18怪
電話から少しして、白いワゴン車が現れた。
エンジンを止め、車から降りてきたのは木賀矢さんだ。アイロンが襟までぴしっとかかった清潔感のある服装だが、痩せ気味なのと顔色の悪さでちょっと不健康に見えてしまう。
木賀矢さんは年齢の割には多い白髪の髪を掻きながら、何度も頭を下げる。一度会った印象のまま、腰の低い穏やかな人だ。
「このたびは遠いところを本当にありがとうございます。出迎えが遅れてしまってすみません。ぎっくり腰の人が出たもので、手伝いをしておりまして」
「え!? 大丈夫なんですか!?」
それはおおごとだ。この島にお医者さんはいるのだろうか。咄嗟にそう思ってから、普段のありがたさが身に染みる。普段は病院の位置や時間は気にしても、その有無を気にしたことは全くなかったのだ。
私の驚きを受けて、木賀矢さんは皺の目立つ口元を綻ばせた。
「ええ、一人だけですが島出身の医師が常駐しておりますので。何でも島のために医者になったのだとか」
「そうなんですか!」
「おかげで助かっています。けれど、彼も高齢でして、診療所まで病人を運ぶ手伝いが必要なんです。車の免許を持っている人も少ないですし」
ぽんっと叩かれたワゴン車を見て成程と思う。教習所もいざ通うとなると大変だ。片道何時間になるのだろう。ここから最寄りの教習所がどこなのか、土地勘が全くないのでさっぱり分からないが、道中を思い出して納得する。車の免許を持っている人が手伝いに駆り出されるのも頷ける。
私も免許を持っていない。出来れば学生のうちに取っておきたいものだ。柚木さんはどうするのだろう。忘れていなければ今度聞いてみよう。
「立ち話もなんですからどうぞ乗ってください。お疲れでしょうし、本当にすみません」
「いえ、ではお邪魔します」
後部座席の扉は引き戸だった。木賀矢さんが開けてくれたそこに柚木さんと乗り込む。家の車も祖父母の車も開き戸ばかりだったから、実はちょっと新鮮だ。バスの出入り口みたいだとこっそりドキドキする。下りる際には是非わたくしめにお任せを。
大きな車内をなんとなく見れば、荷台に段ボールが積まれているのが見えた。蓋はぴっちり閉じられている。
ワゴン車に揺られながら、流れていく景色を眺める。築年数はそれなりに経っているようだが、出発地点の集落より大きな家が多いように見えた。
しかし昔の家だからだろう。やはり二階建ては少なく、それこそ遠目に見た学校くらいではないだろうか。庭も大きく、高いブロック塀もない。むしろ庭は道路と一体化しているほどに境がない。場所によっては、山と一体化して見える家すらある。しかしそんな家も窓が開いてカーテンがはためいているので人が住んでいるのだろう。
もう暗くなってきたので洗濯物は取り込まれている時間だが、あちこちで電気が灯り、白いカーテンの向こうに団欒を作り出しているのが見えた。畑仕事をしていたのだろう。大きな麦わら帽子をかぶり、タオルを首に巻いて農具やバケツを手に歩いている人と擦れ違った。当たり前の光景なのに、そこに生気を見出してほっとする。
正直、あの集落のように陰鬱とした空気のまま夜が来たらどうしようと思っていたのだ。
「いやぁ、それにしても二人とも若いですね。学生さんかな」
「はい。僕達は二人とも大学生です」
「二人とも、ですか。もしかして、同じ大学の?」
「はい、偶然でしたが」
淡々と無表情で答える柚木さんは、お喋りな質ではない。けれど無口というわけでも口数が少ないわけでもない。話しかければ答えてくれるし、無駄話だってしてくれる。ただ自分から話を膨らませたり、笑ったりしないだけなのだが、話しづらいと思う人はやはりいるようだ。
しかし木賀矢さんは全く気にしていない。それどころか、バックミラー越しにこちらを見ている目元は柔らかく緩められているようにすら見えた。
「そうですか。私も妻と同じ大学だったのですよ」
ゆっくりと何かを懐かしむように紡がれた言葉は、私達に聞かせるためのものではなく、独り言のように聞こえた。
直線的な距離自体はそんなになかったのだろうが、坂道が多くて少し時間がかかった。
下ろされたのは、他の家に比べれば比較的小さめと言えるであろう平屋の一軒家だった。
