28怪
遠くからは鳥の声が、近場からはせせらぎが、枝葉が揺れる音はどこか柔らかく、風は涼しく心地よい。
あれだけ幅を効かせていた怪異は消えた森は、少々荒れた形跡はあるがおおむね平和だ。
そんな中、ぽち君は幸せなおやつタイムを終え、遠い目をしている私と柚木さんを無邪気に見上げた。可愛い。心が洗われる。
「……ところで、私達何をしてたんですっけ」
間違っても、骨をふりかけられにきたわけではないはずだ。ちなみに、鼻血はとっくに止まった。汚れた面を折畳み、ハンカチはそっと鞄にしまう。新しいのを買って返そう。
「…………仕事、ですね。大丈夫です。どれだけぐだぐだでも、やっていればいつかは終わるものです」
「あ、ぐだぐだって思ってたんですね」
思っていても口に出していいのか悩んでいたことを、柚木さんはさらりと言ってのけた。
「いつものことですから。僕達の仕事は基本的に、段取り通り済む事なんてありません。予定を建てようが予測をつけようが、なるようにしかならず、出来ることしか出来ません。大抵どたばたですね」
「大変なお仕事ですよねぇ」
だって命懸けなのだ。しみじみ頷く。
「多分、梓さんが想定している大変とは違う理由ですが。そもそも、相手取っているのは衝動で発生し、感情だけで存続しているものです。色々、考えるだけ無駄です。武力が一番早いし有効で、正直大変楽です。何事も臨機応変。勝てば官軍。これに尽きます」
深い溜息で憂いを全て吐き出したらしい柚木さんは、しゃきっと背筋を伸ばした。名残惜しそうに自分の鼻をぺろぺろ舐めていたぽち君も、それを見てぱっと立ち上がる。
「ぽち、先導」
透き通る声でわんっと返事したぽち君が、くるりと回った尻尾を二振りし、ちゃかちゃか歩き始めた。
「水の音がしますし、奴らが一気に襲いかかってきたので、恐らく彼らが死んだという沢が近くにあるのだと思います。地図を見るに、墓もそこにあるようですが、いま襲いかかってきたということは、奴らは墓に近づけないのかもしれません。まあ、事故か故意かは分かりませんが、骨が散らばっているところを見ると、あまり墓として機能していないようですし」
それは、どういうことだろう。そしてその散らばった骨はどこまでぽち君の胃に回収されたのだろう。ご機嫌で尻尾とお尻を揺らす彼の背を見つめる。げふっと満足そうな音が聞こえた。柚木さんと顔を見合わせる。
「手近な物は大抵回収されたようです」
「ぽち君……」
「こいつ、どれだけ餌をやっても、何故か常に飢えてるんです……」
「ぽち君……」
「何だか最近、太ったみたいで……」
「ぽち君っ……!」
ダイエットが必要かどうか、二人でぽち君の後ろ姿を見つめて考える。そんな判定を受けているとはつゆ知らず、ご機嫌にぷりぷり動くお尻が可愛い。
しかしあまりに視線が集中するからか、はたまた私達の会話が途切れたからか、不思議そうな顔が振り向いた。頬にはむにっとお肉が寄り、脇腹にも線が寄る。
「……アウトですかね?」
「……ぽち、帰ったらダイエットだ」
悲しい視線を二人分浴びたぽち君は、注目してもらえて嬉しいのか、くりくりと尾を振り、子犬のような顔でわんと笑った。
道なき道を進むのは、足元がよく見えず、どう気をつけても覚束なくなる。地面を這う蔦や根、段差もさることながら、ちょっとした石ころでも足を取られてしまうのだ。
ぽち君を先頭に、柚木さんの後を歩いているのでだいぶ楽をさせてもらっているのにこの始末。柚木さん曰く、怪異は人里離れた場所が現場になっていることも多いらしいので、山歩きには慣れておきたい。休日にちょっとしたハイキングでも始めてみようかな。
足元が覚束ない山歩きは、総合距離は大して進んでいないのに異様に疲れるものだ。息が乱れ、頬を伝ってきた汗が鬱陶しい。袖で拭い、何気なく後ろを振り向く。
木々の隙間からちょっとだけ海が見えた。町は見えないから、山に入ってからそれなりに歩いたし、それほど歩いていないのだろう。
「梓さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい。まだ全然。柚木さんは疲れてないですか? 警棒ぶんぶんしてましたし」
