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火六事務所へようこそ  作者: 守野伊音
二章 はじめての孤島編
21/31

21怪






 からからと音を立て、古い家にしては滑りのよい扉が開いた。

 だが、おかしいではないか。廊下が軋む音がしなかった。みしりみしりと、家中を軋ませているのではないかと思うほど湿り気を帯びて連動した音が、一切、しなかったのだ。

 柚木さんじゃない。

 当たり前だ。足音がしなかったからだけじゃない。扉を開けたのが柚木さんなら、ぽち君が唸るはずがないではないか。柚木さんがそこにいるのなら、私に頭突きをくらわせ腹への蹴りを発射台にして駆け出して行くに決まっている。


 心臓が早鐘のように鳴っている。早鐘なんて聞いたことがないけれど、全力疾走もしていないのに鳴ってはいけない音だとは理解できた。

 鼓動が早すぎて、周囲の音が聞こえない。心臓は激しく鳴り響くのに、呼吸はろくにできず、目眩がする。

 視線を向けるべきか、向けざるべきか。悩んだのは一瞬だった。

 見ないほうが怖い。ボールだって見てないと当たるし、見ていたら避けられる可能性が僅かながら存在する。私の運動神経は全く期待できないので、せめて僅かにでも可能性が高い手段を取りたい。


 覚悟を決め、ぽち君のお尻に固定していた視線を上げる。別にお尻を見つめていたかったわけではないけれど、目の前にあったのだ。

 覚悟は決めても、最後まで往生際悪く畳をなぞりながら視線を這わせる。ついに引き戸まで到達した視線が最初に捉えたのは、白い足だった。

 閉じた掌一枚分ほどのスペースが開いたそこには、白くほっそりとした足首が覗いている。どこからどう見ても女の足だ。

 ここで、もしかしたら凄まじい勘違いと不思議事象のため、実は柚木さんでした説が消え失せた。いくら柚木さんが小柄といえど、骨組みまで女性的なわけではない。分かっていたはずなのに、それなりにがっかりした。

 もうがっかりしたなら今更だと思い切ってがっつり視線を上げ、ぎくりと身を強ばらせる。

 薄紅色の、長いスカートだ。流石に視線を彷徨わせてしまう。

 そして、更なる異常に気が付いた。女の姿が、磨りガラスの向こうに存在していない。開いている、掌一枚分のスペース。そこから見える廊下には、確かに女が立っている。それなのに、細い枠組みを隔ててすぐの磨りガラスには誰の姿も映っていないのだ。狭間にしか、見えていない。

 この人がどんなに痩せていても、こんなに細いわけがないではないか。細すぎる姿を想像すると、ひょろりとした滑稽な姿しか思い浮かばない。だが、目の前に現れると、ただの恐ろしい異形でしかなかった。

 それに、どうしてこんなに暗いのだ。全ての部屋に電気をつけておいたはずなのに、廊下は真っ暗だ。全ての部屋から漏れ出す灯りが見えない。それどころか、この部屋の灯りすら遮断されている。真っ暗に塗り潰された廊下で、女の姿だけがくっきり浮かび上がっていた。


 視線をそれ以上、上げられない。女の顔を見る勇気が、どうしても出ないのだ。

 息もうまくできない。こんなバイトをしているのに、情けないことだと自分を叱咤して、馬鹿にして笑いたいのに、息ができない。

 掠れた、細く薄い息が自分の喉から漏れ出して、その音に泣きたくなった。なのに、どうやら怪異は容赦してくれないらしい。

 私の喉から漏れ出た呼吸とよく似た音が、よそから聞こえてくる。私ではない。だって私はいま、情けないその音を聞きたくなくて口を閉ざしたのだ。


「かーって うれしい はないち もんめ」


 薄く掠れ、乾いた声が、歌っている。


「まけーて くやしい はないち もんめ」


 耳を塞ぎたいのに、音を閉ざしてしまう方が余程恐ろしい。だって。


「あなたが ほしい」


 ほら、歌詞が違う。


「あなたが ほしい」


 明らかに、危険が増しているじゃないか。


「たちばな あずさ」


 思考が、止まった。


「あなたが」

「こ」


 思考がそのまま口から飛び出した。

 たった一音だった。

 たった一音。

 されど、一音。

 途端に世界が帰ってきた。眠っていたわけでもないのに、いつの間にか閉ざされていた世界が私に返り、ここは地獄ではなかったのだと思い出す。

 飛び出した一音はそのまま呼吸となり、吐き出された呼吸は必然的に大きく吸い込む勢いとなる。一度吸い込んでしまえば、後は悲鳴と本音が衝撃のまま吐き出されるだけである。


「個人情報保護――!」

 うぉんおんおんおんお――ん!


