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火六事務所へようこそ  作者: 守野伊音
二章 はじめての孤島編
24/31

24怪






「統計学は、統計学はやったんです」

「柚木さん最近忙しかったですもんね……。不動産関係とか。えらく幽霊物件の依頼増えてましたし。すみません、もう一回言えばよかったです……」

「いえ……欠席分のノートと連絡事項をもらったのに、すっかり忘れていた僕のミスです」


 統計学は、やったんです。

 譫言のように繰り返される言葉から、彼のダメージを推し量る。ちなみに致命傷だ。

 仕事柄、どうしても欠席が増える柚木さんは、提出物と試験で単位をもぎ取る。そこが抜けると、落ちていく。両手からぼろぼろと零れ落ちていく様を見つめるのはさぞやつらかろう。

 単位とは、思ったより簡単に零れ落ちていくのである。


「統計学のレポート、学校のパソコンじゃないとデータ計算できないのきついですよね」

「あのシステム、導入するのにパソコン一台につき十万以上かかるそうなので、自前のパソコンに入れるのは難しいと思います」

「あれってそんなにかかるんですか!? 無理だ……大人しく次も学校でやります……」


 そして、そんなことを何故知ってるんですか? 調べたんですか?


「この依頼を二日以内に終わらせて、後は徹夜で……医学一般は三限、その日は二限が空いてるからその時間をレポートに費やして仕上げれば……」


 私との会話から独り言へ移行した柚木さんの様子を思い浮かべる。

 レポート提出予定に苦戦しながら、命を奪ってくる恐怖の幽霊集団と見つめ合っているのか。

 苦行にも程がある。

 柚木さんが何をしたというのだ。誠実に仕事をこなし、レポートの存在を忘れていただけではないか!

 ……可哀想。

 事務所でまともに怪異と対峙できる人が柚木さんしかおらず、唯一のバイトが役立たずすぎるばっかりに…………疲労の原因、何割かは私が担っているのでは?


