だから。
私は、面倒かける申し訳なさはありつつも、あまり強くは言えないのだ。
「すみません、お世話になります。じゃあ、その順で柚木さんとこ戻って、ぽち君洗って、ついでに自分達洗って、洗濯して」
「仮眠して」
それまでこくこくと相槌を打っていたのに、強い主張が挟まった。異論はない。
「仮眠して、で、柚木さんはレポート、私は報告書やりますね。ノーパソ貸してください。レポート終わったら修正と確認お願いします。んで、もし早めに終わったら、お仕事お疲れ様会しましょうよ」
「ああ、いいですね。じゃあ、どこか食べに行きましょう。この間仕事で行ったレストランにしませんか? お礼に頂いたご飯凄く美味しかったですし」
「あそこ、ちゃんとした格好のお客さんが多いお店ですよね?」
「この間買ったワンピースじゃ駄目なんですか?」
「あ、成程。柚木さんナイスです。じゃあ柚木さんは、同じ店で買ったセーターにしません? ……これもある意味ペアルック?」
「ペアルックの定義をどこまで広げるかによりますね」
うとうとしながら、つらつら会話を続ける。
悲しいことがあっても、つらいことを知っても、生きている限り日常は続く。日常はいつだって慌ただしく、苦さを感じる出来事も、幸いを感じる出来事もあちこちに転がっている。
そのどれと折り合いをつけ、どれをやりきれぬまま抱え、どれを忘却し、どれを支えとするか。
人生は選択の連続というのは、きっとこういうことなのだろう。
隣の車両と繋がっている扉が開く。誰もいないのに勝手に開いた扉を、隣の車両にいる人が不思議そうに見た。しかし、すぐに興味を失って視線を外す。世界へ繋がる端末を手にした現代人は、すぐ傍にある情報を熟考する暇がないほど多忙なのだ。
遠いものほど尊く価値あるものに見える。近いものほど安く色褪せて見える。何に重きを置いて、何を蔑ろにするか。その決断が正しかったのか否か。
結果すら知らず過ぎ去ったことに気付かぬまま、人は事象の海に流される。どんなものも、瞬き一つで過去になる。嘆きも喜びも悲しみも怒りも、罪も裁きも未来でさえも。
私は、ゆらゆら揺れながら彷徨う人の形をした何かを思考の端へ追い出し、視線を落とす。
ぬかるみを歩くような、湿った音が響く。すえた臭いと、停滞した塩水の生ぬるく濃厚な臭いが混ざり合う。それが私達の前を通り過ぎていく。
ただ、それだけ。何もしない。何もない。けれど、ここにいてはいけないもの。あってはいけない、もの。
死んだらどこに行くのか、私はきっと、本当には分かっていない。けれど、ここにいてはいけない。それだけは分かる。この世界は生者のものだ。この世界で生を失えば、この世界に存在する権利を失う。
それでも残留してしまう何かは、成程、世界のバグと呼ぶのも頷ける。
だって、こんなにも異質だ。恐ろしさや悍ましさより先に、これは異物だと心が叫ぶ。倫理や道徳、感性や思考。そんなものを通さず、本能が拒絶する。それはまるで、世界の意思のように。
直視する勇気を持てず、落とした視線の先を湿った音と臭いが通り過ぎていく。隣の車両へ移っていった音を聞き、ほっと身体の力を抜く。そして、今度こそ目蓋を閉じる。
触れるか触れぬか曖昧な距離にいる友達は、何も言わない。けれど、確かに生きた人の温度がした。
幸いにも乗り換えを寝過ごすことはなかったものの、到着後の仮眠で盛大にやらかした私達が、お仕事お疲れ様会に出かけられたかどうか。
それは、大嫌いなお風呂に入れられ、尚且つダイエットを敢行されて不機嫌になったぽち君のみが知っている。




