27怪
「かーってうれしい」
ひゅん
「はないちもんめ」
がっ
「まけーてくや」
ごっ
「はないちも」
ばきっ
輪唱が響く森の中、合いの手の代わりに殴打音が混ざり込む。全く調和していないし、ここに平和はない。
ぽち君を追って道を外れ、森に入ったまではよかった。道からすぐの場所はまだ森が薄く、歩みに難儀することもなかった。
しかし、ほんの少し奥へと歩を進めれば、森はすぐに深まっていく。木々の間隔は短くなり、枝は視界を遮り、服を引っ張る。膝より下は鬱蒼と茂る草花に絡め取られ、地面が見えづらい。獣道も見当たらない森の中を、草木を掻き分けひた進む。
すると、出るわ出るわ。花いちもんめのオンパレード。他にレパートリーはないのかとつっこみたくなるほど、あちこちから花いちもんめしか聞こえてこない。
それだけでも充分ホラーだ。一人だったら奇声を上げて森から転がり逃げている。しかし今は一人ではないし、遊びでもない。柚木さんと仕事に来ているのだ。早々逃げるわけにはいかない。それに。
「あのこが」
ひゅん
「ほし」
がっ
「たちば」
ひゅん
「あず」
ごきっ
「さ」
がっ
声に合わせているのか、はたまた偶然なのかは分からないが、ひょこひょこ出てくる大男を、柚木さんが遠慮なく警棒で殴り飛ばしていく。怖さが全くないわけではないが、震え上がる暇がない。
むしろ、身体が折れ曲がり奇妙な角度から飛び出してくる大男を、無表情で黙々と、しかも的確に殴り飛ばしていく柚木さんが若干怖い。友達でなければ泣きべそをかいていたところだ。
彼の背を見つめて歩くのは、とても頼もしい。それは事実だ。しかし、緊張感は拭えそうになかった。
大男自身も一緒に歌ってはいるが、殴り飛ばされて最後まで言えていない。その姿が哀愁を誘う。情けをかけてはいけない相手だとは、もちろん分かっている。
幾人もの人間を攫って殺し、数え切れない人を嘆かせてきた怪異達だ。それでも、表には出さないまでも同情という言葉が頭を過るくらいには、柚木さんはしっかり手厳しい。
「ところで梓さん」
「うはい!」
突如呼ばれて、声が裏返った。
「子ども達が近寄ってこない隙にクイズです」
「クイズ」
「第一問」
柚木さんの言葉通り、子ども達は何故か近寄ってこない。こちらを遠巻きに、花いちもんめを歌っているだけだ。大男だけが、いくら鬱蒼としていてもその巨体を隠しようもないはずの空間からひょっこり現れては、柚木さんに殴り飛ばされている。そんな中で唐突に開催されるクイズ大会。
私は考えるのをやめた。
「伝承では、八人の内一人が沢に落ちた後、残りの七人が後を追ったとありました。さて、最初に沢に落ちたのは誰でしょう」
「ヒント少なすぎません!?」
「ほぼノーヒントで、僕も困っています」
「柚木さん、出題者なのか回答者なのか、立ち位置定めません?」
そして、クイズ唐突すぎません?