意気揚々と車のドアを開け、飛び降りた先の地面は砂利だ。車を庭へ入れた時点で分かっていたのに、いざ自分が飛び降りれば思ったより大きな音が出てびっくりしてしまった。
「人口は減る一方で、島も空き家が多くなっていまして。その中でも比較的新しい一軒を借りましたので、綺麗だと思います。もう遅いですし、今日はゆっくり休んでください。申し訳ないのですが、食事の用意が間に合わなくて……レトルトしか」
「ありがとうございます。有り難く頂きます」
「本当にすみません。島外へ買い出しに行ける人も高齢でどんどん数が減っていまして。今では順番待ちになっているんですよ」
どこも高齢化で大変だ。かといって少子化により一人が担う役割が増えた若者達も大変である。あっちもこっちも大変なので、きっと今は大変な時代なのだろう。
いま以外の時代を生きたことがないので、他の時代の大変さを本当の意味で理解も実感も、できていやしないのだろうけれど。
渡された鍵には、キーホルダーも何もついていなかった。
落としてしまうと大変だと、頭の隅でさっと考えながら受け取る。預かっている間だけでも何かつけてしまおうか、それとも小さな袋へ入れたほうがいいだろうか。頭の中で持ってきた荷を解き、適切な処置を考えるが今一ぴんと来ない物ばかりだ。今度からは小さな巾着を用意しておこう。忘れていなければ。
「お気遣いありがとうございます。ではお言葉に甘えて、調査は明日から開始します。まずはご自宅へお伺いしたいのですが、構いませんか?」
「勿論です。明日、十時頃に迎えに来ます。――どうぞよろしくお願いします」
深々と下げられた頭に、私は、柚木さんよりは深く、木賀矢さんよりは浅く頭を下げた。
残暑厳しい季節とはいえ、日が落ちれば温度は急速に下がる。不意に走り抜けた風は、思っていたより秋を含んでいた。
肌寒くなって無意識に脇を締める。少しでも体温を逃がさぬよう閉じ込めている間に、柚木さんと木賀矢さんは簡単な打ち合わせを終えていた。
「最後に一つ、お伺いします」
ずり落ちかけた眼鏡を押さえた柚木さんは、眼鏡越しにまっすぐ木賀矢さんを見ていた。
「花いちもんめについて、何かご存じですか」
人のいい笑みを浮かべていた木賀矢さんは、大きく瞬きをした後、不思議そうに首を傾げる。
「花いちもんめ、ですか。懐かしい遊びだ。私も子どもの頃に遊んだことがありますが、君達のように若い人には珍しい遊びじゃないかなぁ。この島でも小学校は廃校だし、子ども連れは島外へ出て行ってしまうのでもう見ないし。ああ、いや、そういうことではないのかな? もっと専門的な事となると……うーん、私は文系ではなかったので童謡は専攻していなくて」
すまないね、分からないよ。
木賀矢さんは申し訳なさそうに眉根を下げる。何かを聞かれて、専門的な見解を求められたと判断する木賀矢さんは凄い。私などは最初からその可能性に思い至りもしない。
そういえば飛浦さんも彼のことを学者先生と呼んでいた。人が減っていく島の中では、専門分野ではないことでも色々頼りにされることも多かったのかもしれない。
木賀矢さんは人の良さが前面に出る弱った顔で頬を掻く。その姿を、柚木さんはじっと見ていた。そして私は虚空を見つめる。
だって木賀矢さんは花いちもんめについて、一般的な遊戯としての意味合いしか知らないと言った。つまり、私が船着き場で見た謎の花いちもんめ衆は、依頼とは関係ないということだ。解決しても一銭にもならず、誰も救われず、しかし解決しなければ私が救われない可能性がある。
何だこれ。私、何しにこの島へ来たんだっけ。虚しくもなるというものだ。
「木賀矢さん、改めて申し上げます。再三お話しましたが、僕は依頼を遂行できるよう尽力します。しかし、必ずしも貴方の意に添う結果を紡ぎ出せるとは限りません。僕の手に負えないと判断した場合、手を引くこともあり得ます。それでも、宜しいですね」
これは依頼を受ける前に必ず確認することだ。これに了承してくれない依頼はお断りすることになっている。
柚木さんは常に最善を尽くしてくれる。分かりづらいかもしれないが、少々の無理を押してでも依頼人の気持ちに添って全力で頑張ってくれるのだ。
