11怪
神様からの委託業務を恙なく終えた火六さんは、ベランダに向けて腕を突き出す。
「戻れ」
一言で、さっきまで男に群がっていた黒い染みが大挙を為して火六さんの腕に戻ってくる。最後の一匹……一個……一染が腕に戻るや否や、火六さんは袖を下ろし、袖の上から腕を押さえた。
傍目にも凄まじい力がこめられていると分かる掌には、筋が浮いている。
「駄目だ、出てくるな……駄目だって言ってるだろ」
腕を睨みつけ、低い声で呟く火六さんを黙って見つめるしかない。
さっき色々説明してくれた話を頭の中で必死に纏める。
あの黒い染みは神様から預かった力で、それが砕けてしまっていて、使わないと変質するから使い続けなければならないと言っていた。
つまり、変質するとまずいことになるというわけだ。神様が眠りについてしまうほどの事件がいつ起こったかは分からないけれど、とても昔の話なら、もしかしてもう変質が始まって。
辿り着いた自分の思考に息を呑むと同時に、火六さんが腕をぺしりと叩いた。
「遊ぶのは事務所に帰ってからだって言ってるだろ。お前いたずらするから、事務所以外じゃ駄目だ」
「遊ぶ」
思わず復唱してしまった。さっきまで自分なりに考えていた怖い結論が霧散する。火六さんは真面目な顔で頷いた。
「こいつ元々は動物霊のようなもので、犬に近いんです」
「犬」
「オモチャも持ってきていないから遊べないって言ってるのに聞かなくて」
「オモチャ」
「ボールやタオルなどですね。投げたら取ってきますし、よく一人で振り回しては放り投げ、取りに行っては放り投げと、セルフで遊んでいます」
「セルフ。ちなみに、わんちゃんのお名前は?」
「神より賜った際、先祖がつけた名前があります。――ぽちです」
「ぽち」
可愛い。
「袖、下ろさないと駄目なんですか?」
「いえ、一族以外の人間からは黒い染みを気味悪がられる場合が多いので下ろしているだけです」
「そうだったんですか。暑いのにお疲れ様です」
「…………どうも」
何でも腕はキャリーバッグのようなもので、移動時に収めるのだそうだ。事務所では自由にさせているので腕にいなかったらしい。
本来は影に潜ませ連れ歩ける存在だったのに、砕けてしまったので影に入れていると影と混ざって出てこられなくなり、引っ張り出すのに苦労して以来、みんな移動時は影以外のそれぞれの方法で連れ歩いているのだそうだ。
「影に混ざったタマは」
「タマ」
可愛い。
「出られなくなってパニックを起こし、不安からか出られた後も持ち主の顔から離れなくなり、持ち主はしばらく顔面真っ黒で過ごしたそうです。その出来事を記した書物には、甘えてくれて嬉しかった、肉球が幸せだったと記されていました」
「それはまあ……何と言いますか……ほっこりエピソード」
なのか?