「……柚木さん、帰ったら泊まりに行っていいですか? 家事くらいなら手伝えますよ?」

「いいんですかすみませんよろしくお願いします」


 息継ぎすら惜しんだ勢いで柚木さんが食いついた。

 口調は相変わらず淡々としているが、失われた息継ぎにより、彼の切羽詰まり具合が分かるというものだ。既にレポートを終わらせている私まで泣けてきた。


「バイト代弾みます」

「友達の誼なんでいりませんよ! それより、今みたいな状況の時、どうやったら柚木さんみたいに怖いのと対峙できる方法を教えてほしいです。私一人でもできますか?」


 柚木さんの絶望により、自然と移行していた話題を自ら戻すのは愚行かもしれない。けれど、対処法が分からないほうが怖いのだ。

 何もないのが一番だが、もし同じような状況に陥ったとき、対処のすべを持っているか持っていないかで、心持ちは全く違う。

 答えを大人しく待つも、柚木さんの声が聞こえない。まさか寝ていないだろうなと心配になり、彼の名を呼ぼうとした瞬間、ずっと聞こえていた歌声が変化した。

 けたけたと幼い声が爆発的に広がった。

 小刻みで甲高い、酷く耳障りな笑い声だ。幾つもの、恐らくは七人分の子どもの笑い声が重なり、まるで豪雨のようだ。


「何がっ、柚木さん!? どうしたんですか!?」


 笑い声が響き渡り、距離感が掴めない。

 すぐ耳元で叫ばれているようにも思えて、心が竦み上がる。

 心臓は氷の手で掴まれたみたいに縮こまり、ほんの僅かに動くだけで酷い痛みを齎し、呼吸をへたくそにしてしまう。

 浅いのか深すぎるのか、自分でも分からないほどに呼吸が乱れ、ただでさえ混乱した思考が余計に絡まっていく。


「柚木さん、大丈夫ですか!?」


 見えないとはこれほどにもどかしく、つらいものなのか。

 そんなことは知っていたし、分かっていたつもりだった。けれど、知っていたはずの知識を、この身を苛むほどの恐怖により実感するのは、思っていた何倍も苦痛だった。

 柚木さんに何かあったのか。こんなに近くにいるのに、視界を塞がれただけで何も分からなくなる。

 笑い声は更に増殖し、響き渡った。音が壁に跳ね返されているようだった。外へ漏れ出すのではなく、家の中だけで跳ね周り、反響する。


「柚木さん!」


 私の目を塞ぐ柚木さんの手に変化はない。体温も、力の入れ具合もだ。

 いっそのこと、この手を撥ね除けるべきなのか。しかし、撥ね除けたところで私に何ができるのか。余計な迷惑になってしまうのではないだろうか。

 撥ね除けなかったらどうなるのだろう。撥ね除けたら、どうなるのだろう。

 迷いは恐怖を増幅させる。対抗の手段がない相手からの恐怖は、精神を削り取り、摩耗させ、きっと形すら変えてしまう。

 そんな想像にぞっと背を凍らせたとき、淡々とした声が返事を齎した。


「すみません。起きています」

「すみません。流石にこの状況下で寝てしまった心配と取られるのは予想外でした」


 私の中に、安堵より先に平常心が帰ってきたのは、私が図太いからではなく柚木さんの感性が不思議だからだと思うのだ。

 遅れてやってきた安堵がじわじわ私の心と身体を満たし、両方の力を抜く。

 同時に、世界が白んだ。相も変わらず私の視界は温かな柚木さんの手によって覆われていたが、しかし、手と世界の境が見えたのだ。

 その意味に考えつく前に、温かな重みがふっと離れた。


「消えましたね」

「うわ眩しい!」

「目が」

「目がぁ! ってそんなことしてる場合じゃなくないですか!?」


 突如現れた白い光に眼を焼かれ、両手で押さえて悶えていたのに、柚木さんについ乗ってしまった。

 暗闇の残滓が張り付いたみたいに余計な跡が残る視界は、何度か瞬きすればすぐに落ちついてくる。その前にふざけたおかげか、心は既に落ちついていた。


「消える直前に暴れ回る様は、癇癪起こした子どもみたいでしたね」

「視ていないので同意は致しかねます……」


 視ていたとしても、声だけで充分に恐ろしかった現象を子どもの癇癪と表現できるか否か。その時の私の、肝の太さに乞うご期待。



 目を擦りながら起き上がると、ちょうど柚木さんが大きな欠伸をしているところだった。

 ゆっくり部屋の中を見回す。部屋の隅に寄せられた布団の上に座る私と柚木さん。そして荷物。反対側の壁際に寄せられたテーブルと座布団。

 最後に廊下の方向へと視線を向ける。

 そこには何もなかった。否、正確にいえば寝る前に締めきった引き戸がそのままの形でそこにある。当然のことながら、廊下には何もいない。部屋の中はぶら下がる紐の先、本体が照らす灯りで眩しいくらいだ。

 しんっと静まりかえった部屋の中には、私と柚木さんが動いた際にたてた衣擦れの音しかしなかった。

 なんだ、夢だったのかぁ。

 なんて、例え強がりであっても思えるはずがない。いま、この部屋に異変は一つもない。それでも、私がいま脅えず冷静でいられるのは柚木さんがいてくれるからだと、自分ではっきり分かっているほどには異常があったとしっかり理解している。

 酷使されていた心臓とか、精神とか、耳鳴りとか。柚木さんが塞いでいてくれた手の温かさと重みとか、話した内容のどうでもよさとか。何よりさっき一度「はないちもんぎゃー!」と叫んで目覚めたのだ。

 確かに夢の中で夢から覚める夢がないとは言わないが、あんな酷い目覚めが無意味な目覚めであってたまるものか。せめて意味がなければ、あんまりな夢と目覚めであった。


「怖かったですね……」

「いえ別に」

「………………訂正します。怖かったです!」

「大変でしたね」

「はいとっても!」


 どうやら、あの状況を分かち合った唯一の友と、心情を分かち合うことは出来ないようだ。仕方ない。感じ方は人それぞれだ。


「梓さん」

「あ、はい!」


 慌てて視線を戻せば、欠伸を無理矢理しまい、若干涙が滲んでいる目を擦る柚木さんが携帯を見ているところだった。柚木さんから呼ばれたのに、気になったのでついこっちから質問してしまった。


