19怪
柚木さんが灯りをつけたのは、八畳ほどの畳の部屋だ。天井にぶら下がっている丸い二連の蛍光灯を包んでいるのは、竹だろうか。細い竹のようなもので組まれた枠組みだ。
ぶら下がっている紐を引っ張って灯りをつけるタイプのようだが、そのままだと短いからであろう、後から付け足したとみられる赤い紐がぶら下がっていた。昔、この手の灯りが多かった時分、多くの家庭がそうであったと思われる、ずぼらと生活の知恵の中間に位置する、ちょっとした工夫だ。
そこに生活感を見つけて、何だかほっとした。部屋の中央には、足を折りたたむタイプのテーブルと、少しよれた座布団がある。ここで食事を取ったほうがいいのだろうか。
ぼやけたピンク色のカーテンが壁の途中にあるので、あの向こうが窓なのだろう。締まったカーテンを開けるとき、いつも少し緊張する。そう思って見ていると、柚木さんはひょいっとカーテンを捲って向こうを覗いた。あれを平気でできるのが彼の凄いところだ。
その部屋の灯りはつけっぱなしにして、向かいの扉へ向かう。ぽち君は畳の部屋に早々に飽きたようで、先に扉へ向かってその下を引っ掻いていた。それを窘め、柚木さんが扉を開ける。こちらは開き戸なので、中の様子は開けるまで全く覗えない。
扉が廊下に向けて開いたため、慌てて下がり、開閉分のスペースを確保する。開けていた柚木さんも当然下がり、足下にいたぽち君も下がるしかない。
然程広くはない廊下で交通渋滞を引き起こした扉の向こうは真っ暗で、さっき得た元気が急速に萎んでいく気配を感じる。だが、誰も電気をつけていないのに灯りがついていたら、それはそれで怖いなと思い直す。
開いた扉から差し込んだ光源しかない部屋に、柚木さんはすたすた入っていく。置いていかれるのもそれはそれで怖いので、慌てて追いかける。追いかけてもそれはそれで怖い。しかしこれでも、それはそれで怖いことが散らばっている中、一番怖くない方法を選択しているつもりだ。
灯りは足下を照らしてくれるけれど、部屋の上部にまでは届かない。手探りで紐を探した柚木さんの手は、やがて求めている物を掴んだようだ。
かちんっと、思ったより強く固い音と同時に二度の点滅を経て、灯りがついた。
こちらは六畳ほどの畳の間だ。部屋の隅に布団が二組畳まれているので、ここは寝室にしろということなのだろう。
廊下側は壁になっている。そこには、さっき入ってきた扉と襖がある。柚木さんが襖を開けると、そこは押し入れだった。中には何も入っていない。歩く度に少し沈む感触が、畳の歴史を物語っている。
この部屋にはカーテンがない。窓自体がないのだ。押し入れと向かいの壁は、カレンダーでも掛けられていたのか、薄らと四角い跡を残す以外何もなかった。
柚木さんはその壁をぺしぺし叩いて、何やら確認しているようだ。その背中に話しかける。
「灯りつけないと暗いですね……夜中、トイレ行くの絶対怖いですよ、これ」
「声をかけてください」
「乙女の矜持VS恐怖心、両者一歩も引かず開戦です」
「せめぎ合わせるのは乙女の矜持と生命の危機にしてください」
「乙女の矜持、大敗決定じゃないですか!」
叫んでから、はたと気付く。
「…………え? いきなりその危機登場しちゃうんですか?」
「可能性としては」
「えぇー……」
この仕事は、命の危機と隣り合わせである。
それはちゃんと分かっているつもりだ。柚木さんも丁寧に説明してくれたし、このバイトを始めるきっかけの事件で恐怖はしっかり把握した。
だからやると決めた以上、注意事項を守り、気をつけながら全力で行こうと決めている。
よって、生命に危機が迫る状況があること自体は、今更驚きはしない。
だが前振りなくさらりと登場しないでいただきたい。だからといって、くるぞ、くるぞ、ほらくるぞ、ほらな! と登場されても怖いので、できれば登場しないでいただきたい。
くるなら、こんにちはー、きちゃったー、と、可愛く、尚且つ菓子折などの手土産を持ってのほほんと来ていただきたい派だ。
……それはそれで怖いので、やっぱり訪問はご遠慮願いたい派にしておく。
柚木さんを先頭に、押し入れ横の開き戸から進む。灯りはつけっぱなしにしていく。手元にスイッチがあるのならともかく、部屋へ完全に入り、尚且つ手探りでなければつけられない灯りは不安だからだ。おもに私が。
扉の先は、これまた部屋だった。しかしここは畳ではなく板の間だと靴下越しの感触で確かめる。部屋の中央まで歩いて行き、手探りで紐を見つける柚木さんの背に張り付くだけの私は、大変な役立たずである。