 私が叫んだのと、ぽち君が盛大な吠え声を上げたのは同時だった。

 廊下へ向け猛然と飛び出していくぽち君。柚木さんの荷物から必殺除霊グッズを掴みだし、それを片手に走り出そうとして踏んづけた座布団で滑り、猛然と転んだ勢いで廊下に転がり出る私。

 ぽち君が飛び出した勢いで引き戸が開いていなかったら、磨りガラスの扉は大破していたことだろう。

 吠えながらバネのように飛び跳ねていくぽち君の後を、両手で掴んだ霧吹きを前に突き出して構え、相手への威嚇と己への鼓舞を兼ねた叫び声を上げて追いかける。

 廊下は激しく軋み、家鳴りなのか崩壊の音なのか判断出来ない程だ。ちなみに、崩壊の音だった場合、私が壊した可能性が高く、大問題である。

 幸いにも廊下は無事であった。さっきは真っ黒だったと思えない明るさの廊下を走り抜ける間、廊下にも左右の部屋にも先程の女の影は見当たらない。いてもきっと分からない。だって私の視線は廊下を猛然と走るぽち君のお尻しか見てはいないのだ。

 突き当たりの扉の前で急ブレーキをかけたぽち君が、開けてくれと私を振り向くと同時に追いつき、その勢いのまま扉に体当たりし、ドアノブを回して中へと飛び込んだ。








「というわけです」

「失踪当時、寬枝さんが着ていた物に類似した衣服を纏った女性が家の中にいた。それで、ぽちと一緒に僕との合流を図ったと」

「はい」

「とてもいい判断だと思います。咄嗟に霧吹きを手にできた辺りは特に、大変素晴らしいと思います」


 なんとか整った息で言葉を紡ぎ出した私は、神妙な顔で正座をしている。その手は、さっき柚木さんの荷物から掴みだした除霊グッズをぎゅっと握りしめたままだ。

 最強の除霊グッズ、その名も霧吹き。正確に言えば、お酒と塩が入った霧吹きである。私はこれを、お清めダブルパンチと呼んでいる。

 そんな物でと思うかもしれないが、これ、怪異が残していった汚れに対して凄く効くのだ。勿論、怪異に吹きかけてもわりと効く優れものである。

 これは、できるだけ荷物を少なくしたかった柚木さんが、纏めたら意外と効いたのでそのまま使っているという歴史を持つ、由緒正しき除霊グッズなのだ。


「柚木さん」

「はい」

「由々しき事態です」

「そうですね」


 柚木さんと話していると落ちついてくる。彼が狼狽えたり焦ったりしている状態を見たことがないからだ。

 いつも、いつも通りである。

 いつも通り淡々と世間話をしてくれるので、こっちが酷く動揺していても、自然といつもに戻れるのでありがたい。


「幽霊が、私の名前を知っていました」

「そうみたいですね」

「私の個人情報が大ピンチです。個人情報保護シールを顔面に貼りたいと思うんですが、どうでしょうか」

「試したことがないので絶対とは言えませんが、無意味である可能性が高いと思われます」


 神妙に俯く私の視線は、正座した私の膝につくかつかないかの位置で、へそ天になり床で背中を掻いているぽち君を見ている。うにゃうにゃうねって背を掻いているのが気持ちいいのか、目を閉じて笑っているように見えた。大変、可愛い。