自分で言っておいてなんだか、この表現は正しいのか今一自信が持てない。
「あの、火六さんさえよければ、ぽち君遊ばせてあげても大丈夫ですよ? ここはペット不可ですけど、飼うわけではありませんし大丈夫じゃないかなと。そもそもペットとは違うような」
火六さんはぱちりと瞬きした。
「オモチャがありません」
「作りましょうか?」
「作れる物なのですか?」
「本当に簡単な物ですけど。あ、でも、普通の犬用なのでぽち君も使えるか分かりません。火六さん、チェックお願いできますか?」
「それは、勿論」
飼い主さんの許可も頂いたことだし、とりあえず材料を集める。火六さんにも言ったが、本当に簡単な物だ。ラップの芯はそのままでオモチャになるし、タオルや要らないTシャツは、結び目を作ったり、三つ編みにすれば即席ロープになって引っ張り合いっこができるのだ。
私の手元を覗き込んでいる火六さんは、一つ一つの作業をじっと見つめている。
「この結び目や三つ編みの部分に餌を入れれば、取れるまで集中してくれるので時間稼ぎになるんです。うちで飼っている犬はドライヤーが苦手なので、こういうのを噛ませている間に急いでドライヤーをかけちゃうんです……あの、ぽち君はご飯って、何を」
火六さんはさっき、ぽち君に食えと言った。あの男を食えと。そして、ぽち君はそれを実行した。まさか、あれが主食だというのか。無料で羨ましい……じゃなかった、お腹壊さないだろうか。
怖い想像をしてしまいながら、そぉっと問えば、火六さんの動きが止まった。つられて私も静止する。どきどきしてきた。想像通りの怖い答えが返ってくるのかと若干警戒する。
そんな私の若干の警戒心を前に、火六さんはゆっくりと口を開く。
「すみません。オモチャ、必要なくなりました」
「はい?」
今まで幾度も繰り返した、拍子抜けする回答が来るかと思いきや、全く関係ない答えが返ってきた。まさか口に出せないような答えだというのか。若干緊張する。若干しか緊張しなくなっている自分に気づいていたが、どうしようもない。
そんな私の若干の葛藤に気づいているのかいないのか、火六さんはそれに関しては何の反応も返せず、ゆっくり頷く。
「ぽち、寝ました」
「はい?」
丁寧に擦られている腕を見つめる。そこにはもう、さっきみたいに力尽くで押さえつけようとする様子は見受けられなかった。
「よく考えたら、僕が寝ていないということはこいつも出突っ張りでした。さっきのあれは、寝不足でテンションが壊れていたのでしょう。深夜テンションというものかと思われます」
「深夜テンション……」
その言葉を複雑な思いで噛みしめていた私ははっとなった。
「火六さん!」
「はい」
「火六さんも深夜テンションじゃないんですか!?」
「何がでしょう」
まるで思い至らない。そう言いたげな……全くの無表情だが、そう言いたげな言葉に、私は心配になった。同時に不安になる。
「私をバイトに誘ったことですよ……」
大変奇妙なご縁だが、やるからには頑張ろう。大変珍しい職種だが、人生初バイトだ。少しの不安とちょっとの期待、結構大きな好奇心が育ち始めていたところに、やっぱり無しでといわれたら落ち込むことは確実だ。
そう言われてしまっても、仕方ないと諦めることは出来るし、私はきっとそうするだろう。だが、がっかりしないでいることも無理だろうと思った。
おずおずと問うた私の前に、何かが差し出された。首を傾げると、ずいっと近づいてくる。よく見れば、それは私が購入した履歴書だった。
「忘れていました。書いてください。写真は後日で結構です」
「え、あの、え? いや、写真は撮ってありますけど、何でいま」
「それはよかった書いてください。志望理由は何でも構いません書いてください。蝉の後始末要員がほしかったでも何でもいいので書いてください」
だんだんロボットみたいな口調になってきた火六さんに押され、慌てて履歴書に書き込んでいく。慌てすぎて誤字をしてしまった。書き直そうとした私の手からボールペンを奪い取り、誤字部分をぐしゃぐしゃに塗りつぶした火六さんは、何事もなかったかのようにボールペンを返してくる。一貫して無表情なのに、何だか奇妙な迫力があった。
「岡豊大学……」
それでも少しでも丁寧に書こうと頑張っていた私を、微動だにせず見ていた火六さんがぽつりと呟く。思わず視線を向ければ、ちょうど履歴書から視線を外した火六さんと目が合った。
「橘花さん」
「はい?」
「何学部ですか?」
「あ、今から書きます。人文学部で」
「僕もです」
「すぅー……」
最後まで言い切る前に挟まった会話に、私の言葉がぶつ切りになった。抜けた息が取り残されて間抜けなことになったが、今は気にしていられない。
この人いま、何て言った?
