29怪
「さて」
袖を捲った柚木さんの腕は白い。低い位置に生えていた枝を相手に格闘を挑んでいたぽち君は、ぱっと振り返り嬉しそうに駆け戻ってきた。しかし鼻先からその腕へ帰ろうとして、派手にぶつかる。
ひっくり返り、潰れた鼻を前足で押さえてくしゃみを連発した。
「戻れって言ってないだろ。棘が刺さったから取ってるだけだ。お腹が張って眠たくなったのは分かる。でも、もう少し我慢しろ。どうせ奴らはここに近づけないから大丈夫だとは思うけど、見張りがてら遊んでこい」
鼻水をそっと私のズボンで拭ったぽち君は、嬉しそうに一鳴きし、元気よく駆け出していく。眠くても遊べるのは楽しいのだろう。身体をしなやかに使ってぽんぽん跳ねるように駆けている。嬉しそうで大変宜しい。鼻水の件は、三郎太も同じことをやるので、心がほっこり温かくなった。
「さて、やりましょうか。近代風の土台があるお墓じゃないので、やりやすいですね」
「同意していいのかな……あの、寬枝さんは、その……」
「遺体なのは確実ですね。骨になっているでしょうから、肉々しさがない分、抵抗は少ないと思うんですが……大丈夫ですか?」
淡々と話していたのに、ふと心配そうに窺われると、何を差し置いてもとりあえず大丈夫と答えてしまいそうだ。反射で肯定して、後で出来ませんでしたとならないよう、ぐっと堪えて自分に問いただす。結論は、自分でも意外なほどあっさり出た。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。怪異は、そりゃ、怖いですけど……でも、死んでしまった後とはいえ、触るのを怖がられたり嫌がられたりしたら、悲しいです。分かっていても、私だったらつらいです。……大丈夫です。ちゃんと分かっています。だから、早くおうちに帰してあげましょう」
最初から分かっていたことだ。誰よりそれを望んでいた木賀矢さんが諦めているほど、もう誰も、彼女が生きているとは思っていない。
あの頃のまま生きていたら、それはもう、人間ではない。彼女の生は連れて帰れない。最初から分かっていたことだ。生を連れ帰れないなら、そこにあるのは遺体だけだ。分かっている。最初から、分かっている。
柚木さんは頷いた。相変わらずの無表情だったけれど、どこかほっとしているように見えた。
子ども達も大男も、ここには現れない。
ぽち君は相変わらず揺れる枝や草に勝負を挑み、前足で弾き、飛びかかり、しなりで帰ってきた衝撃に負けていた。
柚木さんが鞄から取り出した二本のスコップの内、一本を借りる。よしやろうと覚悟を決めた私の前に、マスク、ゴム手袋と、次から次へと装備が出てきた。
「墓土は特にですが、土を掘るときは出来るだけ露出を少なくしてください。獣の糞尿や、普段は地上に出てきていない菌が舞い上がりますので、耐性がないと思わぬ病を招きます。本当はゴーグルもあればよかったんですが、すみません、以前仕事で割られたのを忘れていました」
その以前の仕事について問うていいのか問わぬほうがいいのか。問わぬほうが自分の為だなと思い、礼を言って受け取るにとどめた。
「スコップも、大きな物がよかったとは思うんですが……」
「流石に畑とかで使うあのおっきなのは持ち運べませんよ。それに、スコップいるって分かってたんなら教えてください。他のも、私、自分で持ってきますから」
「備品は消耗品含めて事務所で用意するものです」
「ホワイト企業過ぎて、私、将来ここ以外に就職できる気がしない……」
「うちの事務所がホワイトなんじゃなくて、こんな当たり前が遵守されていない企業が異常なんです」
確かに。
「でも、うちに就職してくれるなら大歓迎です」
「あははー……考えておきます」
