26怪
「この家は二階がないので大男の視線からは外れ、全ての部屋の窓が高いので子ども達も早々のぞき込めません。寝室はそもそも窓がなく、廊下とも隔離されている。廊下は何かあればすぐ部屋に飛び込める構造になっており、玄関から水場まで一本道。怪異が家の中へ侵入した場合、すぐに部屋へ避難できますし、怪異は沢で、つまり水場で死んでいます。怪異とは、元が何であれ、自らの死因からは逃れられないものです。何故かは知りませんがそういうものです。死因は、怪異にとって弱点になり得る。この家の場合、玄関からしか侵入できませんし、そうすると必ず水場へ向かう造りになっています。だから、万が一入り込まれて排出しやすいんです。だから、島中で一番安全な家、ということなのでしょう」
「はぁー」
長い言葉を追うのに必死になっていた私は、最後まで聞ききった後、詰めていた息を吐いた。聞けば「成程納得!」だ。柚木さんは色々考えて物事を追っているんだなと改めて感じる。
私は、そこにあったものを流れるまま見送ってしまっているから、全く情報を掴めないのだろう。柚木さんを見習いたいものだ。ただし、レポート情報は私のほうが拾えている自負がある。
「つまり、この家が安全でなくなったことには理由があるのでしょう。ちょっと調べます。ぽち!」
わん!
元気な声で、私の背中が蹴られた。勢いづいたら後ろ足が出る。分かる。三郎太もそういうところある。後ろ足が背骨に直撃したのも、致し方ない。彼らに悪戯心はあっても悪気はないのだ。
前に突っ伏した私を、柚木さんが申し訳なさそうな無表情で支えてくれた。
「ぽち、とりあえず廊下を蹴散らしてこい。すみません、梓さん。大丈夫ですか?」
「ご、ご褒美です……」
「大丈夫ではなかったですね。行きましょうか」
「はーい……いてて。柚木さんって、切り替え早いですよね」
「僕は大変執念深い性質ですが」
「え!? そうなんですか!?」
ずっとエンジン全開で止められていた反動か、凄まじい唸り声で廊下を走り回っているぽち君の躍動感溢れる音を聞きながら立ち上がる。顔を上げてもいいか確認を取り、OKが出たのでずっと俯けていた顔を上げた。
廊下は、予想通りと言うべきか、阿鼻叫喚であった。
白目のない、全てが黒で塗り潰された大きな目をした子ども達が、ぽち君に追いかけ回されている。きゃあきゃあなんて可愛らしい悲鳴ではない。耳を劈く絶叫が響き渡っていた。
「じゃあ行きましょうか。あ、貴重品は持っていってください」
鞄をひょいっと背負った柚木さんに、私も慌てて荷物を引っ掴んだ。そして、阿鼻叫喚が続く廊下へ向けてあっさり進み始めた柚木さんは、凄い。私は、すぐそこにある玄関までの道程がこんなに長く感じるとは思わなかった。
先に靴を履いた柚木さんが扉を開ける。ガラスと枠が振動し、大きな音を上げた。その向こうに、長い足が見えた。
そう気付いた時、既に目が合っていた。手をついた膝の横に、男の顔がある。大きく真っ黒な瞳は、真っ直ぐにこっちを見ていた。
ひゅっと呼吸が捩れた私の前で、私のなり損なった呼吸とは違う、空気を切り裂くような音がひゅっと鳴った。
柚木さんが、いつの間にか握っていた警棒を振りかぶったのだ。
ぎゃっと獣に近い声がして、男が仰け反る。柚木さんは自分が振りかぶった警棒と男を交互に見て、最後に私を見た。
その顔には、親しい人には分かる喜びが満ちていた。
「梓さん、見てください。物理が効きます。僕、殴れる怪異は大好きです。ごり押しが効いて、解決が早いんです」
「…………柚木さんって、意外と武闘派ですよね」
「そうでもないですが、面倒くさがりではあります。急いでいる今は尚のこと」
普段は縮めてコンパクトにしてある警棒を伸ばしっぱなしにしたまま、柚木さんは玄関を出た。そこには何もいない。先程仰け反った男も、廊下でどたばた走り回っていた子ども達もいなくなっている。
しんっと静まりかえった世界で、ちゃかちゃか爪の音を響かせたぽち君が土間に降り立ち、私の足に擦り寄った。あまりの喜びに反射で撫でようとしたら、既にぽち君は私から離れ、柚木さんの足に頭を擦り寄らせていた。