「僕も、岡豊大学一年人文学部です」
「そうなんですか!?」
私と同じくらいかなとは思っていたが、まさか同じ大学の同じ学部とは思わなかった。何たる偶然。何たる縁。これはもう、決定だ。
「火六さん!」
「はい」
「友達になりませんか!?」
「はい?」
淡々とした口調が珍しくぶれたが気にしない。だって、同じ学校同じ学部、お菓子の好みも似ていて、これから同じ職場で働く。これはもう、友達にならない理由が見つけられない。
「火六さんが嫌でなければ是非。連絡先交換しましょう!」
「それは元々、その予定でした。業務連絡がありますし。電話番号もお願いします」
「あ、はい……」
仕事上に連絡先交換と、友達の連絡先交換は、齎される結果は同じでも気持ちが違う。これは、友達にはならぬ、あくまで雇用主と従業員であるという線引きなのだろうか。
確かに、ちょっと調子に乗った自覚はある。私もいい加減、寝不足でテンションがおかしいのかもしれない。
しょんぼりスマホを取り出したら、火六さんもスマホを取り出した。
「それでは、友達、よろしくお願いします」
淡々と言われた言葉の意味が、一瞬分からなかった。
よろしくお願いします。それは分かる。こちらこそこれからよろしくお願いします。この職種だけでなくバイト自体が初めてなので至らない点も多く、ご迷惑をおかけすることも多々あるかと思いますが、どうぞよろしくご指導ください。
それは分かった。だが、その前に友達とついていなかっただろうか。
差し出されたスマホには、アプリが表示されている。スマホでのお喋りに多く使われているアプリのアイコンには、火六ではなく柚木と書かれていた。
「名前で結構です。同業者に親戚が闊歩している狭い世界です。名字だと全員が振り向く事態になりかねませんので」
成程。確かに家業ならそういう事態に陥るだろう。
しかし私の心は、彼の説明による納得より、じわじわ湧き上がる喜びへと比重が傾いている。友達。友達OK許可がOK。事情があるとはいえ、名前を呼ぶ許可をもらえたのだ。これは一気に友情レベルが跳ね上がったのではないだろうか。
画面に向けていた視線をそぉっと上げる。
「柚木です」
「柚木、さん」
「はい」
繰り返して、はっとなる。
「私、私も梓でいいです! 梓でお願いします! 梓って名前好きなので、友達には是非呼んでほしいと常々思っています!」
「分かりました、梓さん。確かに梓はいい名ですね。あの男を部屋に入れず弾けていたのは名前の影響もあったのかもしれません」
「そうなんですか?」
「はい。弓に使用されることもある、強くしなやかな木です」
単に響きが好きだっただけだが、そう言ってもらえると何だか嬉しい。
「へー! 知りませんでした! 子どもの頃、辛いって漢字が入ってるからお前苦労するぞーって男子にからかわれたんですけど、その時知っていたら言い返してやれたのになぁ」
いま思えば、知ったばかりの知識を使いたくて堪らなかったのだろう。それで人をからかっていれば世話はないが、大人でも知ったばかりの言葉は使いたくなるものだから仕方がない。
「からかわれたのに好きなんですか?」
「だって、人の評価と私の好き嫌いは関係ないじゃないですか。花より強そうな所が好きです、だって木ですし。根強いぞーって感じが力強いじゃないですか!」
拳を握って力説する。根を張りちょっとやそっとじゃ枯れないし、倒れないし、何が何でも引っこ抜かれてやるものかという気概を感じるから、私は花扱いされるより木扱いされる方が嬉しいのだ。
勿論花も好きだ、可愛いし。でも、どっちかというと強い方が何だかいい。格好いい。