クイズの答えは早々に諦め、正直な気持ちを告げながら、方位磁石と島の地図を照らし合わせ、進むべき方角を確認した。
目標は、八人の為に建てられた墓である。携帯で位置を確認することも可能だが、こういった、怪異が幅を効かせている場所では電子機器が言うことを聞かなくなることも珍しくない。アナログな技術を会得しておくと何かと便利なので、こうして普段から練習しているのだ。
私の手元を覗き込んで一緒に方角を確認した柚木さんは、自分の手元は見ずに大男を殴り飛ばした。プロの技である。
「僕は出題者ですが、答えを求める探求者でもありますから。これ、他の事件にも応用が可能なんですが、正解できるか否かでかかる手間と時間がかなり違います」
「そうなんですか?」
「はい。これらのような終わり方をしたものは、最初に死んだ存在が他の七人を支配している可能性があります。だから操っている大元が死ねば、糸で繋がっているかのように後を追うんです。大元を潰せたら、他は木偶人形と変わりありません。勝手に朽ちるなり、大元を追って自滅します。どれの姿も同じレベルで人の形を保っているのは、自身の意思でその身を保っているからではないことが多いです。どれもに個としての意思があるのなら、統一感はありません。崩れているもの、正常の範囲から逸脱しないものなど、個として変化があるはずです。ですが、一人の記憶を頼りに維持しているのであれば、統一感のある姿で現れるのは納得です」
「えっと……つまり、その大元を倒せたら、他は倒さなくていいんですか?」
「その場合が多いです」
成程。それは確かに楽だし、時間の節約になる。これは本腰入れて考えなくてはならないようだ。考えるのをやめている場合ではなかった。
草木が絡みつく上に、でこぼことした凹凸と傾斜がある地面は歩きにくい。足を取られぬよう注意しながら、思考の半分以上をクイズに充てる。
「大人、じゃないんですか?」
「そうとも限らないのが怪異の痛いところでして。子どもの方が善悪の区別がつきにくい分、純粋な悪意で動きます。悪の自覚がある人間の悪意と、そうではない人間が齎す悪意とは規模が違い、後者の方が圧倒的にたちが悪い」
不意に現れた大男を淡々と殴り飛ばした柚木さんは、肩をぐるりと回した。少し疲れてきたのかもしれない。
「奴らが生け贄を取る理由を僕は知りませんし、調べるつもりもありません。依頼内容も、寬枝さん奪還までですから。本当は、怪異の退治までを含めた依頼をすべきなんです。そうでなければ、また同じ事の繰り返しになる。けれど僕らは、依頼以上のことをする理由がありません。料金も変わってきますし、何よりそこまで要求される依頼だと、断る場合もありますから。お互い納得の上で契約できるよう、最初の線引きは必要です」
お仕事とはそういうものである。サービスは大事だが、サービスとは形に残らない提供だ。無制限に提供されるものではない。
まして、そこに霊能者の命が懸かっていれば尚のこと。最初から契約に含まれていないものを、命懸けで提供することは美談でも何でもない。
それをたぶん、柚木さんは私より知っている。
「木賀矢さん、僕の所に来るまでに、数カ所で依頼を断られているんです」
「そう、なんですか?」
「はい。狭い業界ですから、もぐり以外は大抵知り合いなんです。それで、知り合いの住職が僕の所ならもしかしたらと紹介したそうです。そこで説明を受けていたから、退治を視野にいれない、寬枝さん奪還までを主とした依頼内容になったのだと思います」
散々殴られた大男は、流石に不用心に近づくのを止めたらしく、子ども達よりは手前だが遠巻きにこちらを窺っている。
身体が半分に折れ曲がり、腰の位置が一番高くなっていた。手は膝につけられたままほとんど動かない。だから、顔からひょこひょこ現れていたのだ。
子どもも男も、瞳が人間のものではない。白目の部分がなくなり、全て黒に塗り潰されている。それに、通常の瞳より二倍近く大きくなっていて、不気味さが増していた。
今は視線を合わすことを止められていないから、死の危険が伴うわけではないのだろう。だが、ずっと見ていたい目ではないので、そっと視線を外した。
当たり前のように、生きていない存在がこちらを見ているのに、柚木さんがいるというだけで叫び出したいほどの恐怖を感じない自分に呆れる。人とは存外単純なものだと言うべきか、単に私が単純なのか。