「慣れてますから。それに、もう着きました」
「ん!?」
足元ばかり見ていたから、周りをほとんど見ていなかった。
森の音は相変わらず穏やかで、大きな音も、不吉な音も、花いちもんめも聞こえなかった。だから一番身近な危険をどうにかしようと足元を気をつけていたのだが。
慌てて顔を上げ、柚木さんが視線を向けている先を辿っていく。そこには、大きく枝分かれした木があった。
本来太い幹があるはずの部分も、枝分かれしている。背の高い草の間から、にょきにょき生えた枝はうねり、若干不気味だ。枝に葉はほとんどついておらず、巻きついた蔦が葉を生やし、イルミネーションのように彩っている。
一見、何本もの木が集合しているように思えたが、視線を下ろしていくことで勘違いに気付いた。木が生えているのは、私達が立っている地面よりもっと深い場所だ。草が生い茂っているから気付かなかったが、木の周辺はぽっかり空間が空いている。
柚木さんに並び、下を覗き込む。
日が届かないからか、そこは私達がいる場所とは少し違った世界だった。生えているのは苔やシダといった、湿った匂いを思い出すものばかり。校舎の影よりかび臭さがなく、住宅の裏よりみずみずしい、そんな世界だ。
目測で三メートルほどの高さだろうか。ぽっかり空いた空間の底には小川が流れている。ちょろちょろというには水量があり、川と呼ぶには心許ない。
草に隠れていた空間に伸びている木は、ちゃんと太い幹をしている。樹齢がどれくらいか判断出来るほどの知識が私にはないが、少なくても私より年下と言うことはないだろう。
立派な木だ。けれど、ここで過去に人が……人と断じていいのか分からないが、誰かが死んだと知っていると少し不気味に思える。
地球上、どこでだって人は死んでいる。分かっている。知っているか知っていないかの違いだ。けれど私は知っているので、しっかり不気味に思えてしまう。
視線を上げると、沢を挟んだ向こう側、木の斜め後ろにお墓があった。かつてはきちんと積まれていたであろう墓石は傾いているものがほとんどだ。これも、無縁仏と恐らく呼ぶのだろう。
長い間手入れもされず雨風に晒されていた表面は削れ、苔むし、文字は読めなさそうだ。
ここに、怪異の元となる遺体が眠っている……と思えば神妙な気持ちになるが、その骨が故意か事故か、あちこちに散らばって怪異が滲み出し、そしてその骨をぽち君が嬉しそうに咀嚼していた現実を知っている身としては、墓として神妙な気持ちで見つめることはちょっと難しい。
かといって、これが無意味な物だと断じて軽んじられるほど、私の中の宗教観は不良ではないようだ。普段深く実感することのないそれが、ふと自分の中に咲いた時、誇らしいような懐かしいような不思議な感覚になる。
草木に埋もれた墓石をじっと見つめても、八人の姿はない。ここは静かだ。
どうしていないのだろう。どこからか様子を窺っているのか、それとも逃げたのか。
しかし彼らの本拠地とも呼べる場所はここだ。そこに私達が来ているのに、逃げたりするだろうか。そんな思考をする存在ではなくなっていると言えばそれまでかもしれないが。
隣からゆっくりした声が聞こえた。
「成程。ここにあったのか」
森の、冷たく緩やかな空気に負けないほど静かな言葉がぽつりと落ちる。
「地獄ですね」
「はい?」
「ここ、地獄です」
ひょいっと指さされた先を視線で追う。その先は、先程まで見ていた小川が流れる穴の底だ。特に何かあるわけではない。さらさらと水が流れ、苔やシダが湿った風に濡れている。水量がないからか、石は尖ったまま転がっていた。
ぽこり。
首を傾げて見ていると、水面で何かが跳ねた。跳ねたと、思ったのだ。魚か何かがいるのかと、それとも、葉や小石が落下したのかと。
ぽこ。
音は可愛い。そう思う。けれど、音を発生させたものが可愛いとか可愛くないとか、そんな次元の話ではないなんて、思わないではないか。
ひゅっと、呼吸のなり損ないが喉から零れた。
水の中から、赤黒い顔が無数に溢れ出した。あぶくのように、孵った卵のように、巣をつつかれた蟻のように。