「寬枝さん、現時点では推定寬枝さんですが、彼女が本物の寬枝さんであると仮定すると、この家に出没することは不思議ではありません」

「そうなんですか?」

「はい。恐らくここは、寬枝さんが失踪時、木賀矢夫妻が住んでいた家だと思うので」

「初耳ですね!?」

「吾川さんに送ってもらった資料で、事件現場である当時木賀矢夫妻が住んでいた家の番地と、この家の番地が一致しましたので」

「あー!」


 そう言えば、柚木さんはさっき、番地を確認しに外へ出ていた。どうして番地をと思ったけれど、そういう流れだったのか。私は全く思い至らなかった。

 私の絶叫が反響し、くわんと響く。我ながらうるさい。反省を兼ねて、大きく深呼吸して精神を落ちつかせる。


「柚木さんよく気付きましたね。私、番地なんて全く意識していませんでした……」

「僕も番地に意識は配っていませんでしたが、家の造りが気になったので」

「家の造り?」

「はい。木賀矢さんは、台所へ向かった寬枝さんが消えたと言っていました。家から出るには自分がいた部屋の前を通らなければならないとも。この家、玄関からしか外へ出られないんです。昔の家にしては勝手口もありませんし、縁側もない。そもそも、窓は全て腰の高さより上にあり、洗濯物を干すにしてもいちいち玄関を通って庭へ出なければならない。あまり、見ない造りの家です。なので一応番地を確認したところ、一致しました」

「はぁー、凄いですね」


 感心の念は吐息に漏れた。溜息とは違う深い息が勝手に漏れて、思わず拍手する。私も、変な家だなぁとは思っていたけれど、その思考を何かに繋げようとは全く思っていなかった。

 拍手時に床へと下ろしたお清めダブルパンチを、ぽち君が前足でちょいちょいつついていたので、そっと自分の背中側へと移動させた。じとっと睨まれたけれど、しれっと視線を外す。普通の犬ではないのでお酒もお塩もきっと大丈夫だろうけれど、こういうときは譲らず犬の安全を確保するのが人間の務めだ。


「木賀矢さん、そんなこと一言も言ってくれませんでしたね……」


 それどころか、自分の家とは別に滞在場所を用意したと取れる口ぶりでこの家に連れてきた。そこにどんな意図があったのか。偶然こんなことになったわけがない。だって私達は、寬枝さんが失踪した事件を調べに来たのだ。事件現場を確認するのは当然だが、何も知らされず事件現場に泊まらされるのは全く違うことだ。

 騙されたと、思わなくてはならないのだろうか。それはなんだか、少し虚しい。

 寬枝さんを見つけたいのだと、何があったか知りたいと、せめて弔ってやりたいと。四十年間探し続け、もうそれだけなのだと、私達に言った彼の言葉は偽りだったのだろうか。

 しかし、全部嘘だったのならまだいい。寬枝さんという人は存在せず、失踪事件なんてなかった。それなら私達は騙されたことになるが、悲しく苦しんだ人は誰もいなかったことになる。そっちのほうが、まだいい。


「そうですね。しかし花いちもんめについても何か知っていそうだったので、明日話を聞いてみましょう」

「……何か、視えたんですか?」

「はい。花いちもんめについて聞いた際、心中では驚いた顔をしていました。しかし、それを一切表へは出さなかった。その時点で何かを隠しているなとは思いました。そして通常、自分が予想していなかった類いの質問をされた際、その問いが何の意味を持って問われたのかと確認します。それが学者なら尚のこと、問いがどこに繋がっているのか興味を示す人間が大変多いのですが、彼は疑問を繋げようとはしなかった。……まあ、この辺りは人によりますが。自分が興味を持っている事柄以外の全てに興味を示さない人間もまた、学者ですので。しかし、木賀矢さんは、はっきりと表情を変化させました。なので、何かあるなとは」