「いま何時ですか?」

「三時を過ぎた辺りです。もう大丈夫だと思うので、寝てください」

「寝れませんよね、普通。睡眠導入まで凄く根性がいる気がしますしね。そしてつかぬ事をお伺いしますが、柚木さんはどうするんですか?」

「一刻も早くこの島を出るために準備をします」


 目を擦り終えた柚木さんは、真剣な視線で廊下を見つめている。人ならざるものを視、人の心の表情を映し出すその瞳は、一体何を見据えているのだろう。


「そして僕は、一秒でも早く、レポートに着手します」


 彼が見据えていたものは、単位を落とさない輝かしい明日だった。

 いつもの無表情でありながら、その中には凜々しさと真摯な決意が漲っている。それがとてももの悲しく思え、私はそっと目尻を拭った。


「そういうわけで梓さん」

「はい?」

「寝ないのであれば、作戦会議といきましょう」


 瞬き一つの間に熱い気迫をくるりとしまい込んだ柚木さんは、一つの仮定と共に、一つの決断を私に委ねた。








 夜も明けきらぬ時間というのに、外から大きな音が聞こえてくる。庭に敷き詰められた砂利を車輪がすり潰す音だ。

 その音が止むか否かで、ばんっと扉が開く音が響く。誰かが車から転がり出てきたのだ。締める音はしなかったから、きっと車の戸は開けっぱなしだろう。

 すぐに、玄関の扉を叩く音がした。ガラスが割れるのではと案じてしまうほど、その力は強い。


「木賀矢です! 火六さん!」


 まるでお祭りのように揺れ響くガラス音は、焦れた掌が叩きつけられた音により一際大きく鳴った。次いで、鍵が開いていることに気が付いたのだろう。玄関扉が滑り開けられた音が聞こえる。


「鍵が……入ります! 火六さん!」


 酷く焦った声を、柚木さんの淡々とした声が出迎えた。


「電話でもお伝えしましたが、梓さんが、いなくなりました」


 ひゅっと息を呑んだ音が聞こえる。確かな動揺がそこにはあった。

 だって彼は、玄関からどれだけ呼び掛けても、そこにいた柚木さんが何の反応も示さなかった事実を不審に思うこともなく。そして。


「――寬枝ぇ!」


 天を引き裂かんばかりの、悲痛な叫び声が家を満たした。


「寬枝! どこだ! 寬枝、寬枝っ!」


 怒鳴りつけているような、けれど今にも泣き出しそうな声だった。

 私は彼と親しいわけではない。話したのはたった二度。一度はもう半月も前だ。

 けれど、その二度で、穏やかな人だと思っていた。穏やかな話し方をする人だと、思っていた。

 なのに今は穏やかさの片鱗も見えぬ声で家中を走り回っている。昨夜、家中を、恐らく縦横無尽に走り回っていた子ども達の音とは全く違う、生きた人間の重みが何の気遣いもなく家を軋ませていた。

 私も昨日、こんな音をさせて廊下を走ったのだろうと、思った。


「いない……どうして、何故だ! 飛浦さんの妹さんは、寬枝がいなくなってすぐに帰ってきたのに! っ、寬枝ぇ!」


 飛浦さん。その名前には覚えがあった。私達を船に乗せてくれた老人の名だ。


「成程。行方不明者の定員は一名で、次の生け贄が入れば前任者が返還される。そういうシステムの怪異なんですね」


 火六さんの淡々とした声は、そのまま続く。


「木賀矢さん、貴方は昨日僕の問いに嘘をつきましたね。貴方は、花いちもんめについて何か知っていた。正確には、この島における花いちもんめの歌に関する何かを。けれど貴方は、知らないと僕に言った。伝えると何が不都合でしたか? 初めから、梓さんを寬枝さんと入れ替わらせる要員として呼んだことが露見すると思ったからですか? その様子を見るに、次の生け贄に選ばれた人間の前に、花いちもんめを歌う子ども達が現れるといったところでしょうか」


 足音は、既に止んでいた。


「昨日、この家に一人の男と、七人の子どもが現れました。怪異は、梓さんの名前を、フルネームで呼んだそうです。どうして知っているのでしょうか。誰が怪異に彼女の名前を捧げたのでしょうか」