次から次へと、上を押しのけ、世界を掻き分け、顔が溢れ出す。顔が、大きく口を開け苦悶の表情を浮かべた顔が、爛々と光る瞳だけを見開いた顔が、狂気を模った笑みを浮かべた顔が、溢れ出す。
音が、色が、感覚が、世界が失われる。
悲鳴を上げることすら忘れる恐怖が、身体を満たす。身体の感覚が失われる。私の全てが恐怖に塗り替えられ、思考も感覚も一色に染まった。
これは、人が見ていいものではない。ここにあっていいものではない。この世に、存在してはならないものだと、生き物としての本能が叫んでいる。この世に生きとし生けるもの全ての本能が、これに近づいてはならぬと警鐘を鳴らすだろう。
ああ、これはまさしく。
「ほら、地獄です」
約一名、やけにあっさり恐怖の事実を口にしているのは、どういうことだろう。
力が抜けた膝は、へたりこもうとしていた。へたり込んでしまえばあれに近づいてしまう。それが怖くて、余計に震えてしまった膝が勝手に折れる。
そんな私の肘を掴んで支えてくれた柚木さんは、二歩下がった。
「座るなら石の上にしないと、ズボンが汚れますよ」
たぶんだが、問題はそこではない。
凍り付いていた思考が、のろのろと動き出す。今は土と草の汁で汚れたズボンの心配より、呼吸すら忘れるほどの恐怖に貫かれたからだと心の安寧を優先すべきだと思うのだ。そして、そう思っている時点で私の精神は若干平静を取り戻しているということである。
深く細い息を吐き、身体と心に詰め込まれた恐怖を体外へ排出していく。息を吐ききる頃には、身体中を強張らせていた力は抜けていた。まるで氷を身体に詰めていたように、関節は軋み、身体は芯まで凍っていたから、吐いた息をサーモグラフィーで見たら真っ青になっていたことだろう。
「…………あれ、何です?」
色々考えて、結局これ以上ないほどシンプルになった問いに、柚木さんは特に変化なく淡々と答えをくれた。
「地獄です。正確には、名前がないので地獄と呼んでいるだけですが。昇っていない亡者が情念を燃やしながら、ただそこにある。本来地獄とは悪人が落ち、罰せられる場所。気の遠くなるその先に、いつか許しが訪れるならば輪廻が待つ、最後の救い。しかしこれは、ただ亡者の執念が淀み、塊となり、固定されたもの。集まり、煮詰まり、終わりがない。故に救いは存在せず、未来もない。この世に存在してはならないもの。されど存在しているが故に、害にしかならない、不要で、無用で、悪質で、醜悪なもの。それらに人は名をつけられなかった。だから、己が知る最も恐ろしいものの名をつけた。故に地獄です。まあ、霊能者は違う意味を持って地獄と呼ぶのですが」
淡々と紡がれるものは、きっとこのバイトをしていなければ出会うはずのなかった恐ろしい言葉だった。
音がないのに、亡者の声が聞こえる。
直接頭の中に押し込められるように、呻きが、呪わしい言葉が、声が、聞こえるのだ。そこにあるのは、望みではない。欲ではない。
害意だけだ。
他者を、呪いたい。害したい。傷つけたい。他者が、呪われてほしい。害されてほしい。傷ついてほしい。堕ちてほしい。汚れてほしい。魂の価値を損なってほしい。
己の魂がどれだけ穢れようと、相手が幸いから転げ落ちる方が嬉しいのだと。
昇りたいわけではない。堕としたいだけ。救われたいわけではない。絶望させたいだけ。害意の塊。己を満たすことより、他者を削ることにしか興味がない、害意の集大成。
それは酷く悍ましく、酷く呪わしく、酷く醜悪で、酷く凶悪で。
酷く、矮小だった。
子どもにも分かる言葉に言い換えるならば。
「みっともないでしょう」
天気を告げるように、その言葉は告げられた。
ぽち君は私達の足元でお座りした姿勢を崩し、後ろ足で首元を掻いている。跳ね飛んだ小石が地獄の中へと堕ちていく。亡者達は、隣の眼孔を抉り、口を割き、首をねじ切りながら小石を掴もうと溺れていく。上にいたものが沈めば、すぐに下にいたものが他を引きずり込みながら現れた。
もう小石はとっくにどこかへ行ってしまったのに、互いを欠けさせながら蠢き続けている。
目的の物はもうないのに、害すことが意味となって、蠢き続ける。
「己の生が無いことは嘆かないのに、他者の生は妬ましいんです」