それに今だったら、辛い(つらい)はともかく辛い(からい)は割と得意だと言い返してやれたのにとちょっと悔しい。カレーや唐辛子系の辛さなら、それなりに強いほうなのだ。ただし、わさびやからしは即時撤退を進言するくらいには弱い。すぐにつーんとなり、水を求めて彷徨い出す。
それらの辛さの違いに思いを馳せていると、火六さんが居住まいを正した。
「では、願わくば末永くお願い申し上げます」
「こちらこそ! 末永く宜しくお願いしま……え? そんな永続的な気合いいるんですか?」
「はい。僕の単位と心安らかな夏休みと冬休みのために」
「成程、それは重大ですね」
そして、春休みは諦めたらしい。
真面目な文言と共に、正座した膝の上に手を置き、深々と頭を下げた火六さんに、私も慌てて手をついて頭を下げる。膝の上に置くのを忘れ、床についた為、私の礼は土下座に似てしまった。
土下座して友情を強要する女。何罪に値するかは分からないが、何かしらの罪には値すると思う。そこのところどうなのだろう。
疑問に思いつつもとりあえず起き上がり、連絡先を交換したばかりの画面を見つめる。そこには確かに柚木の文字と、柚子が映ったアイコン。私のアイコンは実家の柴犬である。
「へへ」
今日だけで友達二人増えちゃった。嬉しくて思わず笑ってしまった私を、真剣な瞳が見つめている。やけに視線を感じてそっちを向けば、柚木さんもまだ正座を崩さず、膝の上で掌を握っていた。
「梓さん」
「は、はい?」
どこか気負った真剣な様子に、私も慌てて居住まいを正した。元より正座は崩していないが、背筋が曲がっていたのでぴんと伸ばす。
何だろう。このバイトをする上での極意を授けてくれるのだろうか。とりあえず、余計なことをしないと柚木さんの指示を守るの二点はもう知っている。
確かに、ちょっと浮かれてしまったが、このお仕事はきっと危ないこともあるのだろう。楽しくないこともつらいことも、怖いことだって、きっとある。
だって、あの男が現れてからの私の日常はぐちゃぐちゃに壊された。怖くて怖くてどうしようもなかった。
それなのに、柚木さんはあの男を見ても全く動じていなかった。何せ窓越しに対峙しても、淡々と説明していたくらいだ。きっと見慣れているのだ。あんなのを相手にする仕事なのだと、改めて思う。
それでもやろうと思った。やってみようと、やってみたいと思えたのは、この人が面白かったからだ。そして、優しかった。この少し不思議なテンポの人に、私は確かに救われた。同じように、これからも誰かを救っていくのだろう。その手伝いを出来たらと、いや、したいと思ったのだ。
だからどんな仰々しい極意であれ、重々しい心構えであれ、しっかり受け止めよう。
私は真剣に柚木さんの言葉を待った。柚木さんは一度開きかけた唇を躊躇うように閉じ、また薄く開けた。
「後期の授業、一緒のを取りませんか」
「はい…………はい?」
何て?
「そして、僕にノート、見せてください」
どこかの部屋の住人が帰ってきたのだろう。足音と、鍵を開ける音、重たい扉がばたんと閉まる音まで、私の部屋に響き渡る。それは、この部屋が静まりかえっているからだ。ここに時計があれば、時を刻む音がはっきり聞こえていただろう。
すぅっと大きく息を吸い、吐く。そして必要な分だけを取り入れた。
「……柚木さん」
「はい」
「前期、単位取れなかったんですか?」
そう言えばさっき、僕の単位のためと言っていたなと思い返す。
「はい」
真面目な顔できっぱりはっきり言い切っていい返事ではないと思うのである。
「何で!?」
「試験期間中に肝試しを決行する阿呆共が続出したからです」
「あー……!」
何てことだと頭を抱える。だが、すぐに持ち直す。誰より頭を抱えたいのは、柚木さんだからだ。柚木さんの目が心無しか虚ろに見える。いや、心無しも何も虚ろだった。眼の光は消え失せ、寝不足と疲労を証明する隈が更に浮き上がって見えるほどだ。