 木賀矢さんは、何度も駆け回った家の中、玄関前に辿り着くと同時に呆然と座り込んだ。


「僕の事務所の周辺、最近妙な怪異が続いていました。流れの怪異が増えたんです。ああいった物は、似た気配を持つ人間に憑いてきます。同じような、陰鬱とした何かを抱えた人間に、です。事務所に来る道程でいくつか拾ってきたのでしょう。しかし、その程度では早々憑くことはありません。あの手の類いは、よっぽど相性がいい、または縁がある相手でなければ、残り香に誘われるように後を憑いて移動してくるだけで、よく表現されるように背中に張り付くような事態にはならないんです。だからこそ、ああいったのは流れているんです。けれど、それが増えた。それを連れてくる原因となった人間が、あの地で停滞したから、流れず留まってしまったんです」


 長い言葉は、何かを朗読しているように淀みない。感情が混ざり込んでいない上に、躊躇いもないから聞き取りやすい。聞きようによってはきつく聞こえるはずなのに、元々の声質のおかげか、柚木さんの言葉はどこか柔らかく聞こえる。


「最近、事務所の近所で目撃されていた不審者は、木賀矢さん、貴方ですね?」


 返答はない。


「僕がこの事件を解決するに値する霊能者か調べていましたか? そういう方は多いです。けれど、梓さんのアパートの周辺でも不審者の目撃情報が出ているんです。偶然でしょうか」


 返答はない。


「僕が、梓さんを伴って依頼に出ているか、確認したんですね」

「……その通りです」


 返答は、空気が抜けるような声で紡がれた。

 呆然としたまま、虚ろに宙を見つめていた木賀矢さんは、震える両手を持ち上げ、顔を覆う。


「……申し訳、ありません。……すみません……車の、荷台に、私が調べた資料があります。全て、差し上げます。寬枝が、帰っていないなら、橘花さんは、きっとまだ、生きています……助けてあげて、ください。お願いします、すみません、すみません……」


 顔を覆ったまま動かなくなった木賀矢さんを、柚木さんは静かに見下ろしている。木賀矢さんは譫言のように、謝罪と寬枝さんの名前を繰り返していた。嗚咽は聞こえない。だからきっと、泣いているわけではないのだろう。

 けれど、視界を覆い、世界を閉ざしたその様は、ひたすらに深い絶望が覆っているように見えた。

 じっとその様子を見下ろしていた柚木さんは、やがて小さく息を吐いた。手を背中側へ回し、その袖が捲られる。人差し指が二度折り曲げられた瞬間、私の腕の中にいた愛おしい体温が黒いもやへと変化した。

 彼の腕の中に戻っていく黒いもやは、私の腕の中から解ける際、私の顎の下をぺろりと舐めていった。そういうところが小悪魔系だというのだ。めろめろです。次回もどうぞよろしくお願いします。


「分かりました。資料は有り難く拝見します。そして、僕からも一つ謝罪します。梓さん、もういいですよ」


 この空気でさらりと呼ばないでほしい。しかし、護衛のぽち君が腕の中へ回収された以上、私の登場は既に決定している。

 私は大きく息を吸い、立てこもっていた押し入れを開けた。

 目の前には畳んでおいた布団が積まれている。それを寄せ、のそのそ這い出す。着替えたパーカーの紐がぷらぷら揺れる。


「凄く、気まずいです……」

「頑張ってください」

「え、えぇー……」


 作戦立案者兼上司兼同僚兼友人は、大変あっさりとしたものだ。何故私だけが気まずい思いをして、呆然と私を見ている木賀矢さんの前に立たねばならぬのか。

 いや、立っているのは柚木さんも同じだ。しかし、気まずい思いをしているのは私だけ。どういうことなの。

 廊下に座り込んでいる木賀矢さんは、よく見ると靴を履いたままだ。玄関では靴を脱ぐ。この国で暮らす人間にとって、息を吐くように当たり前に出来るはずの動作が置き去りになるほど、気を取られる何かがあったのだと、その靴が証明していた。

 ぐっと胸が詰まる。

 痛むのか、切ないのか、苦しいのか。分からないが、私は、自分の決断が間違っていないと思いたい。


「木賀矢さん、騙して申し訳ありませんでした。見ての通り、梓さんは消えていません。昨夜怪異が起ったことは事実ですが、現段階で行方不明者は出ていません。依頼人である貴方に隠し事をされたままでは、依頼の実行は不可能だと思い、騙させてもらいました」


