23怪
子ども特有の、きゃらきゃらと跳ね上がる高音の笑い声と共に、歌が聞こえる。
小さな手と繋ぐため、少し腰を曲げて歌を紡ぐ。舗装されていない土埃が舞う地面を蹴り上げ、前の子ども達へ足を向ける。次いで、前の子ども達も同じ動作で地面を蹴り上げた。
地面は些細な動きでも土埃が舞うほど乾ききっているのに、空気はじっとりと重い。長く雨が続き晴れ間を忘れた世界のにおいがしている。立っているだけで汗ばみそうな空気の下で、長く雨を忘れたかのような土が舞う。
「かーってうれしい、はないちもんめ」
どうしてだろう。今はこの歌、聞きたくない。
昔あんなに遊んだのに。それらは楽しい思い出なのに、どうしてだろう。不思議に思い、首を傾げる。
「まけーてくやしい」
歌を紡ぎながら頭の片隅で疑問を紐解いていく。
「はないちもんぎゃ――!?」
自分の中で解答を得たのと、視線を下ろしてしまったのは同時だった。
私は、歯茎まで剥き出しにして笑う眼孔が空っぽの子どもと繋いでいた手を、絶叫と共に振りほどいた。
恐ろしいときに声を出せたら、世界中から褒めてもらっていいくらいの偉業だと吾川さんが言っていたので、私は大変素晴らしい偉業を成し遂げたのだと誇らしい。
自分を誇る暇も余裕も皆無だが。
その偉業による悲鳴を上げた途端に世界が霧散した。子どもの姿も歌も消え失せ、私の平行感覚も失われる。
ほんの瞬き一瞬の間に、私の身体は横たわっていた。
背中に当たる柔らかな感覚が何か思い至らず、反射的に手で探る。さらりとしたシーツの感触が掌を撫でた。
布団だ。
呆然とした心は他にも確証を求め、足も動かしてみる。表も裏も、綿の塊に包まれていた。強張っていた身体の力がすとんと抜ける。
夢だったのか。怖い夢だった。柚木さんに報告案件だ。まだばくばくと鳴り続ける心臓を宥めながら、そんなことを考えていたが、すぐにぎくりと身体と思考が竦んだ。
私の顔の上に、何かが乗っている。
布団ではない。布よりも吸い付くような感触、何より底には熱がある。人の肌が、私の顔に触れていた。
一際激しく心臓が跳ねる。目を開けるのが怖くて閉じたままにしていたから、気付くのが一拍遅れたのだ。何かが、いる。じゃあさっきのあれは夢ではなかったのかどうしよう困る怖いどうしよう怖い何これどうしよう怖い助けて怖い助けて。
「ゆ、柚木さん」
「はい」
「うわ近い!」
震える声で隣に寝ているはずの柚木さんを呼べば、思ったより近くから返事があった。起きていたのか、じゃあ安心だ。
そう思い、再び力の抜けかけた身体がまた強張った。
声が、歌が聞こえる。
足下で舞っていた土埃のように乾燥し、掠れた声が紡ぐ、花いちもんめ。
それも一人ではない。子どもにも老人にも聞こえる声が人数を判別できぬほど重なっている。
「まだ夜明けまで時間がありますし、寝ていてください。おやすみなさい」
「この状況下で『はい、おやすみなさーい』って言える人いないと思いませんか!?」
「そうですか? 僕はこれ幸いと寝ますが」
「幸いって何でしたっけ?」
凄まじい精神力だ。いや、この場合凄まじいのは睡魔か?