「やっぱり、難しい依頼だったんでしょうか」
「土地が悪いですね。家の敷地内、もしくは村の一角などに収まればいいのですが、流刑地として切り離された島まるごとが対象となる可能性が高かった。そうなると、一人の霊能者ではどうにもならない。万が一何かがあった場合、応援を呼べないと霊能者もろとも殺されます。ですから、一族から人数を揃えられる可能性がある僕への依頼が勧められたんです」
私は慌てて柚木さんを見た。
「私と二人ってまずくないですか!?」
「まずければ連れてはきません。梓さんは僕の大切な従業員ですから」
「友達。友達です、友達。友達兼従業員です。大事な方が抜けてます」
「すみません、うっかりです。それはともかく、奪還だけなら二人でも何とかなります。様子を見て、可能なら退治までを視野に入れるつもりでした。何にせよ、ぽちを突っ込ませた上で無理矢理回収するつもりだったのですが……おやつが美味しいようで帰ってくる兆しがない」
柚木さんの視線を追えば、遠巻きにこちらを見つめている子ども達が、たまに悲鳴を上げてぶれていた。
「あ、いまぽちが骨を食べましたね」
「リアルタイムで分かるんですね……」
草むらから上半身、もしくは頭しか見えていない子ども達が、電波が乱れた画面のようにぶれている様は、何だかチープな仕込みに思えてしまう。
安っぽいテレビ演出。幽霊が明確に出現した途端、現実味溢れて怖くなくなる心霊番組。日常から外れきらず、されど自分には全く影響を及ばさない、娯楽にもなりきれない流れる背景。
いま、確かに私の前で揺れている奇妙な現象が、そんな、どこか一枚隔てられた遠い幻に見えた。
考えてみれば、それは当たり前のことなのだ。だって彼らは、生きていた時分でさえいつまで人であったのかは分からないが、もうとうの昔に死んだ存在だ。現代の世において、彼らは常に幻でしかあり得ず、そうでなくてはいけない存在である。
過去が未来に影響をもたらすのは世の真理であるが、死者が生者を蝕むことは許されない。許してはならない。
それもまた、道理なのである。
柚木さんは、遠巻きにこちらを見ている集団を、彼らに勝るとも劣らぬ強い視線でじっと見つめた。
「……あれと、あれと、あれ。あの三体はよく姿がぶれていますので、ぽちが順調に骨を食べています。後はまちまちですね。そして大男の姿が全くぶれません。ぽちが見つけ出せていないのか、それとも、骨が拡散していないのか。ならばあれが大本と考えることも出来ますが……骨の拡散が故意であったのか単なる事故だったのか。そこが分からないことには結論が出せない。あの三体も子どもの中では年長だから身体が大きく、ぶれが少ない子どもは幼く骨も小さいから見つけにくいのか。ぽちを呼んだほうが早いかもしれませんが……先程発生したという土砂崩れも、散らばった骨が何かしらの影響を及ぼしたとみるべきか」
こういうときの柚木さんは、会話を重んじるより自らの思考を纏めることを優先する。誰かに話した方が思考が纏まるのは、ままあることだ。
だからそこは特に気にしていない。むしろ、彼の考えに追いつけた上で、彼の思考を手助けできるなら望ましいとすら思う。もうちょっと役に立ちたい欲を満たしたい衝動はあるが。
地図に示された八人の墓を指でなぞる。今のところ迷ってはいないようだが、それにしても森が深い。黙々と登り始めて早一時間。森が深いのは当然だろう。それは分かる。分かるのだが、路がないのはどういう意味を持つか。
簡単だ。誰も、墓参りに行かないからだ。
祟りを恐れて作られた墓。恐れられた墓を、祀ることはしなかったのだ。恐ろしい神を、得体の知れない何かを、祟りを窺わせる死に方をした人を祀るのは、どうか出てきてくれるなと、どうか目覚めてくれるなとの祈りからだ。
だが、この墓は道すらない。誰も参らない。誰も祀らない。眠りを望んでいないはずがない。だって墓は恐怖から作られた。けれど、誰も祀らない。穏やかな眠りを望まない。それは、恨んでいたからだろうか。家族を、友を、愛した人を失った痛みが、失わされた恨みが、そうしたのだろうか。
草に飲まれて見えない地面が、何か固い物を踏んだ。恐らく石だ。三角に尖った石の天辺に足を乗せてしまったらしい。足裏の感触から、恐らく掌より小さな石だと分かる。大した大きさでもない癖に、一つで見事な傾斜を生み出した石によりぐらりと身体が揺れる。