柚木さんは大きな欠伸をして、目元を擦った。眠たそうだ。
「これに意味を与えてはならない。恐れを抱いてはならない。僕らが人である以上、これに意味を与えてはならないんです。ですからこれは、みっともなく、無価値で無意味な物です。そんな物にしか発生できないこれらの巣。だから地獄。これらにとっての地獄。僕らにとっては、新たに名づける意味すらない物。そういう物です。あ、お茶飲みます?」
柚木さんは私の足元に座った。そして、私の手を引いて隣の石に座らせる。石というよりは岩に近い。少し傾斜のある平たい岩はひんやり冷たかった。
「何だかんだとお昼近くなってきましたけど、残念ながらお弁当はないので、おやつで小腹を満たしましょう。はい、どうぞ」
引かれるがまま座ってしまった私は、何故かペットボトルのお茶とキノコを模したお菓子を手に、地獄を鑑賞することになった。ちょっと、意味が分からない。
その前にちゃんと除菌ウェットティッシュを渡されて拭いているので、手は綺麗だ。しかし意味は分からない。
ちなみに私と柚木さんはキノコ派だ。互いに山の民であったことで、無益な血を流さずに済んだ。
チョコレートで手を汚さぬよう、ビスケット部分を摘まみ、口に放り込む。美味しい。しっかりと存在感のあるビスケットと、それに消されずされど自己主張が激しすぎることのないチョコレート。これぞ調和。変わらぬ美味しさは幸せの象徴。
しかし私は何故、恐ろしい恐怖を抱いた訳の分からない地獄を前に、おやつタイムにしけこんでいるのかはさっぱり分からない。
「これの発生原因は分かっていないんです。あちこちにありますし。これがある場所にはそれなりに怪異が起こりますが、これがあるので湧いているのか、怪異があるので湧いているのか。前後関係が分かっていないので何とも。でも実は、これ自体は別に、人をどうにか出来る何かがあるわけではないんです。これは人を殺せない。これは人を害せない。これ自体には何の力もありません。これに意味を与えるのは人間だけです」
恐ろしい。悍ましい。傷ましい。
恐怖であれ、嫌悪であれ、同情であれ。人はそこに意味を見出す。意味を見出されたことで、それが確立するのだとしても、人は感情を消すことは出来ない。
そして、感情を向けてしまえば、意味を見出す生き物なのだ。
「奴らがここで死んだからこれが湧いたのか、これが湧いたから奴らが死んだのか。僕は知りませんし、興味もありません。子ども達が歌っているのは、花いちもんめ。一説では、売られた子どもの歌と言いますね。知ってましたか?」
「……はい。詳しくは、知りませんけど」
大きくなって知ったことだ。懐かしい思い出に付随する、この遊びをしていた時に感じた小さな不安。
かごめかごめ、花いちもんめ、だるまさんがころんだ。
無邪気に遊んだ日、ふと歌詞の意味を考えようとして、その意識を霧散させた。そんな幼い日を、思い出す。
手の中で、ペットボトルが音を立てる。力を入れすぎた。視線を落として、意味もなく成分表を読む。
「奴らの事情を汲んではいけませんよ」
髪の隙間を縫って視線だけを向ける。柚木さんは私を見ていない。まっすぐに地獄を見つめている。
「救われるべきは奴らに殺された魂であり、僕らが連れに来たのは木賀矢寬枝さんです」
幼い子どもを七人も連れた大きな男。子どもと話す時、屈んで目線を合わせる男。子どもを買ったのか、売られた子どもを連れていたのか。生きた人間を一人連れていくのは何故なのか。本当は、もう一人いたのだろうか。それとももう一人いてほしいのか。
分からない。何も知らない。
「奴らが行ったことを調べるのは構いません。対処に必要です。けれど、奴らに何があったのか、奴らが何を思ったかは、知る必要の無いことです。知って、思いが寄らないなら構いません。けれど、想ってしまえば、心を添わせてしまえば、それは奴らに肯定を与えます。この世へ変化を齎す権限を与えてしまえば、その怪異は力を増す。ですから、心優しい人ほど知ってはならないんです」
地獄で人の形をした何かがもがいている。足掻き、もがき、溺れるように周りの人型を掴んで沈めていく。互いが絡み合い、まるで一つの塊だ。