柚木さんはいつ如何なる時も通常営業である。
この人は動揺することがあるのだろうか。彼の精神力にはいつも驚かされる。これで私と同じ年だというのだから、今までどれだけの修羅場を潜ってきたというのか。私の貧困な想像力ではその一端すら掴めないだろうが、今はその通常が有り難い。おかげで私も恐慌状態に陥らずに済んだ。
「あの、なんか沢山の声がしてるんですけど、柚木さんにも聞こえますか?」
「はい」
平然と肯定された。
「梓さん、港にいた霊の数は八人だったと言っていましたね」
「あ、はい」
「八人揃ってますよ」
「八人揃ってる」
平然と報告された。
こんな場所で呑気に眠っていられるか、俺は起き上がらせてもらうと高らかに宣言、はしないまでも、とりあえず起き上がろうとした身体は、視界を塞ぐ温かな物によって阻まれた。びくともしない。人とは、頭を押さえられると起き上がれない生き物なのだ。
ぐ、ぐ、と、腹に力を篭めて何度かチャレンジし、全て敗北した私はしばし考えた。
「……もしかして、私の目を塞いでるの、柚木さんですか?」
「僕じゃない存在が塞いでいる可能性がある場合、もっと焦ってください。でも正直に言えば、塞いでいるのが僕でも梓さんはもっと焦る必要があると思います」
「そこまで意識が回らなくて……」
もうどこに意識を向ければいいのか分からない。
耳からは、幾重にも重なり合った花いちもんめといつも通り淡々とした柚木さんの声。視界はホットアイマスクのように温かな、恐らくは手によって塞がれている。
「あの、どうして塞いでるんですか?」
「あれと目を合わせるとまずいからです」
「柚木さん、目を閉じてください!」
見えないまま、慌てて両手を彷徨わせる。柚木さんの手が私の目を塞いでいるのなら、柚木さんの目は私が塞がねばと思ったのだ。
よく考えれば、柚木さんの手は二本あるので片手で私の目を塞いでいても何ら問題ないと分かるのだが、如何せん寝起きなのだ。しかも混乱に次ぐ混乱を受け続けた寝起きだ。私の思考回路がろくに働いていないのは仕様がないと思うのである。
だから、寝転んだまま手足をばたばたさせる自分の姿がひっくり返った虫に似ていたことなんて全く思い至らなかった。後で思い至ったときには後の祭りだったので、まあいいかと諦めた。
「僕は大丈夫です。慣れています」
「これ、慣れの問題なんですか!?」
「はい。多少は僕が火六の人間であることも関わりがあるとは思いますが。火六は、元は神威。神の威を借りて怪異を狩っていた一族ですから、ふんぞり返るのには慣れているので。ようは、相手に負けなければいいんです……すみません、やっぱり血筋より慣れですね。影響の受け流し方が分かれば簡単です」
柚木さんはいつも通りだ。掌で視界を覆われつつ、盛大に焦っている私が馬鹿みたいである。何だか疲れて、今度こそ身体の力を抜く。
「寝ますか? おやすみなさい」
「寝ませんよ! というか、寝れませんよ! 何でそんな寝かしつけたいんですか!」
「今の状態であれと目が合うと気が狂うか、取り込まれてあれらの仲間入りを果たすかなので、寝ていた方が安全だからです」
とんでもない恐怖が掌の向こう側に展開されていることだけは分かった。それにしては柚木さんの声音に危機感が見られないが、彼はそういう人である。
「あの……柚木さんは本当に大丈夫なんですか?」
「はい、目を合わせることは問題ありません」
「……合わせることは?」
「この状況だと、僕の場合は逆に視線を外したらまずいです」
「視線を外したらまずい」
「死にますね」
「とんでもないことですね!?」
それほどの危機的状況下にあるのなら、そういう声音か、せめて何かしら変化を見せてほしい。
「今日はきつねうどんにします。お揚げが二枚ついているそうなので」と同じ声音で、生命の危機を登場させないでほしい。
この仕事の困るところは、生命の危機が付きまとうことではなく、生命の危機が予告なくしれっと登場するところである。
料理のレシピで用意する物には書かれていないのに、『沸かしておいた湯』『水で戻しておいた寒天』『Aの材料を混ぜ合わせたタレに一時間漬けておいた肉』『湯切りしておいた油揚げ』『180℃に予熱しておいたオーブン』『纏めてふるっておいた粉類』『常温に戻しておいたバター』『バター(分量外)を塗って粉糖(分量外)をまぶしておいた型』など、素知らぬ顔で出てくる新キャラのような唐突さだ。
何度新キャラの罠にはまったことか。私と柚木さんは、レシピ本の前には無力なのである。
「しかし、妙ですね」
「生命の危機に曝されてるの、妙どころの話じゃなくないですか!?」
「彼ら、目があります」
「………………え?」
柚木さんの言葉の意味を理解して、背筋が冷えた。
眼孔が伽藍堂の子ども達を見た。ついさっき、夢の中でさえ、彼らの眼孔に眼球は嵌まっていなかった。
それなのに、目が、ある?