 決定的だ。木賀矢さんは、私達に嘘をついていた。

 何だかどっと疲れて、悲しくなった。


「四十年間この島を調べていた人ですから、色々ご存じの筈です。資料を集める手間が省けそうで、僕はとても嬉しいです」

「そんな嬉しそうな声出すシーンでした!?」


 落ち込んでいた私とは対照的に、柚木さんは言葉に違わず声も嬉しそうだった。友達になる前なら気付かなかったほどの違いだが、その声は確かに喜びを含んでいる。


「今回の依頼は、事前に島について調べる猶予が多少ありました。しかし、この島あまり資料がないんです」

「そうなんですか?」

「はい。元々、今の時代は昔の資料が消えています。今の時代に継いだ人達は、先人が死に物狂いで守ってきた物が方々に残っているので、自分が処分してもどこかに残っているだろうと思うようです。元々保全とは手間と場所、そして費用がかかります。金としての価値がなければその物に価値を見出さない人間にとっては邪魔でしかありませんから。捨てられずとも売られ流れた先で、それらに価値を見出せる人も少なくなりましたし」


 それはきっと、とても恐ろしいことだ。

 誰かが模索し、手探りで作ってきた形を、それらが当たり前になった世代が消していく。自分達が関わっていないから、生まれたときからそこにあるから、当たり前になった物に価値を見出せない。

 それらを当たり前にするまでに犠牲があったとしても、誰かの人生が狂ったのだとしても、日々を忙しくなく生きる人間にとって、当たり前に価値を見出す余裕はないのかもしれない。そして、当たり前を保全し維持する手間と余裕を、生活の中からひねり出すことを勿体ないと言い切る。

 せめてその過程に携わっていればまた違ったのかもしれないが、どんな分野においても過程に関わる人間の数は少ない。


「なので、元々資料は減っていっているのですが、それにしても少ないんです。だから、途中で変化があったのだと思って調べ方を変えました。するとやっぱりありました」

「何がですか?」

「改名の記録です。この島、一度名前を変えているんです」


 成程、それなら岸霧島で探しても見つからないだろう。

 しかし、そういった調べ物は下っ端である私の仕事ではないのだろうか。調べ物は、自分でも得意か不得意かも分からない程度にしかしたことがないので、今度手伝いから始めさせてほしい。そして、よければコツや極意や裏技などを伝授していただけると嬉しいなと、こっそり期待する。

 不埒な願望を胸に秘めて、話の続きを待つ。


「恐らく戦後の混乱に乗じたのでしょう。読みはそのままで、漢字だけ変えたようです」

「はぁー、色々あるんですね。元々どういう漢字だったんですか?」

 がんきり。他にどんな漢字が充てられるのかなと、頭の中でざっと思い浮かべる。

 がん、岩かな。岩に、きり……ぱっと思い浮かぶのは切だけど、岩を切る島。剣豪でもいたのかなと思う字面だ。そしてちょっと物騒だ。

 つらつら漢字を思い浮かべていると、小学校の頃、夏休みにひいひい言いながら進めた漢字ドリルが頭の中に蘇ってきたので、丁重にお帰りいただいた。


「願いを切るで、願切島です」

「物騒すぎません!?」


 岩切島のほうがまだ物騒じゃなかった。


「その手の島だったようです。どちらにせよ詳細は見つけられなかったので、その辺りも含め、明日木賀矢さんに聞きましょう。ところで梓さん」

「はい?」


 物騒な衝撃は残っていたが、呼ばれれば意識はそちらへ向けられる。呼ばれたのは私だけれど、何故かぽち君もお座りして居住まいを正した。それは、柚木さんからの発せられる静かでいて深刻な気配を感じたからだろうか。


「非常事態宣言です」

「え?」


 慌てて顔を上げる。そこには大きな磨りガラスが存在する。昨今、実家でも一人暮らし中のアパートでも磨りガラス風のプラスチックだから、この家の扉を触った際、やっぱりガラスは重いなぁと思ったものだ。

 特にこの扉はそれを顕著に感じた。音が響くからだろうか。そのガラスの向こうから聞こえる声は、涼やかに反響している。だから、いつも通り淡々とした声と音量で紡がれる言葉が、扉越しでも遮られなかった。

 そこで、はたと気付く。自分がいる場所と状況について、把握していたはずの事実を意識の中で認識した。


「僕、そろそろのぼせそうです」

「大っ変申し訳ございませんでしたぁ!」


 柚木さんが入るお風呂を前に、堂々と脱衣所に居座っていた私は、正座から流れるように土下座へと移行した。








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