「教授に事情を説明した結果、いくつかの授業はノートを提出すれば単位を頂けることになりましたが、それなりに親しい面々とは悉く授業が重なっておらず詰みました」
「何と……」
「今回と同じように僕達の大学より先に試験が終わる学校がある限り、僕は単位か人の命かの選択をすることになるでしょう。それはそれでいいんですが」
「いいんですか!?」
「僕は慈悲の心で仕事をしているのではなく、生活がかかっていますから。更に大学生活には莫大な金銭もかかっています。ひいては僕の人生がかかっています。自分の行動のツケは自分で払うのが鉄則。仕事とは金銭を取引材料とし、ツケを肩代わりしているに過ぎません。僕達の場合は寿命が関わってくるので緊急性は増しますが、仕事の意味は他の職種と大差ありません。他者の人生のツケで、こっちの人生を崩すのはいただけません」
柚木さんの言っていることは間違っていない。どんな仕事も個人の人生と引き換えに出来るようなものではないし、してはならない。あくまで仕事は人生の副産物なのだから。
それは分かる。分かるのだけど、虚ろな目で言われると「ああ……疲れてるんだな……」という気持ちが先行してしまい、ひたすら心配になってきた。
「あの、前期の分も、もし私が取っていた授業とかぶっているのがあったらノートまだありますから写しませんか?」
「梓さん」
「はい」
瞬き一つせず伸ばされてきた手が、書きかけの履歴書をとんっと突いた。
「履歴書、書ききってください」
いまそんな話だったかな?
大変不思議だったが、履歴書を書くことに異論は無かった為、大人しく履歴書作成を再開する。志望動機は、流石に彼が言ったようなあまりに適当すぎることは書けなかった為『この事務所に救われたように、私も誰かの助けになりたいと思い志望しました』と書いた。更に続けようとしたら、何故か立って見下ろしている柚木さんから先をせっつかれてしまった。
押し売りや怪しい宗教の勧誘が若干頭を過るほどには急かされている。私が書いているのは本当に履歴書なのだろうか。いつの間にか何らかの契約書にすり替わっているのでないか。明日には、私の部屋に壺が飾られているのでは?
そんな不安が湧き出してくるほどには、大変急かされている。
不安に襲われながらも何とか仕上げた履歴書を、立っている柚木さんに私は正座のまま渡す。明かりを背負って立っている柚木さんに履歴書を掲げている気分になってきた。
素早く受け取った柚木さんは、不備がないか確認してくれている。真剣な眼で見直されてると、多分大丈夫だと思っていても何だかそわそわしてしまう。
それにしても、今までの人生では思いもしなかったファンタジックな現象が目の前で起こっていたというのに、怖がりそびれ驚きそびれ、ある意味散々である。
そして、人生初バイトまで決まってしまった。
勢いや突発的な衝動で重大な決断をしてはいけないとも思うけれど、何だかもう、ここまで来るとどうにでもなれという気持ちが強くなる。
私は、居住まいを正して柚木さんを見た。
「えっと、改めまして……お役には立てないかもしれませんが、バイト、精一杯頑張ります。これからどうぞよろしくお願いします」
軽く頭を下げる。だが、柚木さんからの返答はない。それどころか動きもない。私はそろりと顔を上げ、絶句した。
「ね、寝てる」
そう、柚木さんは立ったまま寝ていた。
目蓋は完全に下り、すぅすぅと小さな寝息まで聞こえる。眼鏡越しで見えづらいが、その瞳の下にはくっきりとした隈がある。じっくり見れば隈が存在感を主張しすぎて、目が陥没しているようにも見えた。
あまりまじまじと見つめるのも失礼だと今まで覗き込んでいなかったが、確かにこれは酷い。