 騙させてもらいましたって、凄い台詞だなとしみじみ思う。

 しかし、言った本人はさらりとしたものだし、受け取る当人はぽかんとしている。騙した側でありつつ、感覚的には騙された側の気持ちが分かるという、どちらの陣営にも参戦できるはずなのに、一人取り残された気になるのは何故なのか。



 ぽかんと口を開けている木賀矢さんの前にしゃがみ込む。ずっと体育座りで押し入れに入っていたせいか、膝がぱきっと鳴った。他の音がしないせいか、やけに音が響いて何とも言えない気持ちになった。


「えっと……騙してすみませんでした。資料、大事に読ませてもらいます」


 色々言うべきなのかもしれないが、何も思いつかない。結局私が口に出せたのは、必要事項だけだった。何とも情けない。


「どう、して」

「……依頼人の方が嘘をついていたり、正しい情報を頂けないと、とても危険だからです。騙したことは、本当に申し訳ないと思っています」

「そうでは、なく、て」


 下げた頭の上から、雨粒のようにぽつり、ぽつりと、言葉が降る。木賀矢さんは、息と一緒に、かろうじて言葉を紡いでいるようだ。


「依頼を、続けて、くれるんですか」

「――はい」


 柚木さんは、依頼を継続するか、中止とするか。その決断の采配に、私の意思を多く取ってくれた。

 木賀矢さんが、何らかの形で私を囮または犠牲にして、寬枝さんを取り戻そうとしている可能性があるとの説明も、ちゃんとしてくれた。

 その上で継続したいと頼んだ私の意思を採用し、依頼継続を決定してくれた。

 ちなみに、継続したいと頼んだときも柚木さんはいつも通り無表情だった。


 呆然と私を見上げる木賀矢さんは、夜も明けぬ内に電話で叩き起こされたとは思えぬほどしっかり服を着ている。昨日とは違う服であるから着替えてはいるのだろう。だが、目の下にはくっきりとした隈があり、顔色も悪い。

 寝ずに、待っていたのかもしれない。

 それはきっと、私が消えた連絡ではない。寬枝さんが帰ってきた合図を、彼は待っていたのだ。

 ずっと、ずっと。

 四十年間。

 それは、どんな日々だろう。

 毎日、のし掛かる不安と苦しみが身体の内側から食い破ってくるのに、外側も覆われてしまうような、そんな日々だったのではないかと、想像するに難くない。


「どうして、ですか。私は、君を、寬枝の代わりに……飛浦さんの妹は、三十年前に消え、寬枝が消えたその日、消えた場所へ、遺体となって、帰ってきました……私は、寬枝が生きているとは思っていない。もう……もう、死んだ人間のために、生きた貴方を、犠牲にしようと、したんですよ…………それを、貴方は、許せるのか」


 ぽつり、ぽつり。雨粒のような言葉が紡がれる。

 痛みも苦しみも哀切も。全てが凝縮され、そうして弾けた、空虚な声だった。言葉が紡がれれば紡がれるほど空虚になっていく。

 抱える感情が大きすぎるのかもしれない。ふと、そう思った。

 四十年間凝縮された数多の感情は、心に収めるにはあまりに大きく、空虚にならねば正気を保てないのだ。


「私、まえに柚木さんに助けてもらったんです」


 出来る限り言葉を選ぼうとしたが、ろくな案は出なかった。自分の頭にがっかりする。結局、そのまま思ったことを話すしかない。

 人は、自分に出来ることしか出来ないのだ。


「その時、許せることは出来るだけ許そうって決めたんです。いつか、どうしても許せないことが出来たとき、私の全部で許さないでいられるように。……それに」


 一つ、息を吸う。木賀矢さんは息をしているのだろうか。瞬きすらせずに私を見ているから、少し、心配だ。


「私が寬枝さんだったら、きっと見つけてほしいと思うんです」


 怖かった。反響する花いちもんめも、空いた眼孔の子ども達も、申し訳ないが、寬枝さんと思わしき霊も。私は見ていないが、男の霊と子ども達が暴れ回る音も。

 全部、全部怖かった。あんな中に、四十年もいられない。一秒だって、耐え難い。帰りたいと、思うはずだ。逃げたい、助かりたい、もう嫌だ。きっとそこには沢山の感情が詰まっているだろう。