しゃがみこみ、さくっと土にスコップの先端を差し込む。思ったより刺さらず、両手で持ち直す。草の根を掻き分け深くまで刺し、根こそぎ掘り出す。薄く広く伸びた根ごと、もそっと土が持ち上がる。その塊を地面に下ろし、スコップの先端で解す。
小石とミミズと……他には何もない。土を取り除いた穴を覗いても、引き千切られた根がぴょんぴょん飛び出ているだけだ。ほっと息を吐く。いきなり骨が出てくるとは思っていなかったが、やっぱりほっとした。
二人で並んで、本格的に掘っていく。
「でもやっぱり、今回はちょっと至れり尽くせり過ぎですよ。私、おやつ食べただけな気がします」
「……僕だって、梓さんが辞めてしまう可能性のある現場なんて見せたくないですし、緊張してたんです」
ぽつりと呟かれてびっくりした。緊張するほど気を遣ってもらっているとは知らなかった。
でも、それはそうかもしれない。私が入るまで、この事務所は柚木さん一人でやっていたのだ。人手不足の中に舞い込む繁忙期。出会ったばかりの柚木さんは、睡眠不足で極限状態だった。
「一人で事務所掃除するの大変ですもんねぇ」
しみじみ頷く。
「それもありますが、友達と二人で仕事するの、楽しかったんです。だから、一人に戻ると寂しくなりますし、嫌だったんです」
「…………凄い。柚木さん今の、凄い、なんというかこう、きゅんとしました」
「何がですか?」
「柚木さんって基本的に素直ですけど……素直って可愛いですねぇ」
「はい?」
私、一生ここでバイトしてたらどうしよう。今は一年生だから気にしていないが、就職先を探す頃になったら、本格的に悩みそうだ。さっきの正社員へのお誘いは冗談なのか本気なのか、悩ましいところである。
一度掘り返されていたからか、それとも元々ふかふかだったのかは分からないが、土は軟らかかった。
だからか、一つ目の目標を掘り当てたのは、思っていたよりずっと早かった。
かつんと先端が何かに当たる。また石かと思ったが、それにしては柔らかい。首を傾げて力を篭めると沈んでいく。
「柚木さん……あの、何か」
「ありましたか?」
「それは分からないんですけど、何か」
骨、にしては柔らかいと思うけれど、骨をスコップで触ったことなんてないから分からない。だけど土じゃなく、石でもないと思うのだ。私の手元を覗き込み、自らもスコップを当てた柚木さんは一つ頷いた。
「梓さんはちょっと下がっていてください。ぽち!」
呼ばれたぽち君は、丸まって眠ろうとしていた身体をバネのように跳ね起こし、笑顔で駆け寄ってきた。そして指示を待たずに地面を掘り始めた。掘るというより土を周囲へ跳ね飛ばす行為が楽しいようで、あっという間に湿った土が散乱する。結果的に掘っているので問題ない。
ぽち君の凄まじい勢いにより、それはすぐに姿を現わした。木だ。自然に生えているものではない。人の手が入り、人の手によって制作された、木の蓋。
棺桶の、蓋だ。
私が見慣れた、というほど見慣れているわけではないが、すぐに思い浮かべることが出来る長方形のものではない。丸い、桶状になった物だ。
座棺。火葬が主流になるより前、土葬が主だった自体に使われていた形式である。
その蓋が少しずれていて、思わず一歩下がった。掘り起こした衝撃でずれたのか、それとも元々空いていたのか。こういったものは、縛ったりしないのだろうか。分からない。その知識が、私にはない。
分かっていた。これを掘り出そうとしていた。それなのに、それが何か理解した途端、罪悪感にも、後悔にも、苦痛にも似た何かが胸を満たした。
私が立ち竦んでいる間に、柚木さんはあっさりとそれに手をかけた。蓋をずらし、いつの間にか用意していたペンライトで中を確認する。