それを支えてくれたのは柚木さんだ。前を歩いているのに、本当によく見ている人だ。
「大丈夫ですか?」
「すみません、ありがとうございます」
「いえ。木賀矢さんが最近通った後があるかと思いましたが、このルートじゃなかったようですね」
「あはは……」
その手をじっと見ていると、何故かふと考えが浮かんだ。
「子どもじゃ、ないかな、と」
「はい?」
ぽつんと零した言葉に、柚木さんは首を傾げた。眼鏡があったらずり落ちてそうだなと思いながら、自分が零した言葉を自分の中で急いで纏める。
「大元です。大男じゃなくて、子どもだと思うんですけど」
「理由は?」
「あの人、膝に手をついているんです」
あまり凝視したくない異形の人を掌で示す。柚木さんは平気でまじまじと見つめているようだ。
ちらりと視線を向けた先の男は、地面に頭頂部を向けた姿勢のままゆらゆらと揺れている。しかし、彼の両手は己の膝を押さえている。思えば、私が見る限りずっとあの体勢だ。
「いくら大きくても、あんなに大きな人はいないと思うんです。大元が見た彼があんなに大きく見えていたってことなら、大元自身はとても小さな、子どもなんじゃないかなって。それと……あの手。子どもと目線を合わせる為に屈んでるんじゃないかと、思ったんです」
小さな子と話すときは目線を合わせましょう。
誰に習ったのか。記憶にない。けれど知っている。あえて教わった記憶がないから、誰かがしているのを見たのかもしれない。そうして、いいなと思ったのだ。その光景が素敵だなと、優しいなと思ったから、私はその行為を覚えて、指針にしたのだろう。
「……ああ、成程。それは、思い至りませんでした」
ゆっくりと頷いた柚木さんは、小さく息を吐いた。
優しい、人だったのかもしれない。幼い子ども達を連れ流刑地に現れた男。それが罪故か不運故か、最早分からない。異形と成り果てた今、彼の本質も失われた。数多の命が失われた今、本質を探すことすら許されないかもしれない。
もし探せたとしても、それは誰の救いにもならない。怒りの矛先が、恨みの元凶が、優しい人だったかもしれないと、そんなことを伝えられて救われるほど、人の心は軽くない。世界だって薄くはない。
子どもの一人が絶叫し、その姿が掻き消えた。男は相変わらずゆらゆら揺れながらこちらを見ている。かつては、幼い子の為にその長身を折っていた男が、その姿が常であると子どもに認識されていたであろう男が、子どもの悲鳴に何一つ反応しない。異形と成り果てた姿より、その光景が何より哀れだった。
子どもの姿が欠ける。テレビの画面が嵐の夜にぶれるように、荒れ狂う風の音に誘われ飛ぶ音のように、欠けていく。
けれど子ども達に動きはない。自らの部位が損なわれていくのに、意にも介さずただそこにある。そこに意思がないからだ。意思があるとすれば。
「――あれだ」
強く踏み出された足が、地上に落ちている湿った枝を踏み抜いた。言葉と同時に、柚木さんが走り出す。未だ手が掴まれていたから、私は置いてけぼりにならずに済んだ。
絡まる草を引き千切り、枝を打ち払い、柚木さんは真っ直ぐ走る。
欠けていく子ども達をきょろきょろ見回しながら、大きな男へ向け両手を広げ、抱っこをせがんだ小さな子ども目がけて一直線に。
走る私達を見て、子どもが大きく目を見開く。真っ黒な眼球がどろりと溶け出し、ぽっかりと空いた眼孔が現れる。こうなっては見開いているのかどうかも分からない。大きく開かれた口も眼孔と同じように、底なしの空洞を作り出した。
何か、音が聞こえたような気がした。とっくに止んでしまった花いちもんめとは違う、細い穴を風が通り抜けるような、掠れて不気味な音だった。
音に反応したのか、周囲の子ども達が動いた。ぱかりと口を開け、溶け出した眼球を振りまきながら飛びかかってくる。
「ぽち!」
鋭く響いた柚木さんの声に応えるように、しなやかな草を踏みしめる音が凄まじい早さで近づいてきた。そして、私の背中に強い衝撃が走る。
「ぽち!」
今度の声は叱責だった。しかし私は、柚木さんがどんな顔でその声を出したのかは分からない。何故なら、盛大に前へとつんのめり、慌てて支えてくれた柚木さんの胸に顔面から激突したからである。