けれど、どう足掻いても無理なものはある。命を懸けても叶うか分からないほど危険性の高いものも、中にはあるのだ。幸いというべきか、私はまだそんな依頼に出会ったことはないが、家業として幼い頃からこの仕事に就いている柚木さんは、多くを語らずともきっとそういう話を沢山知っているのだろう。
木賀矢さんは事務所でも、電話でも、この条件に了承した。それでも、再度の確認を柚木さんはした。それが必要な相手だと、思ったのだろう。
驚いた顔をした木賀矢さんは、やがてゆるりと相好を崩した。
「ええ、分かっています。冷たい奴だと思われるかもしれませんが、私はもう、寬枝が生きているとは思っていない。何があったかも、分からなくていいんです。……ただ、帰ってきてほしい。そしてきちんと弔ってやりたい。もう、それだけなんです」
「――分かりました。では、明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします……遠くから、本当に、申し訳ありません」
静かに頭を下げ合う二人の横で、私も小さく頭を下げる。
既に誰かが亡くなっていると判断した状態で開始する依頼は、苦しい。間に合うようにと願う焦りがない分、切なさと虚しさで埋め尽くされる。助けてあげたいと、願う気持ちは変わらないけれど。
タイヤが砂利を蹴散らしているのか空回りしているのか、どちらともいえない音を立てて車が発進していく。車の通行量はほとんどなく、スムーズに道路へ出ていった。
それを見送り、受け取ったまま両手で握りしめていた鍵を慎重に持ち直す。
周囲には灯りが少ない。街灯が少ないのもそうだが、灯りがついている家が少ないのだ。
人が生活している光景は見えていたが、灯りの有無を確認すればやはり圧倒的に空き家が多い。人口減少はどこの地域でも悩みどころなのだ。
暗くなってきたこの場で砂利の上に落としたら大変だと、片手に持ち直す際にも気を使った。
玄関は縦の格子模様の引き戸だ。真ん中辺りに太い枠があり、上下に分かれている。格子の幅は広く、その間は磨りガラスになっていた。おばあちゃんちの扉みたい。そう思いながら、小さな鍵穴に鍵を差し込む。この手の扉は、扉同士がきちんと噛み合ってくれていないと鍵が入らず苦労するのだ。
左右が歪んでいても駄目、上下は勿論、前後が離れすぎていても駄目である。木賀矢さんは比較的新しいと言っていたが、それでも築何十年かは経っているだろう。
どうしよう、玄関が私に反抗的だ。とっくに思春期は過ぎているのだろうに、まるで校則があればとりあえず逆らいたくなる不良のように立ちはだかっている。しかし奴は学生ではない。年数的にはきっと中年以上だ。この不良中年め。あ、嘘ですごめんなさい。だから刺すことすら出来なくなるなんて、そんなへその曲げ方しないでください。
鍵が回らないどころか、一回引っこ抜いたら入らなくなってしまった鍵と玄関相手に途方に暮れた。
「柚木さーん!」
「……ちょっと待ってください」
私の泣きべそ寸前の情けない声を聞きながら、柚木さんは左扉の格子部分に指を差し入れ、上下左右前後に動かす。
「鍵、お願いします」
「あ、はいっ、たー! 回った! 凄い! 柚木さん天才!」
「この手の扉にはよく立ち会いますので」
がらがらがらと、大きな音を立てて扉を開ける。どこかが歪んでいるらしく、派手に揺れたため余計に音が大きくなったようだ。
半畳ほどの大きさの狭い土間と、式台がなく高い段差になっている廊下が出迎えてくれる。廊下は意外と長く、一直線に奥へと向かっている。
しかし灯りがないのですぐに暗闇が飲みこんでしまい、部屋の配置が分かりづらい。向かって右手側には擦りガラス製の引き戸、左手側には木の開き戸が見えるが、それは手前だけで奥の様子は分からない。
この中へ一歩踏み出すのは、ちょっと勇気が要るな。
怖がりな自分を恥じつつ、もそもそ靴を脱いでいる間に、一歩踏み出すのに全く勇気を必要としていなさそうな柚木さんがすたすた暗闇へ向けて歩いていく。いつの間に靴を脱いだのか、慌てて視線を落とせば見慣れたシューズがきちんと揃えられていた。
私も急いで靴を脱ぎ、その隣へ並べる。腰掛けていた段差を上がると同時に、ぱっと家の中が明るくなった。玄関から向かって右手にある部屋の灯りがついたのだ。廊下と玄関にも光が行き渡り、とても明るくなった。暗闇が追いやられ、光の届かない位置で申し訳なさそうに縮こまっている。