「いきなり当たりましたね。大男の墓のようです。寬枝さんはいないようです。それに、この浅さで獣に荒らされていないところをみると、やはり他は故意ですね。自分達が近づけないから、獣を使って骨を運び出させ、行動範囲を広げたのでしょう……そうなると、荒れた墓を直した誰かがいますね。ここ、端に縄がありますから縛っていたのを誰かが開けています。土も軟らかい。掘り返した後、戻して、最低限整えています……善人とは、難儀な生き物ですね」
相手が何であれ、何をしたのか知っていて、荒れた墓を放置できなかった人がいた。荒れているとはいえ、掘り返し、墓を暴き、その上で直す。大切な人を奪った相手の墓を、それが墓であるという事実のみで整える。
ある人は無意味と呆れるだろう。ある人は馬鹿馬鹿しいと憤るだろう。ある人はお前が暴いたのだろうと嘲笑するだろう。そのどれもに賛同する人がいるだろう。そのどれもが間違いではないだろう。
だけど、それはきっと、愚かしく意味がない故に愛おしく、尊ばれる何かだ。目に見えぬが失われては寂しいもの。形にならぬが損なわれては虚しいもの。それを信じられる内は、生きる道が少しだけ美しいもの。
「次、いきましょう」
蓋を戻した柚木さんが、マスクの下で吐いた小さな息の音が、聞こえた気がした。
その隣の墓は、大男の墓よりも簡単に掘り出せた。さっき見たものより格段に小さな大きさを見て、胸が詰まった。何をしたかは別として、人が死ぬのは苦しいことだ。そして、それが小さな子どもであれば尚のこと。
「いませんね。次にいきましょう」
「はい」
だからこそ、眠るならせめて穏やかに。
墓を掘る。死者を探して、ひたすらに。
四つ目の墓の中を確認した柚木さんが振った首に、どっと疲れがのし掛かった。後、まだ半分。いや、もう半分。
「一旦休憩しましょう」
手袋を外した柚木さんから、除菌ウェットティッシュが渡される。同じように手を拭いた私は、ペットボトルのお茶を飲み干した。
「梓さん、差し迫ったお知らせです」
「はい?」
一息ついていたら、淡々とした声で呼ばれた。
振り向けば、携帯を見ていた柚木さんが私を見た瞬間だった。くるりとひっくり返された待ち受け画面には、ぽち君を挟んだ私と柚木さんが写っている。
この前会話の流れで、一緒に撮った写真が一枚もないと言ったら、吾川さんが撮ってくれたのだ。ちなみに私の待ち受け画面もこれである。ホーム画面は三郎太だ。
「現在、時刻は約十三時。山を下りるのに、急いでも三十分。この島から本島まで一時間半。港から駅まで歩いて二十分。駅の最終が十七時四十八分。木賀矢さんが話を通してくれているそうで、飛浦さんはいつでも船を出してくれるそうです。それは有り難いのですが、この島から港までの時間も考慮して、後二時間程で作業を終えないと間に合いません」
「……レポート」
「はい。ご迷惑をおかけしてすみません、レポートです」
私達の間を、木枯らしが吹き抜けていった気がした。
飲み干したペットボトルの蓋を閉め、無言で鞄にしまう。私と柚木さんは顔を見合わせ、深く頷いた。
葛藤とかやるせなさとか、そういったものはひとまず置いておこう。私達は頭を空っぽにして、墓掘りに精を出した。疲れたら形を保てず靄に戻ってしまうぽち君も、温存していた力を使ってフル稼働だ。
幸いと言うべきか、島に着いてからあれだけ登場していた幽霊達は一切出てこない。地獄では相変わらずぽこぽこぽこぽこ湧いては出て、出ては押しのけられてと、登場にいとまがないが、地上は静かなものである。
最後に大決戦とかあるのかなと、こっそりびくびくしていたのでほっとした。幽霊達には、山場もフラグも関係ないのである。そこにあるのは、彼らの感情から紡ぎ出された行動と、どうしようもない摂理だけだ。