「お前いい加減にしろ! 構ってほしいからってそんなちょっかいの出し方ばかりしていたら、いくら梓さんでも嫌われるぞ!」
点滅する熱と痛みを無理矢理飲みこみ、視線を上げた。私の背を踏み台に、見事な跳躍を見せたぽち君は襲い来る子ども達を相手取る。
彼が食いついたそばから子ども達の身体は崩れ、霧散していく。大男が腕を振るうも、瞬時に伏せと伸びの中間体勢を取ったぽち君は難なく避ける。そして、その体勢から弾丸のように身体を発射させ、男の足にくらいついた。
こっちは一撃で霧散することはなかったが、喰らいついたまま決して離れず、身体全部を使ってねじ切る。飛び散る肉片が存在しないことは、きっと幸いなのだろう。私にとって。
ちらりとこちらを振り向き、頬のお肉がむにっとなったぽち君と目が合ったことはかなり幸いだ。尻尾がひゅんっと下がって股の間に隠されてしまったことが気になるが。
「すみません、梓さん! 後できつく叱っておきます……大丈夫ですか?」
「へーき、へーきでふ」
「鼻血」
「へーきへはなかっは」
道理で鼻が痛いと思った。
急いで柚木さんから離れる。片手で鼻を押さえたまま、ざっと視線を走らせて彼の服を汚していないか確認した。
どうやら問題ないようでホッと胸を撫で下ろした腕が掴まれると、やや強引に引き剥がされる。そこに、ハンカチが押し当てられた。私の物ではない。つまり柚木さんのハンカチだ。それにじわりと熱が染みこんだのが分かり、慌ててはずそうとするもそのまま強く押さえ込まれた。
「鼻の上と一緒に押さえていてください」
「ハンカチ、自前、あります」
「労災と……パワハラも当てはまりますね」
当てはまるわけがない。
ずっ、と、鼻を啜り、新しいのを買って返す決意を固め、有り難く借りることにしたハンカチで強く押さえる。かろうじて口元だけ開けて詰まった声を出す。
「ぽち君もびっくりしてましたから単なる事故ですよ。ハンカチ、新しいの買いますね――……ところでいま、それどころじゃないと思いません!?」
「あいつは、梓さんに構ってほしいようですが、その方法が子どもなんです。いい加減、ちょっとどうにかします。ハンカチも差し上げますし、代えも要りません……本当にすみません」
「こんなの負傷の内にも入りませんし、本当にお気になさらず。そしてもう一度言いますが、いまそれどころじゃないと思いません!?」
襲い来る大男と子ども達。食いちぎられて霧散する彼らの手足。華麗に身を躍らせ、回避から即座に攻撃に転じる茶色い勇姿。
阿鼻叫喚に、怒声に、咆哮。どこを切り取っても大戦争である。
そんな大騒動をちらりと見た柚木さんは、静かに頷いた。
「思いません。従業員に怪我させたとあっては、事務所の一大事です」
「鼻血が……」
「僕は責任を取って、大学を留年します」
「何の話ですか!? さては柚木さん、無表情の下でとてつもなく動揺してますね!?」
「友達を自分の犬が怪我させたら動揺しますよ……」
「友達なら尚のこと、一緒に二年生になりましょうよ……」
互いに俯いて地面を見つめる私達は、一体何をしているのだろう。
そして、いつの間にか静かになっている世界が恐ろしくて顔を上げられない。ひっつき虫やら綿毛やらがくっついたズボンをじっと見つめていると、草木を掻き分けたぽち君がそぉっと顔を覗かせた。
珍しく、柚木さんのほうではなく私に寄ってきてくれる。可愛い。
窺うように私を見上げ、口にくわえていた何かをそっと私の足に乗せた。二十センチ程の長さがある、白い、何か。
「……………………梓さん、大変申し上げにくいんですが、仲直りの品のようです」
「……………………ぽち君からの誠意、しかと受け取った上で、返品は可能でしょうか」
「ぽち、食べていい。むしろ食べろ。今すぐ」
即座に許可が出ても、ぽち君は尻尾を下げたまま私をそぉっと窺っている。無理矢理吊り上げた口角で笑みを形作り、必死に頷く。すると、花も恥じらい花弁を爆散させる威力を持った笑顔をぱっと浮かべたぽち君は、嬉しそうに骨へと食らいついた。ぱりぱりしゃくしゃく嬉しそうに食べていく。
私の靴の上で。
足をそっと引き、ぽち君の目線から隠す。意図を察した柚木さんが静かに私の前に立ってくれた。その隙に、とんとんと足を地面に打ち付け、必死に破片を落とす。
柚木さんは顔を覆ったまま、「すみません……」と消え入りそうな声で呻いた。