 その願いを集約すると、帰りたいになると思うのだ。


「柚木さんは凄い人だし、私も精一杯頑張ります。だから、一緒に頑張りましょう。私、死ぬのは困りますが、お、おと、囮、囮、囮くらい、なら、たぶん、頑張れば、かろうじて、何とか、ぎりぎり、ミリ単位なら、いけるんじゃないかなって、思って……いけたら、いいなぁって、思って、るん、で……いきます!」

「木賀矢さんの資料次第では囮は必要ないんですが、したいんですか?」

「したくはないですよ!?」


 やけに静かだと思ったら、いつの間に外に出たのか、車の荷台から段ボールを抱えた柚木さんが戻ってきた。この段ボールには見覚えがある。昨日から車に乗っていた物だ。

 私達が来る前から全部準備してたんだなと思うと、少し複雑な気持ちもするが、それだけ必死だったのだと思えば切なくもなる。


「そうですか」

「そうですよ! ……え? したくないですからね? ふりじゃないですからね?」

「分かりました」

「真顔過ぎて心中が読めない!」


 柚木さんの表情筋が仕事をしてくれない所為で、彼が冗談を言っているのか本気なのか、いつも盛大に悩む。今回は死活問題なので、いつも以上に必死になって彼の心の内を読み取ろうと努力する。

 靴を履き、段ボール箱を下ろす手伝いに向かいながら、もう一度顔を覗き込む。はい無表情。駄目だ、分からない。


「あのぉ、柚木さ、おもっ!」

「あ、気をつけてください。重いです」


 小柄な柚木さんが黙々と運んでいくので私でもいけると思いきや、想定の二倍は重かった。これは、米袋を想定した心づもりでかからねばなるまい。


「よっっっこい、っしょ!」


 高い位置から落としてしまわないよう、全力を篭めて何とか玄関に下ろす。大変重たい音が響く。段ボールに入った資料というからには、中に入っているのは本か書類か。何にせよ紙だろう。ならば重たかろう。頑張れ、私の足腰。

 私と柚木さんが段ボールをよいしょよいしょと運び込んでいる間、木賀矢さんはずっと呆然としていた。展開に思考も心も追いついていないといった顔だ。

 大丈夫だ、安心してほしい。私もほとんど勢いで動いている自信がある。しかし、生きている以上、人は進み続けなければならないのだ。時間は待ってくれず、時は流れ続ける。そう、医学一般のレポート提出締め切りまで一直線に。

 私達には時間がない。木賀矢さんは一刻も早く寬枝さんに帰ってきてほしい。目的は一致している。やはりここは、手と手を取り合って、一秒でも早い依頼解決に向けて協力すべきだと思うのだ。

 思ったより段ボールが重い上に数が合ったから手伝ってほしいわけでは断じてない。

 力作業に木賀矢さんを誘おうとしたら、木賀矢さんの携帯が鳴った。ナイスタイミング。

 呆然としたままの木賀矢さんは、それでも反射なのか、のろのろと胸ポケットから携帯を取りだした。


「は、い……え、それで人は!? ――はい、はい、よかった……はい、はい、分かりました」


 ぼやけていた声が、急に張り詰めた。糸をぴんと張ったような声に、私と柚木さんは顔を見合わせる。

 木賀矢さんは、先程までの憔悴を残してはいたものの、今は緊張感を強めた顔で携帯の口を塞いで顔を上げた。


「すみません! 南地区で土砂崩れが発生したらしく、手伝いに行かせてください!」

「え、えぇ!? 大変じゃないですか! 私、手伝えることありますか!?」

「規模によっては車が入れず危険ですので、ここにいてください すみません! 謝罪は、後ほど改めてさせてください。申し訳ありません!」


 言うや否や、木賀矢さんは駆け出して車に飛び乗った。私達は慌てて後部の扉を閉める。扉をバンッと閉めた瞬間、既にエンジンをかけ終わっていた木賀矢さんは、開けた窓から「ありがとうございます!」の絶叫を残して走り去っていった。

 後には、静寂と、急発進したタイヤに弾かれた砂利によってダメージを受けた私と柚木さんが残された。

 結構、痛かった。







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