手慣れてきてしまった動作で六つ目の墓を開けた柚木さんは、深く息を吐いた。
「いました。大丈夫なら、どうぞ」
それを目指して掘ってきた。それを目指して進んできた。それなのに、いざ目的のものが現れれば躊躇してしまう。けれど、柚木さん一人で寬枝さんの骨を取り上げるのは大変だ。
だから、ぐっと顎を引き、一歩踏み出した。掘り返した土はふかりと軟らかい。さっきまで何も思わず踏みしめていた感触がやけに鮮明に心を揺らす。
私の意思を把握した柚木さんは、小さな棺桶を跨ぐように立ったまま、私に手を差し出してくれた。荒れた地面で滑らないよう気をつけつつ、その手を借りる。
掘ったばかりの地面は、土が軟らかく、また土の位置が定まっていない。ちょっと体重が乗っただけで崩れてしまう。足を乗せた場所が僅かに崩れ、思わずその手に力を篭めた。
それでもその手はぶれなかった。小柄だけれど、柚木さんはやっぱり男の子なんだなぁと羨ましく思う。同じスコップなのに、土を掘るのも早かった。
筋肉か。筋肉の問題なのか。男女間の差別はいけないが、区別はつくものだ。しかし筋肉があれば差は少なくなるのではなかろうか。
体重をかけてしまっても全くぶれない柚木さんに今は甘え、態勢を整えるまで手伝ってもらった。最悪後ろに尻餅をつくつもりだったが、全く問題なかった。
態勢を整えている間に、無理矢理整えた気持ちが乱れぬうちに、蓋の中を覗き込む。
最初は、よく分からなかった。小さな桶に、沢山の白が詰まっていたからだ。
すぐにそれが、子どもの骨と、寬枝さんの骨だと分かった。白といっても茶が混ざったそれと、ぼろぼろになった服が絡み合い、もつれ合い、どちらがどちらか分からない。
胸に、硬い何かが詰まったかのようだった。二人なんてとてもではないが入れない小さな棺桶に、成人女性と子どもが入っているのは死者だからだ。その事実も、殺した相手と殺された相手が一緒に入っている現実も、苦く、苦しく、やるせない。
柚木さんは土で汚れたゴム手袋をつけかえ、鞄から取り出したビニール袋を二つ広げた。その上に、棺桶から取り出した骨を並べていく。からからと鳴る骨は、あっという間に山になっていく。
そこにぽち君が鼻を突っ込んだ。慌てて抱き留めようとした私を、柚木さんが止めた。
「大丈夫です」
示された先で、ぽち君は骨を銜えて、まだ何も乗せられていないビニール袋の上へと置いた。
「そっちが寬枝さんです。よければ、ぽちを手伝ってやってください。小さな破片は運びづらいので」
「は、はい!」
どうやらぽち君は、寬枝さんの骨と子どもの骨を嗅ぎ分けているようだ。膝をつき、ぽち君が嗅ぎ分けた骨を震える手で掴み、隣のビニール袋へと移す。
軽い。なんて軽いものだろう。
骨は、人体の中で硬い部位の上位に当たる。それなのに、薄く、柔く、なんて脆いのだろう。触れただけで砕けてしまいそうで、解けてしまいそうで。それが酷く、さみしかった。
茶色と黒で汚れた薄紅色のスカート。黄ばんだ白のブラウス。柔らかく笑う寬枝さんに、とても似合っていた。
どれだけ噛みしめても、熱い滴が目元から溢れ出す。土で汚れた袖で顔を拭うことも出来ず、かといって手袋を外して作業を中断するのも憚られた。
誰に咎められることもないのに、誰より自分が受け入れられない。
小さな手が、手の形をした骨が、取り出される。これはほぼその原形をとどめていた。その手は、一回り大きな手を握りしめていた。柚木さんはその骨を私にもぽち君にも渡さず、子どもの指を一本ずつ剥がし、解放された寬枝さんの手首のみを彼女の骨の中にそっと置いた。
私達は互いに何も言わなかった。そのまま、作業を開始する。
ばきん。
吹けば飛びそうな軽い音が響く中、言葉少なに作業していた私の耳に、一際大きな音が響いた。顔を上げれば、柚木さんが手に何かを握っている。両手でそれをへし折ったらしい。