そうこうしているうちに、こっちは先程より軽い音で灯りがついた。ぱっと明るくなった部屋の中は、ざっと見回すまでもない。
「なんにもないですねー」
「床に家具の跡がありますから、書斎か、箪笥部屋として使っていたのかもしれません」
「え? どこですか?」
「ここです」
指さされた床には、確かに角と思われる三角の跡とそこから伸びた線が見えた。しっかり跡がついてしまっているので、重たい家具があったのだろう。
借家なのに跡をつけてしまうと退去するとき金銭的に痛くなるのだけれど、そこまで気が回らない人が住んでいたのか、持ち家で住んでいたのか。色あせた緑色のカーテンの奥を、柚木さんはひょいっと覗く。
「何だかちょっと不便な間取りですねぇ」
「そうですね」
寝室から廊下へ出る扉が一枚しかない。それならわざわざ開き戸にせず、向かいの部屋のように引き戸にすればよかったのにと思う。
現に、隣であるこの板の間も、磨りガラスではなく襖になっているものの、テーブルがあった部屋のように引き戸になっている。出入り口はその襖だけのようで、開ければ廊下に戻る。私が襖を開けている間、柚木さんはカーテンを捲っていた。
「窓の外、何かあります?」
「いいえ、特には」
「そうなんですか? じゃあ、さっきから何を確認してるんですか?」
これからの仕事で気をつけなければ箇所なのだろうか。それならば後学のためにも是非覚えなければ。
メモ帳は荷物に入れっぱなしにしてしまったので、頭にメモをしようと意気込んでいる私に、柚木さんは静かに頷いた。
「鍵、かかっているかなと」
「鍵」
「はい。防犯は大事ですから」
仕事では勿論、日常生活でも必要な備えであった。仕事の面に気を取られ、通常時でも気をつけねばならぬ点が抜けてしまうとは。
私は大いに反省した。
その後も家の中を探索したけれど、特に何かがあるわけではなかった。
押し入れや水回りの都合などもあるのだろう。部屋の大きさはまちまちだったけれど、他にあった部屋は二部屋で、残りはトイレとお風呂と台所だ。
これらは家の一番奥に配置されていた。水回りが纏められている印象だ。
お風呂はくすんだ水色のタイルが敷き詰められた床と壁に、真四角で底が深い風呂桶だった。丸みを帯びた長方形の湯船を見慣れていただけに、ちょっと新鮮である。
それぞれ熱湯と水が出る二つの蛇口を調整し、ちょうどいい温度に湯を入れていく作業は、少し難儀した。慣れていないとなかなか難しい。
一通り探索を終えた後は、今晩ここに泊まる容易に取りかかることにする。
お言葉に甘えて先にお風呂をいただいた。脱衣所ではぽち君が丸くなっている。一緒にはいるかと誘ってみたけれど、視線どころか耳すら動かしてくれなかった。大変クールな風呂嫌いである。
タイルの床は、お湯をかけている間はいいが、湯船に浸かっているとすぐに冷えてしまう。足を折畳み、小さく縮こまって四角いお風呂に入っていると、何だか自分がプレゼントのように思えて少し笑ってしまう。
四角い箱にプレゼントを入れ、包装し、リボンで包む。長方形の湯船だとそう思わないのは、足を伸ばせてリラックスしているからだろうか。それとも丸みを帯びた形状が、どちらかといえば、箱よりもコッペパンを思わせるからだろうか。
パンを思い出したのがいけなかった。ぐぅっとお腹が鳴る。早く出て柚木さんと代わり、ご飯にしよう。
さっき台所を覗いたときには、簡単な調理器具と数種類のお皿、そして食料が置かれていた。恐らく木賀矢さんが用意してくれたのだろう。柚木さんが入っている間に用意してしまえば、早く食べられる。
私は深い湯船を跨いで、冷たいタイルの上に足を下ろした。残暑厳しい季節とは思えぬ冷たさが足先から駆け抜けてきて、ひょえっと情けない悲鳴を上げてしまう。
そんな自分が恥ずかしくて、そそくさ脱衣所に出ると、本気で寝入っていたらしいぽち君が飛び上がって驚いた。突っぱねた四つ足をしゃかしゃか動かし、慌てて立ち上がる様子が可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて、つい感動していたらぶむぅと妙な鳴き声で抗議された。
三郎太も不満なときそうやって鳴くが、その声どこから出しているのだろう。
犬の鳴き声はわん。固定観念というものは、日々の中で簡単に覆される。