「確実に人の目じゃありませんが。白目がありませんから。それに、梓さんが言っていた推定寬枝さんはいないようです」
「そう、ですか…………待ってください。柚木さんさっき、八人揃ってるって言いませんでしたか?」
「言いましたね」
「……寬枝さん、いないのに?」
声は、勝手に震えた。布団の中にいるはずなのに、身体の芯が凍り付いていく。
「男がいます」
「は、初登場!」
「新キャラですね。着物を着た子ども七人と、男が一人。三十代前後か、もう少し若いくらいに見えます。短髪で、体格に恵まれています。昔の人間にしたらかなり背が高い、と言いたいですが、これもう人間の高さではないので生前の身長は分かりません。こっちを覗き込んでいますが、足はまっすぐ伸びたままなので、腰の辺りで身体が折れてるんでしょうか。腰部分は見えないので分かりませんが、人間だったら骨折ですね。身体を捻り折るラジオ体操みたいです」
「そんな斬新なラジオ体操は存じ上げません!」
「僕もです」
「え、えぇー……」
みしりと、廊下が軋む音がした。それまで全く聞こえなかった音が、その一回を皮切りに次々鳴り響く。子どもが家中を走り回っているかのようだ。壁も天井も床下も、家が壊れてしまいそうな軋みを上げている。
いま、私が見えない掌の向こうでは、どんな光景が繰り広げられているのか。想像したくないのに、音は容赦なく私の思考へ入り込んでくる。
「足は草履を履いています。子ども達は裸足ですね。現在、戸は全開……というより、何故か無くなっていますね。おかげで廊下がよく見えます。子どもは、男五人、女二人ですね。全員笑っていますが、これを笑顔と表現するのは少し躊躇います」
「そうですか……」
そして柚木さんは私の想像を真実という形でしっかり補正してくれる。いま起こっていることを知らないほうが怖いが、知ったら知ったで逃げ道が塞がれ問答無用で怖い。
「到着した初日にこれで三回目。余程波長があったか、何らかの因縁があるか、時期の問題か。そうでなければ儀式なり何なりで強制的に縁が繋げられたんでしょう。流石に動きが活発すぎます。この辺りも木賀矢さんに聞きましょう。答えてくれなければ、その時考えます。ぽちを出したいところですが、熟睡中ですね。遠出にはしゃいだみたいです。あ、電気は消されました」
柚木さんの淡々とした声を聞きながら、大きく深呼吸をする。
見えないことは恐ろしい。たとえ言葉で教えてもらったとしても、目蓋の裏の宇宙で、自分勝手に恐ろしい想像を繰り広げてしまう。しかし、私の貧困な想像力では思いもつかない恐怖が柚木さんの掌の向こう側にあるのだ。
柚木さんのいつもを分けてもらおうと、深呼吸をしながら声に聞き入る。
いつも通り。ここにいま必要なのは、いつも通りだ。そうでなければ、じわじわ燻っている叫び出したいほどの恐怖が噴出し、パニックになってしまう。
「柚木、さん」
「はい」
努めて、震えないいつもの声を出す。
「今日一日、すっごく長くないですか?」
「全くです」
始発に乗るため夜も明けぬ内から起き出して、乗り継ぎに乗り継ぎを重ね、海まで渡った。それなのに、どうやらまだ一日は終わらないらしい。
今日はそういう巡り合わせのようだ。
現在、正確な時間は分からないけれど、恐らく十二時は回っている。それなら一日は終わっているという見方もあるだろうが、私の心情として深夜はまだ前日の延長線上にあった。
柚木さんは溜息をついたようだ。深い息の音と一緒に、私の視界を塞ぐ手が揺れた。しかし、それにしても手が温かい。
「ところで柚木さん、手が物凄く温かいんですが、もしかして眠いんですか?」
「猛烈に。ただ、寝ると死ぬので頑張って起きています。梓さんがまだ寝ないのであれば、僕と喋っていてもらえませんか?」
どこまで本気か分からない声音で紡がれる内容は、酷く恐ろしい。けれどきっと本当のことなのだろう。そうと分かるくらいには、私達はちゃんと友達だと信じられる付き合いを築いてきた自負がある。
だから私は、寝転んだまま両手で握りこぶしを作った。
「勿論です!」
「助かります。僕いま、冗談抜きで目蓋が閉じそうなので、何か僕が驚きそうなこと言ってください」
「いきなり凄まじく責任重大すぎる無茶を振られた私の驚きを分けてあげたい!」
問:1
突如、友達の命を救う驚きを提供せよと言われた私の気持ちを三十文字以内で答えよ
答
無茶言うな
五文字で済んだ。
「え、えーと……待ってください……待ってくださいよ!? 寝ないでくださいよ!? 見えないから反応分からなくて怖いんですけど……柚木さん!? 寝てないですよね!? 返事は!? 柚木さん!?」
「……あ。勿論、起きてます」
「いま寝てませんでした!? 確実に寝てましたよね!? あって言いましたもん!」
「大丈夫です。目は開けて寝ました」
「何が大丈夫なんですか! 連休明けが提出日の医学一般のレポート全然終わってないくらいまずいですよ!」
「…………え?」
今日一番感情がこもった声を聞いた気がする。その感情に名前をつけるならきっと、絶望だった。
あの……私が自分用に作った要点纏めノート貸すので、元気出してください。