よっぽど疲れていたのだろう。仕事が一段落ついた途端、眠ってしまったのも頷ける。穏やかな寝息を立ててぐっすり眠っているのなら何よりだ。
直立不動でさえなければ。
更に言うのなら、私の家でなければもっとよかった。
「柚木さーん、もしもーし」
軽く揺すってみたが、起きない。起きる気配すらない。眉間に皺を寄せてぐずりさえしない。なんとも健やかな寝顔である。
どうしたものかと少し悩む。
幸いと言うべきか、柚木さんのすぐ傍には私のベッドがある。ちょっとやそっとで起きないのならば、もう押し倒してベッドで寝かせればいいのかもしれない。
結論が出れば実行を躊躇う理由はなかった。実行は躊躇わなかったけれど、別の理由でちょっとだけ躊躇ったが。
「柚木さん、触りますよ……?」
そっと窺ってみるも、やはり反応はない。意を決し、彼の眼鏡に手を伸ばす。後ろで蔓をとめた眼鏡に触ったことがないので恐る恐るになってしまう。眼鏡はその人に合わせて作られている上に、高価な物だから尚更だ。
髪の毛を引っかけないよう気をつけ、そぉっと外し、一息つく。ピアスは、そのままでいいだろう。たぶん。
ここまでは順調だったが、問題はこの直後に起こった。手に持ったままの履歴書を引き抜こうとしたのにびくともしないのである。
「え、ちょっと、柚木さん!? 履歴書! 履歴書ぐしゃぐしゃになってますけど!? 渾身のって程ではありませんけど、それなりに急いで丁寧に頑張って書き上がったばかりの履歴書が、まるでゴミのような惨状になってます!」
流石に見過ごせず、必死に手を開こうとするがびくともしない。全力を篭めても指一本引き剥がせないのだ。まるで命綱のように硬く硬く握りしめられたゴミ、もとい私の履歴書。
その後も尽力したが、結果して無力を発揮しただけの私はがくりと項垂れた。
さよなら私の履歴書。思えば、君とは短い付き合いだったね。きっと私達はそういう縁だったんだ。
履歴書の生存はきっぱり諦める。破れたら書き直せばいいのだ。さらば履歴書。布団に散れ。
掛け布団を剥いだベッドの上に、柚木さんを押して倒す。乱暴なのは許してほしい。流石に、抱き上げてそっと寝かせるなんて芸当は不可能だった。
どぅっと倒れ込んだ柚木さんの顔の下に枕を差し込み、掛け布団をかける。仕事終了だ。柚木さんが小柄でよかった。
私も大概疲れていた自覚はある。続く睡眠不足、最近ずっと張り詰めっぱなしだった精神の糸が切れ、ホラーな光景を見、ファンタジーな光景を見、初バイトが決まった。
疲れ果てるには充分すぎる理由が揃っている。
部屋の中は静かなものだ。すぅすぅと気持ちよさそうに眠っている柚木さんを見ていたら、自分の方針もあっさり決まった。私も寝よう。お風呂はもう明日に回す。寝る。とにかく寝る。誰が何と言おうが寝る。
拳を握り心の中で固く決意した私の耳に、静寂を切り裂く音が飛び込んできた。履歴書が破れた音ではない。
じりりりりりんと今時珍しい黒電話音だ。
何だ、どこに黒電話が、これも怪現象かとパニックになった私の前で、布団の山がもぞりと動いた。もぞもぞとした動きに合わせて掛け布団がずり落ちる。
掛け布団から現れた柚木さんの腕は、どうやらポケットに入れていたらしいスマホを取りだした。確認せずに布団に押し倒してしまったが、壊れていないだろうか。どきどきしてきた。
そして、そこでようやく、鳴っていたのは柚木さんのスマホだと気づく。黒電話音のおかげで、デジタルなのかアナログなのか今一判断がつけづらくなっている。
寝返りを打って仰向けになりながら、柚木さんはスマホを耳につけた。
「――うるさい」
開口一番、この世の不機嫌を煮詰めたみたいな声で言い放った柚木さんの口は、その形のまま止まった。そんな、表情が固まってしまうような内容なのか。はらはら見守っていたが、すぐに違うと気づく。