大好きなぽち君が、大好きな友達に擦り寄っている。これはこれで幸せな光景なので、私は穏やかな気持ちで見送った。ぽち君は私のズボンに毛を残していってくれた。私にはこれで充分である。
「下だ。見てこい」
あぅん。
柚木さんに一撫でしてもらったぽち君は可愛い声で返事をし、もう一度柚木さんに擦り寄った。その後、砂利をかちゃかちゃ鳴らしながら私の足を踏み、家の下に潜っていった。入り口などはなかったはずだが、瞬き一つの間にするりと消えてしまった。
「下に、何かあるんですか?」
「そうですね。安全なはずの家にこれだけの頻度で出るというのは、やはりおかしいので。生け贄である梓さんがいるにしても、ちょっと頻度が多すぎます。そうなると、何かしらの媒体があるはずです。骨辺りが妥当かなと僕は思っています。獣が運んだが、運ばせたかは分かりませんが、まあ肉は流石にもうないでしょう。骨か、髪か。天井にあるのなら部屋の中へも入ってくるでしょうが廊下止まりとなると、やっぱり床下が妥当です」
さらりと告げられた言葉を飲みこむのに、一拍を要した。いつの間にかからからになった口内を潤そうとするも、唾液がすっからかんだ。
「あの……死体って、ことですか?」
「その破片があるんじゃないかなと。ああ、当たりですね」
何がと問う前に、どんっと激しい衝撃が世界を揺らした。下から突き上げるような揺れに、慌てて膝をつく。すわ地震かと焦るも、島は静かなものだった。携帯の緊急速報もなければ、鳥も飛び立っていない。
きょろきょろしている間に、気が付けば目の前にぽち君がお座りしていた。ふんふん鼻を鳴らしている姿が可愛くて、思わず和む。しかし、何やら嬉しそうなのに口をちゃんと開けていない様子が気になった。嬉しい時は、はっはっと生暖かい息を吐きながら、笑みに見える顔つきをしているものだ。
それなのに、いま彼の口は曖昧な隙間を空けているだけだ。
「ぽち」
柚木さんの呼びかけで、ぱかりと口が開く。そこには、白い破片が入っていた。
「ほ、ね」
「そうですね。もういいぞ」
許可が出た瞬間、ぽち君はその骨を噛み砕いた。私が吐き出しきれなかった悲鳴とは別に、耳を劈く絶叫が響き渡った。今度は鳥も凄まじい勢いで飛び立っていく。耳がいいはずのぽち君は、ぱきぱきしゃくしゃく、嬉しそうに咀嚼を続けている。
「た、食べた」
「……すみません。大丈夫かと思ったんですが、これは駄目でしたか。今度からは見せないようにします」
それはそれで、どうなのだろう。見えなくてもその行為が行われているのなら、それはそれでやはりもやもやはすると思うのだ。
だったら、ここで聞いてしまったほうがいい。
これは怖いことだと、この人は怖いことを平気で出来る人なのだと結論づけて去ってしまうのは簡単だ。けれど私は、柚木さんもぽち君も、大好きなのである。ついでにこのバイトだって続けたい。
だから、ぐっと奥歯を噛みしめ、喉の震えを止めた。喉の奥で塊のように燻っていた空気も、全部飲みこんでしまう。
「あの、弔ったりは、出来ないんでしょうか」
柚木さんは眼鏡を押さえながら、ちょっとだけ目を開いた。
「そう、ですね。これはもう人ではなく、怪異への依代、または媒体としての要素が強いので。たとえ墓を構えて弔っても、そこを起点として怪異を発生させるでしょう。並の住職では抑えきれない。力のある霊能者を数人構え、昼夜問わず常時押さえ込めば、墓に収めるだけなら何とかなるかもしれませんが現実的ではありません」
ごくんと、ぽち君の口から骨が消えた。
「これは仏にはなり得ない。だから、神の使いであるぽちに喰らわせて消滅させたほうが安全なんです」
遺体は仏様。
自分の家は何教であると、そんな感覚すら薄い人々が、意識せずともいつの間にか培ってきた感性。だが。
これは、仏様にはなり得ない。
仏様になれない死体はきっと、人とは、呼べないのだろう。
そう自分を納得させる。すんなり飲み込める衝撃ではなかったけれど、その結論に抵抗はなかった。何より、それらの事情を、説明すれば飲み込める人物であると柚木さんが思ってくれていたことは、信頼に他ならない。その事実は、純粋に嬉しかった。
「そうですか。分かりました。説明してくれてありがとうございます」