片手にはそれの片割れと一緒に子どもの手首が握られている所を見ると、どうやら子どもの手が握っていた物のようだ。
「柚木さん?」
「お気になさらず」
「はあ」
さっと片手に纏められたものは、木の板に見えた。柚木さんはそれを私には渡さず、自分のポケットに突っ込む。
その拍子に見えてしまった。
そこにはひらがなで「たちばなあずさ」と書かれていた。恐らくは、木賀矢さんの字で。
名前は自由度が高いから。正確な漢字、分からなかったのかなと、思う。それだけを思う。
怒りは、ない。
「これで終わりです」
最後の欠片を取り出し、底を撫でて欠片を最後まで確認した柚木さんは、棺桶に入れていた上半身を起こした。それに手を貸し、両手で引っ張り上げる。一秒でも早く、そこから出てほしかった。
使用された棺桶の中に友達が顔を突っ込むなど、気持ちのいいものではない。
「梓さんは、ビニールごとでいいので寬枝さんの骨をそっちの風呂敷に包んでください。ぽちは戻れ」
子どもの骨の前で伏せをし、尻尾をぷりぷり揺らし、若干匍匐前進で前へ進んでいたぽち君は驚愕の視線を柚木さんへと向けた。
自分が食べていいものだと信じて疑っていなかったのだろう。だが、残念ながら仕事後のぽち君に与えられる物は、ダイエットと風呂の事実である。さすがに可哀想なので、ダイエット直前キャンペーンのおやつは支給されるが、それは今ではない。
きゅぅぅぅぅんと、どこから絞り出したのかこっちまで切なくなる泣き声を上げながら、ぽち君の姿は黒い靄となる。柚木さんの白い腕に収容された後も、不満を隠しきれずもぞもぞ動いている。黒い染みが蠢いている様は、事情を知らなければ不気味なのだろう。だが、事情を知っていれば可愛さしかない。
思わず撫でてしまった。全くの無意識だった。
「梓さん、くすぐったいです」
「………………セクハラですね!? すみません!」
「いえ、対象はぽちなのに、間に僕が挟まっていてすみませんでした」
柚木さんは本当に人が出来ている。その前に、偶然だが手袋を外していて本当によかった。手が痒かったのだ。
疲れていたとはいえ、ぽち君が可愛かったとはいえ、うっかりしていた。気を引き締めようと気合いを入れ直し、もう一度手袋を嵌める。
脆くなった骨を、下に敷いていたビニール袋でふんわり包む。持ち手を作った袋をそぉっと移動させ、風呂敷の上に乗せ、同じようにふんわり包む。
後ろから、ざーっと軽い何かが流れる音がした。振り向けば、柚木さんが子どもの骨が乗ったビニール袋を持ち、地獄へと流し入れている。
「柚木さん……?」
「はい」
振り向いた柚木さんの手元には、何もない。ビニール袋ごと地獄に堕ちていく。呆気にとられた私の様子に、ゆっくりした声が返った。
「怪異の依代を現実に残しておく訳にはいきませんので。地獄があるならそこへ。そして、地獄ごと閉ざすのが習わしです」
どんなに仲がよくても、同じものが視えても、遠く感じることは沢山ある。気が合わないことも、よく分からないことも、恐ろしく思うことだって、あるのかもしれない。
全てが受け入れられないと、全ての感覚が合わないと仲良くなれないというのなら、世界中から友達という関係は失われるだろう。
子どもの骨に、地獄の住人達が群がる。あるものはそれを砕き、あるものはそれを飲みこみ。骨を奪い合う彼らの身体が歪み、捻れ、欠け、ねじ切れていくのに、一切気にせず、骨に群がっている。
恐らくだが、私がこれを複雑な気持ちになると告げたところで、柚木さんは行動を変更したりしない。
他に安全な策がないのだ。これが一番有効で、安全なのだ。だからこの手段を選んでいるのだと、それくらいは分かる。その程度には、私達は仲がいい。