柚木さんは、そのまま眠っていた。電話口から大声が漏れ出ているのにぴくりともしない。
「う、嘘ぉ」
柚木さんが落ちたことにより、電話の相手は放置された状態だ。受取手を無くしたくぐもった声が、電話口から飛び出している。何と言っているのかは聞き取れないが、相手が大声で怒鳴っていることはよく分かった。
本来、人の電話に勝手に出ることはいいことではないが、電話相手が突然応答しなくなったら心配するだろうし、説明したほうがいいのかもしれない。
そして、いまここでそれが出来るのは私だけである。
だが、電話口から漏れ出ている大声に怯んでしまう。悩んでいる間も電話相手の声はヒートアップしていく一方だ。
どうせ出るなら早いほうがいい。私は覚悟を決め、火六さんの手からスマホを引き抜いた。
「もしもし!」
『火六! 死んだか!?』
「ひぃ!」
『……あ?』
鬼も裸足で逃げ出しそうな男の怒声に、思わず悲鳴が出てしまった。しかし、生死を心配されている柚木さんのためにも勇気を奮い立たせる。
「すみません、私、柚木さんじゃ、ありません」
勇気を精一杯奮い立たせても恐る恐るしか話せなかった。相手の反応を窺い、息を殺す。電話の相手は、突然代わった電話相手に息を呑んだようだ。電話の向こうで何かを落とした音がした。音からして、どうやら缶のようだ。何かを飲んでいたのだろう。カラカラと転がっていく音を聞きながら、中身が空だったことを祈る。
しばしの沈黙後、男は呻き声と聞き間違えそうな声で、躊躇いがちに声を出した。
『あ――……えーとだな、俺はそいつの知り合いの刑事で、吾川という。そっちはどちらさんで? 火六はどうしたんだ?』
「あ、私、橘花と申します。柚木さんは……その、寝ちゃって……」
『寝ただぁ?』
呆れかえった声で言われた。その気持ち、分かる。
だが私は、三日徹夜の後に炎天下のベランダで掃除させた身なので、彼のフォローに回らねばならぬ、山より低く海より浅い事情があるのだ。
「とてもお疲れだったのに、私の用事を手伝ってくださったんです。あの、もしお急ぎでないのなら、このまま寝かせてあげたいんですが……どうでしょうか? 差し支えなければ、私が伝言を承りますが」
高校生の頃、授業で取得した秘書検定の言葉遣いを必死に思い出す。間違っていないといいのだけれど。
使い慣れない言い回しに舌が絡まってしまいそうだ。もう子どもではないけれど、大人だと胸を張るほどの自信もない身としては、大人っぽい言い回しがちょっと照れくさい。
それを披露する相手は、先生でも面接官でもない見知らぬ誰かである。だが、知り合いに披露するより見知らぬ誰かさんに使うほうがやりやすい気持ちも確かにあった。
『事情はよく分からんが、火六が寝ちまったのだけは分かった。俺は事務所近く
に来てるから、話は直接聞いたほうが早そうだ。俺も、そいつにちょっと仕事で用があってな』
「あ、いえ、すみません!」
大事な部分を伝えていなかった。私は慌てて続けた。
「柚木さん、私の部屋で寝ていますので事務所にはいません!」
『………………………………は?』
長い長い沈黙が落ちた。
相手が沈黙すれば、その分こっちも思考の時間が生まれる。私はさっき自分が口にした言葉を頭の中で反芻した。反芻し、思考に馴染ませ、咀嚼し、飲みこんだ瞬間、大変な誤解を招きかねない言葉だったことに気がついた。
意味が無いことは分かっているのに、思わずスマホを持ち替え、反対の耳に押し当てる。
「あの!」
慌てて訂正しようとしたが、パニックに陥った頭では、まず訂正の言葉の切り口が浮かばない。
違うんです! 何が?
そういう意味じゃないんです! 何が?