声は聞こえない。何も聞こえないのに、その口は素早く動き続けている。もしも音があったなら、断末魔だろうか、怨嗟だろうか、それとも救いを求めた何かなのだろうか。
「僕は別に優しくはないですし、面倒なので調べないだけですが」
ぽち君は柚木さんの横でおすわりし、おやつのおこぼれを待っている。しかしもらえない気配を察し、しょんぼりしながら私の足に座り、くるりと丸まった。温かい。少し重い。そして、問答無用で可愛い。
「梓さん、この仕事をしている以上、地獄には飽きるほど出会います。これのような暫定地獄にも、文字通りの地獄にも。ですが、心を落とさないでください。そんなものに貴方の心を添わせないでください。貴方の心は、もっと明るく温かなものに溶かすべきです」
ああ、そうかと、理解した。柚木さんはずっと、私に追わせないようにしていたのだ。彼らの事情を、木賀矢さんの事情を。
選ばせてはくれたけれど、深くは追わせなかった。それはきっと、負わせない為に。この仕事を始めて日が浅い私が、深く傷を負う前に、安全な位置から教えてくれていたのだ。
どたばたと怪異に振り回されていても、その現状を改善しようとしなかったのはその為だったのか。
ふっと、自分の口から小さく笑いが零れた。それを見て、柚木さんの肩が若干下がった。どうやら、私が思っていたよりずっと心配してくれていたようだ。
「柚木さん、初めて会った時も同じこと言ってましたね」
「……そうでしたか?」
「はい」
目の前に本能が嫌悪する地獄があって、その傍に何人もの人を飲みこんだ怪異を起こした存在のお墓があって、ここは人気の無い森の中。
だけど、私の隣には大好きな友達がいて、足元には愛らしい柴犬がいて、手の中にはお菓子がある。それだけで、それなりに穏やかにいられるんだなと知った。
「今回も、ぐだぐだですね」
「今回はまともなほうです」
今度こそ声を上げて笑う。
「えぇー」
「霊能者は後手が基本ですから、大体常にぐだぐだです。なあなあで済めば上出来です。今回のぐだぐだなんて、可愛い方です」
「なんてこったい。じゃあ、次の出張でも、地獄を見ながらおやつを食べるんでしょうか」
「遠足みたいですよね」
「モンスターペアレントじゃなくても殴り込み案件じゃないですか、それ」
二人で一緒におかしを口に放り込む。じわじわチョコレートを溶かし、ビスケットと分離させている間に、柚木さんは三つ食べていた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、分かってます。こんなことで泣きべそかいたりしません」
私達の仕事は寬枝さんを連れ帰ること。だけど、それに至るまでの過程で何かあれば、基本的には法に則って対処すること。己の倫理や道徳を、異常を理由に歪めないこと。
一番大切なのは、生きて帰ること。
生きて、日常へ帰ること。
怪異と関わっても、私達は生きた人間だ。今を生きる人間だ。日常を壊すくらいなら関わってはならない。だから断る。相手がどれだけ困っていようと、こちらが懸けるものが命や日常ならば断る。
これは慈善事業ではない。犠牲を前提とした仕事はしてはならない。それが、柚木さんの方針だ。
分かっている。ちゃんと分かっている。
だから私は、怖いものを見ても、恐ろしい思いをしても、このバイトを続けていけるのだ。
「柚木さん、甘いのかスパルタなのか今一分からない教育方針ですよね」
「一族内ではスパルタ寄りに分類されていますが、梓さんには友情割引で甘さ寄りになっているつもりです」
友達になって二ヶ月。柚木さんは、ふとした拍子に予告なく気になる話題をぽろりするから困る。興味津々になって、他の話題を忘れてしまうではないか。
「柚木さん、教育係とかしてるんですか? 似合いそうですね」
「別にそういうわけではないんですが、一族総出でこういった仕事をしていると、自然得意分野が分かれてきまして。医師、税理士、弁護士などを家業としている家もあって、そういう家から僕達のように直接現場に出る実働要員の霊能者が出れば、誰かが教えなければなりませんし。けれど、どこも人手不足でして。手が空いた人間が教えるので、僕も教えているだけです」
