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火六事務所へようこそ  作者: 守野伊音
一章 はじめての事件簿編
2/31

2怪





 男が、いる。

 そう気づいたのは、六月の頭だった。気づいたのがその時だったのであって、男がいるようになったのがその時期かは分からない。


 三階建てのアパートの三階で一人暮らしを始めた。初めての一人暮らしに浮かれていたのは認める。誰からも注意されないのをいいことに、夜遅くまでテレビを見たり、友達と電話したりと、はしゃいでいた。

 そんなある日のことだ。日が変わって数時間は過ぎていた。買ったばかりの本を遅くまで読んでいた私は、こんっと音を聞いた。

 玄関入ってすぐ、右の扉がトイレ、左の扉が洗面所とその横にお風呂。上がってすぐが台所。その奥がリビング兼寝所となる1Kの部屋。左にベッドを置き、それ以外は右に纏めたシンプルな部屋は、ベッドの枕側の方向に窓とベランダがある。その窓から、こん、こんと、断続的な音が聞こえてきた。


 風が出てきたのだろうと最初は気にもとめなかった。そこから三日は何もなく過ぎたから、私はそんな音がしたことも忘れてしまった。

 だが、その三日後。再び音がした。こん、こん、こんと窓ガラスに何かが当たる音だ。様々な講義で重なったレポートを出し切って疲れていた私は、やっと潜り込んだベッドの中でうんざりした。

 レポートの作業中はヘッドホンをしていたので音に気づかなかったが、ずっとこの音が続いていたのなら、近所迷惑になる。疲れ切り、今すぐ眠ってしまいたいと訴える瞼と身体にむち打ち、ベッドから降りた。

 音は続いている。何の音だろうと首を傾げる。

 こん、こん、こんと一定のリズムで鳴り続ける音に心当たりはない。洗濯鋏などの道具は元々家の中にしまい込む質だし、梅雨を意識するこの季節に出しっぱなしにすることはないのだ。

 虫でも当たっているのだろうと、その時は思った。カナブンでもいるのではと。あまり虫が得意ではないので、それはそれで追い払うのに苦労しそうだとげんなりしながら、私はカーテンを開け、息を止めた。

 男が、いた。

 ベランダに、三階のベランダに、男が立っていた。

 窓に張り付くようにべったりと掌と額をつけた男が、至近距離で私を見ていた。目玉が飛びでそうなほど見開かれた瞳と、異様なほど吊り上がった口角は、確かに満面の笑みだった。





 そこからのことは、あまり覚えていない。気がつけば、床にへたり込んだまま朝を迎えていた。開け放たれたカーテンの向こうには、当たり前のように誰もおらず、美しい青空が見えていた。


「最初は、夢でも見たのかと。酷い、悪夢を見たんだと思ったんです。現に、その日の夜も、次の日の夜も何もなくて、一度音がしたんですけど、意を決してベランダを見たらカナブンが激突していた音でした。だから、慣れない一人暮らしとレポートの山で疲れて、ストレスが見せた悪夢だったのかなって、思ったんです」

「でも、それで終わらなかったんですね?」


 その通りだ。


「け、警察にも相談しました。けど、警察の方が見回りして下さった時間、私は確かにあの音を聞いて、カーテンの向こうに人のシルエットも見たのに、私の部屋のベランダを見上げた警察の方は何もいなかったって言うんです……そんなことが何度もあって……私の頭がおかしくなったのなら、今でも見回りしてくださってる警察の方に申し訳が、なくて…………でも、いるんです。あれから一度もカーテンを開けられないけど、分かるんです。月が出ている日は、カーテンの向こうに人影が映っていて、ずっと音が、して……その動きで、分かったんです。あの男の人は、窓に頭突きしてるんです。ずっと、額をぶつけて、いて…………あの、満面の笑みで、こっちを見たまま、額を打ち付けているんだって思ったら、いつか、いつか、窓を突き破って中に入ってきたらと思うと、怖くて、夜、ずっと、窓から目が離せなくて」


 一度だけ見た男の形相が、瞼の裏に焼き付いている。講義中うたた寝した瞬間、鏡を見た瞬間、壮絶な死に顔と言われても違和感がないほど恐ろしかった、笑顔と呼ぶことを躊躇う表情が浮かぶ。

 叫び出したかった。頭を掻き毟り、男の記憶を掻きだしてしまいたかった。だけどそんなこと出来るはずもない。

 幸いというべきか、日中は何の異変もなかった。大学でも、アパート内でも。だから、それが続くのなら、ああ、あれは酷い悪夢だったのだと思うことも出来たのだ。けれど一度夜がやってくれば、日常はあっさりと私を裏切った。

 三階なのだ。それでも通りから見える位置にベランダがあるから、夜ごと見回りをしてくれている警察の目にも触れるはずなのだ。それなのに彼らは何も見なかったと言う。

 それでも青ざめ震える私のために、親身になってくれる。どうなっているんだと首を捻りながらも顔を合わせるたびに心配して、見回りの強化を緩めようとはしない。

 彼らが私の正気を疑い、見回りに手を抜いているのであれば、私はまだあれが人の仕業なのかと疑えもした。けれど、誰もが心から心配してくれているように見えた。郵便受けに、見回りをした時間と警察の方の名前、励ましの言葉が書かかれたメモも入れてくれている。戸締まりをしっかりすることと釘を刺しつつ、安眠に効果的だというCDやお茶を教えてくれ、耳栓をくれた。直接ベランダを確認することまでしてくれた。だけどそこには何もなく、またよじ登ってこられそうな電柱もない。屋上から侵入する手口もあるそうだが、その形跡もない。

 それでも、音は止まない。カーテンの向こうのシルエットも消えない。それなのに今日も、彼らは何も見ていなかった。

 こうなってくると私はもう自分の正気を疑うか、荒唐無稽と言われようと幽霊の存在を信じるしかなかった。


 だけどそんなこと、誰に言えばいい?