言葉を考えるたび、頭の中の自分が何が問うてくる。ちょっと黙ってほしい。
ぐるぐるしている私より、相手の反応が早かった。
『そ、そうか! いや、その、何だ! 悪かった! これは、後で火六に殺されるな! いや、うん、分かった!』
「違うんです! すみません、違うんですっ!」
『いや、うん! そうか! タイミングが悪かったな! うん、皆まで言わなくても大丈夫だ。悪かった。そうだよな! 柚木って呼んでたもんな!」
「待ってください、違うんです!」
『うん! 任せろ! 問題ない! 了解だ! 仕事のことはこっちでなんとかするから大丈夫だ! じゃあ、その、あれだ、火六によろしく!』
「ちがっ」
無情にも、既に電話は切られていた。通話終了表示を呆然と見つめ、へなへなと座り込む。
「うんです……」
言い切れなかった否定の言葉を続けたところで、聞いている人は私しかいない。やってしまった。
呆然としたまま座りこめば、柚木さんの寝顔が近くなった。すぅすぅと健やかな寝息を立てている人の胸元に覗いている履歴書を、見るともなしに見つめ続ける。そうすれば、やっぱり情は湧くもので、そういえばさっきスマホを取るために手を使ったよなこの人と思い至る。
そぉっと手を差し込み、履歴書救出作戦を決行する。
そして、びくともしない履歴書に救出失敗を告げ、臨終を祈った。
疲れ切った身体と精神に最後のとどめをくらった私は、呆然としたままお風呂に入り、呆然としたまま台所にバスタオルを敷き、呆然としたままティッシュの箱にタオルを巻き、呆然としたまま箱を枕に寝転がり、呆然としたままカーディガンを羽織って目を閉じる。
ここまでほぼ無心だった。おかげで流れでお風呂に入ってしまった。私さん、えらい。呆然としたまま自分を褒める。
疲れ切った心は睡眠を求めていた。私は素直にその欲求に従った。羞恥も罪悪感も、固い床も周囲を囲む台所用品と食料も、度重なる睡眠不足と疲労には勝てなかったのである。
大学生にもなれば、何となくぼんやり過ごせる程度の常識はそれなりに理解している歳だ。だけど、世の中にはまだまだ私の知らない常識が沢山あるんだなぁとぼんやりした頭の中で思う。
それを知ることができたのが、ある意味極限状態の自分でよかったと思う。他のことを考える余裕が無くて、自分でも驚くほどあっさり身の内に受け止められた。そのおかげで、どうやらこれから忙しくなりそうだけど、それも何だかんだと楽しそうだと思えるのは、柚木さんが面白い人だったからだ。
明日からは、最近ずっと失われていた日常が戻ってくればいいなと思う。そして、知ったばかりの常識もそのうち日常に加わるのかなと思うと、少し面白かった。
こんなにも、今まで私が知らなかった世界を見せておきながら、どこまでも私が知っている生活から外れなかった柚木さんが、とても面白かったのだ。
そういえば、今更だがあの男は結局何だったのだろう。幽霊だったのか悪霊だったのか生き霊だったのか、はたまた妖怪の類いだったのか。元は人間であるとの説明があったようにも思うので、やはり妖怪ではなく霊の類いなのだろう。
その辺りの詳しい説明はあまりなかったなと苦笑する。目の前に私にとっては奇異な存在があったのに、それが何なのかよりも取扱注意ばかりだった。
それなのに、それ以外の話は沢山した。特に食べ物の好みはお互いに初対面とは思えないほど詳しくなってしまった様に思う。聞こうと思っていたことを聞き忘れ、関係ない話には見事な花が咲く。これもまた、日常の些細なあるあるだ。
誰にも信じてもらえないと思っていた恐ろしい不思議が解決したら友達が出来た。世の中は、あらゆる不思議に満ちていた。
男のことは、明日忘れていなければ聞いてみようと決める。椎木さんにもラインしたい、明日。そう明日だ。全ては明日に託そう。
早く明日になればいい。恐怖からの解放を求める救いではなく、ただただ明日を楽しみに眠りへつくなんていつぶりだろう。
全てを放棄して眠りについた私は、熱中症にならないようつけっぱなしだったエアコンの温度設定うまくいったなと、どうでもいい満足感だけを供に、久しぶりに深い眠りについた。