そして私は別に、柚木さんに行動を改めてほしいわけではない。柚木さんに、私の、自分でもどう思えばいいのか分からない気持ちを慮り、その行動を制限してほしいわけでは、断じて、ないのだ。
それに、きっとこれは、誰かがしなければならないことだ。誰かが、視える人が、視えて立ち向かえる人が、立ち向かわざるを得ない人が、しないと、してくれないと、駄目なことなのだ。何かが駄目になることだ。
私なんかの許可など必要であるはずもなく、それが出来てしまう誰かにしてもらわないと、人の生活が損なわれる。
そんな、何か。
人の営み上、何故か必ず現れてしまう、誰もが出来ることじゃないのに誰かにしてもらわないと困る、そんなこと。
「地獄、閉ざせるんですか?」
全ての気持ちを飲みこんで、質問へと変える。柚木さんは何かを言おうとしていた口を一度閉じた。さっき木の板を詰め込んだポケットとは反対側に手を突っ込み、白い紙を取り出す。そこには絵が描かれていた。
「閻魔大王です。地蔵菩薩はこいつらには勿体ないので、こっちで」
確かに、道端で見かける穏やかでまろやかな雰囲気を持った絵ではなく、厳めしい男の絵だ。しゃくを持ち、どんっと座っている。
「こいつらは自分がない。憎悪も醜い害意も、他者がいなければ成り立たない。自らで発生させる為の自己すら無いからです。他者を覗き、そこに綻びを見つけ、無ければ作り、悪ではないものは悪にして、存在を貶め、その者に価値がないかのように見せかける。しかし、その悪意ですら自分で発生させることが出来ない。他者の一挙一動があってようやく害意を生み出せる。だから、自己のないこいつらは、別の何かを定義すればあっという間に塗り替えられる。紛い物と呼ぶことすら烏滸がましい、後付けの地獄です。ですから、本物の地獄を持ってきて、塗り替えます。ここは地獄の一部だと上塗りすれば、あっという間に飲みこまれる。逆らうすべを、こいつらは持っていないんです。自己保身の弁を持たない。すべもない。だって、それらを語る自己がいないんですから」
ひらりと、白い紙が地獄へと落ちていく。何が落ちてきても、自らを損ねてまで群がっていた地獄の住人達は、大きな口を開けて身体を捩った。
白い紙を、避けている。
他者を、己を押し潰してまで、必死になって距離を取ろうとしている。
「かろうじて人間だった頃には、法と、大規模な何かを主語へと充て、大義名分を作り出せば事足りた。何かへ罪を流せばよかった。けれどもう、今の奴らが掲げられるものは何もない。法は死者を守らない。大義は死者を救わない。現世は死者を厭わない」
そして。
静かに続いた言葉と共に、ひらりひらりと揺れていた紙が、彼らの元へと到達した。
「常世は亡者を忘れない」
仮初めの地獄の中でもがいていた手など忘れ去られるほどの手が噴き出した。
白い手が、黒い手が、赤い手が、青い手が、緑の手が、紫の手が、金の手さえあった。無数の、見た瞬間数えることを放棄する莫大な数の手が溢れ出し、全てを飲みこんだ。引き摺りこんだはずなのに、あまりに数が多すぎて、波が覆ったようにしか視えなかった。
「奴らはただの逃亡者に過ぎない。ここを地獄と定義すれば、ここは閻魔の管轄となる。ならば、全て閻魔に委ねてしまえばいい。後のことは生者にはあずかり知らぬこと。けれど、死後の罪も罪状に加算される。個を無くしても、最初から持っていなくても、罪は分散されず個として計上される。己が積み重ねた罪、他者を傷つけた数だけ陪乗され、地獄で贖え」
風邪の引き始めみたいに、臓器から震え上がる冷たい声だった。
「そのついでに怪異も連れていってもらえるなら万々歳です」
そこはいつも通り、面倒くさがりの柚木さんだった。