「いえ……すみません。そうですね。一応ですが人だったかもしれない骨を食べさせるのは、人によっては駄目だったかもしれません。大丈夫か、ちゃんと確認すべきでした」
「説明してくれたので平気です。納得できました。私、疎ましがらずに説明してくれる柚木さん好きですよ」
何でもひょいひょい聞いてしまう自覚はあった。そんな私を面倒だなと思うのは当たり前なのに、そんな様子も見せないでいてくれる。おかげで、疑問故に抱え続ける恐怖からは無縁でいられるのだ。
ここはとてもいいバイト先で、私達はいい友人関係を築けている。そう思ったから伝えた。ただそれだけだったのに、柚木さんは珍しく目を丸くした。そして、少し俯く。
風で揺れる少々癖のある髪に目元を隠した口元は、薄く笑んでいるように見えた。
「僕も、つらつら喋っているだけの僕に、逐一感心したり驚いてくれる梓さん、好きですよ」
「おっと両思いですね! 私これは、柚木さんの相棒か親友を名乗っても許されるのでは!?」
「別に構いませんが、嬉しいですか? それ」
「え? 嬉しくないですか? 仲いいぞーって感じで」
「そういうものですか。ぽちが早い」
「え?」
話がくるりと変わった。ついでに柚木さんも走り出していた。
手を引かれていたので置いてけぼりにはならなかったけれど、転びそうになって慌てて態勢を整える。砂利を蹴散らし、何とか自力で走り出す。
「柚木さん!?」
「すみません。ぽちが山に」
「ぽちくーん! 待ってー! いやー! リードつけてないのに置いてかないでー!」
「早速相棒か親友の存在忘れてますけど、どうなんでしょう」
「ぽーちーくーん!」
しぱーっと疾風のように駆け抜けていくぽち君の白いお尻を必死に追いかける。ぽち君は家の裏手に回ると、細い坂道を駆け上がっていく。
そして、あっという間に山の中に飛び込んでしまった。
「あー! ま、迷子札! それかマイクロチップは!?」
「ありません。ですが問題ありません。力が尽きれば自然とこっちに戻りますし。それにしても……はぁ……」
坂道を中程まで駆け上がり、柚木さんは止ってしまった。かりかりと頭を掻き、ずり落ちた眼鏡を外すと鞄のポケットに放り込んだ。ここから先、人と会う可能性が低いからだろう。
「多分、美味しかったんです」
「美味しかった」
「骨が」
「骨が」
思わず鸚鵡返しになってしまっても許される話題だと、私は信じている。
「どうも、怪異が染みついた物は味が濃くなるようで。おやつを探しに行く勢いです、あれは」
「おやつ」
「あいつは焼き芋も好きです」
「焼き芋」
「今度食べましょう」
「食べましょう」
「モフバーガーの包み紙をゴミ箱から探し出し、ソースをなめて恍惚としていた顔に似ていました」
「モフバーガー」
「割引券あるんで、今度行きません?」
「行きましょう」
柚木さんと食を楽しむ約束がみっちり詰まっていく。そろそろダイエットの心配が必要かと思っているのだが、何だかんだと動き回っているからか、体重に変動はない。逆に、これだけ走り回っているのに痩せないということは、動かなくなったら肥えるということだ。
天高く、私肥ゆる秋にさせぬ為、今の運動量は維持したい。
現実逃避と、坂を駆け上がって息切れした身体の求める休息を取った私の横で、柚木さんがしゃきっと身体を伸ばした。
「じゃあ、行きましょう」
「はい! ぽち君を探しましょう!」
「いえ、ぽちは勝手に戻ってくるでしょうし、骨を探して食べるなら相手の戦力を削ぐことになるので問題ありません。こっちの戦力が削がれたことは若干懸念されますが、物理がいけるならまあ大丈夫でしょう。おやつがてら、好きにさせます」
それはそれで、どうなのだろう。先程納得した理由以外にも、拾い食いしているわんこを放置する心配がある。だが、ぽち君はわんこだけれどわんこではなく、わんこではないのにわんこだ。
きっと大丈夫なのだろうと、よく分からない結論に至ってしまったので、私も若干疲れているのかもしれない。
「あの、じゃあどこに行くんですか?」
「山狩りです」
人生において、知ってはいてもまさか行動目標に掲げられる日が来るとは思ってもみなかった言葉をあっさり告げられた私は、またもや鸚鵡返しするよりなかった。