成程。火六のおうちがとんでもなく遠い世界の家だとはよく分かった。
「スパルタなんですか?」
「そのつもりはありませんが、泣いて嫌がられることは多々あります」
「多々」
「そうはいっても、基本的に火六の家は、やって覚えろが家訓でして」
成程。よく分かる。泣いて嫌がった側の気持ちが、大変よく。
そして、そういう方針ならば、色々教えてくれながら少しずつ慣らそうとしてくれている現状は、大変甘いのだろう。しかし、それらの基準が全て柚木さんにしてはと枕詞がつくのが問題だ。
「幽霊見え始めて約二ヶ月の女に、はたしてその甘さは甘さになるんでしょうか」
「林檎と蜂蜜が入ったカレーくらい甘いつもりでした」
「うーん……中辛はあった気がしますよ。朝ご飯の」
「今日、茶色い物ばっかり食べてますね」
「あ、ほんとだ」
二人で食べれば一箱なんてあっという間だ。お昼ご飯代わりなのでカロリーも気にならない。ゴミを片付け、絶景とは言いたくない光景を眺めながらお茶を飲む。
「ところで、つぎ何するんですか? ……お墓、掘ったり、します?」
「大丈夫です。掘ろうが掘るまいが、既に敵認定されていますので問題ありません」
「問題しかなくないですかね!」
「どっちにしても祟るつもりがあるなら祟ってきますし。どうせ弾くか消すかするなら問題なくないですか?」
立ち上がった柚木さんと一緒に、私も立ち上がる。どうやら休憩は終わりのようだ。どんな状況でも慣れとは恐ろしいもので、ひょいっと地獄を覗き込んだ柚木さんにつられて、私もほとんど躊躇なく視線を落とした。
「これ、比較的新しいものが上にいるんですが、寬枝さんはいないようで安心しました。それと、あいつらもいませんね。怪異は嫌がることが多いんです、これ」
意外なことを聞いた。だって、これから発生しているのかこれが発生させているのかは定かではないが、これがある場所には怪異もあるとさっき聞いたばかりだ。
「呑まれるからです」
ズボンの汚れを払い、荷を背負い直した柚木さんは、事も無げに言う。
「これは、自らが這い上がる努力はしないくせに、他者を引きずり込むことに文字通り全霊を懸けたものの集合体です。つまり、引きずり込む力に長けているんです」
「でも、さっき、人には何も出来ないって」
「はい。出来ませんよ。人には何も出来ません。人が自分で、どうにかなるだけです」
ぽこんと、また一つ顔が洗われ、他に掴まれて消えていく。
「昨夜みたいな時もそうなんですが、対処法は簡単です。負けなければいいんです。こちらを害したい意思に、視線に、負けず、折れず、弾き続ける。それだけでいい。だって、生きた人間が一番強いんです。死んだ人間は、この世に対して一切の権利がない。そもそも、同じ土俵に立ってすらいないんです。既に退去し、この世全てにおける権利を失った存在は何も出来ません。自分の中でそう定めてください。人が恐れ、傷つき、心折れ、勝手にそれへ近づいていくだけです。人間が奴らに権利を、許可を与えてしまうだけなんです。だから向こうがどんな視線を向けてきても、ふんぞり返って勝者で在り続ける。生きた人間が強い。死んだ人間はそもそも勝負を挑む権利がない。そのルールを忘れなければ、負けることはありませんし、元々勝負にもなりません」
瞳も声も揺れていない。けれど力が籠もっているわけでもない。当たり前のことを、言っているのだ。柚木さんは当たり前のことを私へ伝えている。特別なことではない。気負うようなことではない。
これは、日が昇れば朝が来るように当たり前のことなのだと、言葉でも態度でも伝えている。
「神や妖怪とは違い、霊が作り出した怪異のほとんどは、過去に誰かが許可を与えてしまい、この世への干渉権を持ってしまったものです。干渉権の切符を渡されても、受理しない。それで終了です。霊障が酷いといわれている部屋に霊感が全くない人が入った場合、何も問題なかったりするでしょう? そういうことです。簡単に誰でもできるので、是非実践してください。あ、物理攻撃は避けてくださいね。ポルターガイストで飛んできた物に当たれば怪我しますし」