部屋の中からひょっこり柚木さんが顔を出す。
「ご飯とお風呂、どっちにします?」
「凄い、柚木さん。新婚さんみたいです!」
恐怖を誘う家の中をぱっと明るくしただけではなく、平穏まで呼び込んだ柚木さんにいたく感動して飛び出た台詞だったが、柚木さんは真面目なので流さずちゃんと考えてくれたようだ。視線を若干床へ向け、何かを考えた後、何事もなかったかのように顔を上げた。
「ご飯とお風呂と僕、どれにしますか」
「柚木さんが選択肢にあるとか豪華ですね! さてはおやつですか!? 食べます!」
「おやつは夕食の後です。ご飯とお風呂以上の効力を発揮できる何かを僕は用意できませんので、ぽちを出します。ちなみにお風呂を選んでもぽちを出します」
「ぽち君一択ですね」
それ以外の選択肢が消え失せた。お腹がぐぅぐぅ鳴っていようが、たとえ三日飲まず食わずでもぽち君を選ぶ。
そう、私は犬に飢えている。実家で飼っている柴犬に会いたすぎて本人……本犬がいないのに無意識に彼への玩具と寝床を整えるバスタオルを買ってしまったほどだ。命が懸かっていても横を通りかかったのなら視線を奪われる心配があるくらい、柴犬は私の心に直撃する。
期待がダダ漏れになっている私の視線を受けた柚木さんは、一つ頷いて腕を捲った。入れ墨のように腕を飾っている黒いもやが染みだし、やがて一つの形を作り出す。
この世の美と愛らしさと可愛らしさと幸せと幸運と天国と楽園とおやつと財宝と、いいものと定義される全てを凝縮したかのような姿が、廊下の上にちょこんと四つ足で立っている。
水を飛ばすように身体を震わせ、静かな廊下に爪が床と擦れ合う軽い音がちゃかちゃかちゃかちゃかと素早く響く。
「潮風でべたついていると思うので、先にお風呂をどうぞ。ぽちは番犬として風呂前に置いてください。風呂が嫌いなので風呂場には入らないと思いますが、入るようなら一緒に入れていただけると助かります。絶対入らないと思いますが」
どうやらぽち君は、多くのペットがそうであるようにお風呂が苦手のようだ。普段は柚木さんの腕の中をハウス代わりにしていても、やはり実体を伴う以上お風呂は必須なのだろう。
しかし今はそれどころではない。ぽち君の姿を確認するや否や、私は廊下へ膝をつき、両手を広げ受け入れ体勢を取った。
「ぽち君! さっきは撫でられなかった分を、今ここで! 是非!」
前のめりで期待と願望と興奮を露わにした私をちらりと見たぽち君は、体勢を崩してお座りし、後ろ足で自らの顎の下をかいかいかいと掻き始めた。
一通り掻いてすっきりしたのか、はんっと満足とも溜息とも判別できぬ息を吐き、柚木さんの足下に擦り寄った。何度か口の周りとおでこを擦りつけ、巻いたままの尾をくりくり振り、濡れた鼻を控えめにズボンへ押し付ける。つまり、私は完全に無視だ。
今日は無視の日のようだ。
私は膝と拳を廊下に落とし、がっくりと項垂れた。日によっては一日千秋の思いで待ちわびたといわんばかりに尾を振り、きゅんきゅん鳴きながら飛び込んできてくれるのに! そして瞬き一瞬の間に「そういえばそんなに喜ぶことでもなかったな」という顔になり、急速に私への興味を失う。
つまり、勢いで喜んだ後に冷静になるのである。柴犬、そういう所ある。我が家の愛犬三郎太もそういう所ある。そこもまた可愛い。
「ぽち、お前性格悪いぞ」
擦り寄るぽちの頭を一撫でした柚木さんは、こちらは完全に溜息と分かる息を吐いた。
「すみません、梓さん。こいつ、構われなかったら構われなかったで寂しそうにするんですが」
「いえ……今日は私と戯れる気分じゃなかったんですね。仕方ないです。小悪魔系とはそういうものです。ぽち君、気が向いたら私も構ってね!」
握りこぶしで意気込めば、ちゃかちゃかと爪の音を鳴らしながら近寄ってきてくれる。そして、私の眼前で薄く開いた口元からはっと息が吐き出された。すぐにお尻を向けられた上に若干吐き捨てられたような気がしないでもないが、構ってもらえた私はおおむね満足である。
おかげで、お風呂場を探す元気を得た。さて、ちょっとした探検である。