 幽霊かもしれないだなんて、そんなことを言おうものなら正気を疑われるに違いない。私だって、今まで生きてきてそんなものを見たことなかったし、人から言われても信じなかっただろう。

 昼間は灼熱の日に焼かれ、夜は身の毛もよだつ恐怖に凍える。そんな日々を一ヶ月繰り返した。食欲はなくなり、家にもいられなくなった。だからといって、泊まりに行くほど親しい友達もまだ出来ていない。初めての一人暮らしを心配してくれていた両親にも、頭がおかしくなかったかもなんて、言えなかった。


 夜は息を殺してあれが中に入ってくる可能性に脅えながらカーテンに映るシルエットを見つめ続け、昼は日に茹でられ、ふとした瞬間にあれの満面の笑みを思い出すと吐き気がした。あれが凄まじい顔で笑っていたことは恐ろしいほど焼き付いているのに、どんな男だったかはまるで思い出せない。若いのか年老いていたのか、痩せていたの太っていたのか、どんな色の服を着ていたのかもしかしたら着ていなかったのか、本当に、どれだけ記憶を浚っても何も思い出せないのだ。

 まるで自分だけが違う世界に生きているのではないかと錯覚しそうになる。

 もう何が日常だったかも分からない。誰に頼ればいいのか、そもそも何かに縋れば救われるのか。もうそんなことすら分からなくなっていた私に、今日初めて会った刑事さんはこの事務所の存在を教えてくれた。彼からは、何の説明も聞かなかった。ここが何かも訪ねなかった。助けてもらえるかもしれないと思ったら何も考えられなくなった。警察を出たその足で、ここを訪ねた。



 私のぐちゃぐちゃとした説明とも呼べない日記のよう言葉を、火六さんは所々相槌を入れながら聞いていた。その度ずり落ちる眼鏡を押さえている。私の言葉が止まると、メモを取っていた手を休め、ボールペンを持ったまま顎に手を当てた。


「それが出る時間や日にちは決まっていない、と」

「はい……あの、信じてくれるんですか?」


 私自身、自分が体験していなければ到底信じられない話だ。それなのに火六さんは、笑いも呆れもせず、黙々とメモを見ている。


「それが僕の仕事ですから。出現時間でも警察に目視できなかったとなると、霊関係である可能性が高いですね」

「……相談した私が言うのも何なんですが、幽霊って、本当にいるんですか?」

「いなければ僕はとっくに廃業しています」


 きっぱりそう言った火六さんは、メモを閉じた。


「とにかく直接見た方が早いですね。自宅にお伺いしても宜しいですか」

「あ、はい。勿論」

「……ティッシュいりますか」

「どうも……」


 あ、はい。勿論、と、心の中で答えた。

 ぐちゃぐちゃだったのは説明と心中だけではないのである。セレブを歌うだけあって、柔らかくしっとりとした、お高いティッシュをありがたく受け取って洟をかむ。

 そこで、はたと気づく。


「あ、あの……お代って、どれくらいになりますか?」


 タダ、ということはないだろう。だって彼はこれが仕事なのだから。たとえ善意からのものであっても幾ばくか包むべきだと思っているが、仕事となると設定された料金表があるはずだ。

 今は、私の現状を信じてくれ、現状を打破する術を模索または助けてくれる相手が、喉から手が出るほど欲しい。だが、懐事情というものはどんなときでもつきまとう。

 火六さんは霊能者、というものなのだろうか。テレビや小説では、彼らに大金を払って仕事をお願いしている。身体を張っている上に、他の誰にも出来ない仕事だからそれも致し方ない。背に腹は代えられないとはこのことだ。だが、だからといって無い袖は振れないのもまた事実なのである。


「ぶ、分割払いって、出来ますか?」


 一括は無理でもローンならなんとかいける、だろうか。奨学金も借りているのであまりローンを嵩ませたくはないけれど、致し方ない。沈痛な面持ちで問えば、火六さんはちょっと眉を上げた。


「見てからではないとなんとも言えないんですが」

「そうなんですか?」

「はい。ティッシュにくるんで捨てられるレベルと、シロアリ駆除のごとく手間がかかるものでは当然料金も違ってきますので」


 それもそうか。蚊とゴキブリ退治では気力も装備も違うだろう。相場が分からないので請求が怖いけれど、一応刑事さんから教えてもらった人だしと、ちょっと楽観的に考える。法の番人である警察の人からの紹介で、ぼったくりと呼ばれる場所は紹介されないだろう。それが正規の値段なのであれば、高くても頑張って支払おう。分割で。

 楽観的すぎるだろうかと、少し悩む。けれど、久しぶりに楽観的に考えることが出来た気がしたので、今はこの心の軽さに従おう。


「でも、どちらにしても少しサービスします」

「え? いいんですか!?」


 思わず前のめりになる。


「何故か、技術が表立つ仕事はタダでやってもらって当然だという人もいるので、最初から払うつもりで来てくれた人にはサービスしています」

「助かりますっ」


 あふれ出す感謝の気持ちを抑えきれず、拳を握ってしまう。お礼の菓子折は奮発しようと心に決める。

 まだ何の解決もしていないのに、私はなんだか既に救われた気持ちになっていた。誰かに話せるって、それだけで救われる。

 しかも、信じてくれた。突拍子もない話を、当たり前のように聞いて、対処しようとしてくれている。それだけで、本当にそれだけで、私は救われたのだ。








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