地獄を前に、地獄のような地獄講習を受けてしまった。
簡単? 簡単って、何だっけ。恐らく私が知っている簡単とは違う単語なのだろう。成程。それなら仕方がない。語学研修から始めたいので、そこからよろしくお願いします。
「それはさておき、人間はそれでいいんですが、奴らはそうではありません。何せ、生きた人間ではありませんから。同じ土俵で戦います。負けると食われます。だから、避けるんです」
「やっぱり、地獄、強いんですか……?」
「そうですね。人数が多いので」
「人数の問題なんですか!?」
「神や妖怪ならともかく、元が人間なら人間の限度があります。増築しない限り、魂の容量は生きていても死んでいても変わりませんから。だったら、数が多い方が強いです」
「はあ……」
理屈は分かる。だが、頭が理解を拒む。これを、そんな当たり前の理屈で判断していいのだろうか。問えば、あっさり頷かれた。
「いいんです。だってここは僕達と同じ現実ですから。あの世のルールをこっちに適用しようとするのが間違っています」
地獄の右側を進み、柚木さんは墓へと向かう。墓は、木の斜め後ろにあるからだ。最早地獄へ視線すら向けていない。
墓は、地獄がある沢より少し高い場所にあった。歩いて登るには少々急で、かといって迂回するになだらかすぎる。時々手をつき、せり出した枝を掴み、坂を登っていけば、簡単に墓の前へ立つことができた。
墓は、遠目に見たとおり草に埋もれている。墓石は一応等間隔に並んではいるが、地面が荒れているからか、ほとんどが傾いている。
「……木賀矢さんかな」
「……え?」
「土がかなり柔らかい。寬枝さんの遺体を探して、掘り返したのかもしれません。あれだけ色々と手を尽くして調べていた人です。直接墓に来ていないわけがありません。しかし、霊能力の無い木賀矢さんでは見つけるのは難しいでしょう。寬枝さんは人の手で隠されたのではなく、死人が自らの領域に引きずり込んでしまったので」
「……寬枝さん、ここにいるんですか?」
「恐らくは。奴らはここに近づけなくても、ここは奴らの基盤です。魂はともかく、肉体はここに収容されるはずです。霊は肉体に縛られる。その霊によって連れ去られた被害者も、霊の肉体がある場所へと運ばれる。何故か、そういうものなんです。しかし怪異として飲みこまれているなら、徒人には見つけられません。ですが、僕らなら見つけられます」
でこぼこになった地面を見下ろす。本当に木賀矢さんが墓を掘り返したのだろうか。一体いつ。一人で? どんな気持ちで。どんな、想いで。
「梓さん」
そう考えかけた思考を慌ててふるい落とす。
「必要以上に心を寄せてはならないのは、人へ向けてもそうです。どんな悲劇があったとしても、それは他者を害していい理由にはならない。他者を同じ境遇へ引きずり込むことに、己の悲劇を理由にしてはならない。その境界を、木賀矢さんは越えました。貴方はそれを許しました。依頼を続けるか否かの決定権は僕にありますが、木賀矢さんへの采配権は貴方にあります。だから僕達はまだここにいます。ですが、僕自身は木賀矢さんの行為を許してはいませんし、許しません」
怪異へ思いを馳せたわけではないが、柚木さんにはお見通しのようだ。
「ここから先は貴方の采配なので僕が口を出す権利はないんですが、許しすぎるのもよい傾向ではないと、僕は思います。優しいのも、他者への理解を深めようとするのも梓さんの美点です。僕は好ましいと思います。ですが、無作為に与えるのであれば、神や仏の所業になります。貴方は人間です。人は、自分の容量以上の物は抱えられません。僕は、貴方が壊れる前に、加減を知ってほしいと思います」
「……はい」
「……その境界が自分で難しければ、その判断基準に少しだけ僕を混ぜてください。貴方が身代わりとされたこと、雇用主として思うところはありますし、友達として怒っていないわけでもありませんから」
優しいのは多分、私ではなく柚木さんなのだろう。
私は、分かりやすいだけできっと安っぽい、同情とはき違えた優しさしか抱けていない。思慮深く、その上で選んだ言葉を紡いでくれたこの人の想いこそ、優しさと呼ばれるものだ。