怪異も仮初めの地獄も、全てを覆った無数の手は、大口を開けた喉に飲みこまれるように収縮し、掻き消えた。
後には、静かに流れる沢だけが残っていた。水の深い匂いが香り立つ。植物を交えたその匂いは、清廉で落ちつく、心地よい香りだ。けれどそれらは全て、人の気配がないから成り立つものである。
人はいない。ずっといない。ここに、人はいないのだ。
呆然と地獄を見送り、止まっていた息を吐き出す。
「と、もえ、さん」
思っていたより声が震えていて、それに気付いたことで恐怖を自覚した。
「ともえ、さん、どこに。幽霊、ともえさ、どこ、に」
喋っていないと、望まない感情が飛び出してしまいそうだった。叫び出したくて、走り出したくて、泣き喚きたくて、吐きたくて、怖くて怖くて怖くて、悲鳴を上げて泣き叫んでしまいそうで。
手袋を外した柚木さんは、淀みなく歩いてきて私の前に立った。
「大丈夫です。大丈夫。山から下りれば、自然とついてきます。もう、彼女を繰り人形にした存在はいません。ちゃんと、下りてこられます。帰れます。骨を弔えば、彼女がいきたい場所へ、彼女として帰れます。だから、早く帰りましょう。僕らも、帰りましょう?」
その歩みも行動も全く淀みなく、躊躇いもない。なのに、子どもみたいに泣くのを堪える私を見て、弱ったように眉を下げる。
不安そうに、申し訳なさそうに、心配そうに、私の手を引く。その手がどこまでも温かくて、生きた人の音がした。
そのまま、二人で山を下りた。急がなければいけないのに、時間に間に合わなくなるのに、柚木さんは私を急かそうとはしなかった。手は相変わらず引かれたままだった。
ぽち君がいるほうの手だ。そう思えば、掴まれているだけでは足りなくなった。泣きべそかきそうなんだからと誰にともなく言い訳して、その手を握り返してみた。柚木さんは何も言わなかった。
「……私、平気なんです」
「…………そうですか」
「……ほんとですよ」
「はい」
「初めて見るものばっかりで、ちょっと、びっくりしたんです」
「はい」
行きはあれだけ苦労した道は、呆気にとられるほど簡単だ。
道があるから? 怪異が出ないから? 手を、引いてもらっているから? だとしたら、なんとも情けない話だ。友達に先頭を歩いてもらって、おてて握ってもらわないとあんよも出来ない。
これでは、柚木さんは私の友達ではなく保育園の先生だ。
あまりに自分が情けなくて、ばれないよう小さく鼻を啜りながら手を引っ込めようとする。
けれど、柔らかく繋がっている温かな手は、誤魔化しようもないほど力を篭めても離れない。これ以上力を篭めると全体重かけて後ろに傾かねばならず、またそれで離された場合、すっぽ抜けた私は大変悲しいことになるので諦めた。
柔らかな土の上を、草木の根が這い、石が埋まった地面は色んな音がする。上空からも、枝葉が揺れる音、駆け抜ける風の音、小鳥の鳴き声……結構大きな声もするから大きな鳥もいそうだな。鳶かハヤブサか。
森の空気は湿っているのに澄んでいて、世界は騒がしいのに静けさに満ちている。こうしていると、本当に遠足みたいだ。ただし、おやつはもう食べてしまった。
建前の理由はどうであれ、遠足なんて皆で遠出して、お弁当とおやつを食べる行事だ。非日常の空間で、普段と特に変わらないことをして、それが特別になることをいう。
「……お腹、空きましたね」
「そうですね。帰ったら何が食べたいですか?」
「柚木さんと約束したの、全部ですね」
「お腹空いてますし、丁度いいですね」
「一日で食べるつもりだったのは予想外でしたね?」
思わず真顔になって言えば、柚木さんは珍しく、本当に珍しく声を上げて笑った。
繋がったままの手は温かい。遠足は、帰るまでが遠足なのである。




