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火六事務所へようこそ  作者: 守野伊音
一章 はじめての事件簿編
10/31

10怪






「あー……」


 私は両手で自分の顔を覆い、呻き声を上げた。

 別に呻いたつもりはなかったけれど、色んな感情が一緒くたになれば言葉なんて出やしない。ない交ぜの感情を呻き声のような呼吸で胸から吐き出す。そうしないと、何かがこみ上げてきそうだった。

 突然俯いて呻いた私に、火六さんはぎょっとしたようだ。下を向いている私の視界で、彼の足が半歩引いたのが見える。私は、がばりと顔を上げた。


「分かりました! 私でよければそのバイトお受けします!」


 ここまで親切にしてもらって、助けてもらったのだ。……まだ元凶は退治してもらっていないが、お世話になったことに変わりない。この恩義をそのまま捨て置けば人間が廃る。


「ただし、私本当にこういったことへの知識皆無ですし、バイトの経験もありません。使えないと思ったら事前に告知してからすっぱり切ってください。い、いきなり切られるとちょっと落ち込むので、心の準備をする期間を設けて頂ければ幸いです!」


 恩義と勢いに背を押され、そこにやけくそをふりかけ、私もそれなりに寝不足でぽんこつになっている頭を混ぜ込めば、初めてのバイトに幽霊退治を選べると知った。

 両拳を握って宣言したはいいものの、火六さんからの反応がない。

 これはどういった類いの沈黙だと視線を上げれば、彼は私をじっと見つめていた。薄く唇が開き、はくりと閉じる行為を繰り返している。

 これはどういう反応だと、私は握っていた拳を解く。しかし下ろすことも出来ず、中途半端に上げたままの両手を彷徨わせる。

 もしやこれは、バイト云々かんぬんの流れは冗談だったのだろうか。いや、それにしては鬼気迫っていたように思う。ならばあのときは本気だったが、改めて考えるとないなと思ったのだろうか。その断り文句を探しているんだったらどうしよう。

 何故だ。何故バイトを請われた側の私が、断られる覚悟を決めなければならないのだ。悲しすぎる。

 おろおろしている私の前で、火六さんはいきなりジャージの腕を捲った。その勢いに、思わず後ずさる。だが中途半端な位置で上げていた手が逃げ遅れた。その手を、凄まじい勢いで掴まれた。


「ひぃ!」

「言いましたね? 言いましたからね? 言いましたからね?」

「い、言いました!」


 鬼気迫る顔の火六さんと彼に掴まれた腕、更にその後ろの窓の外で揺れている巨大な頭部。私は一体どれを注視すればいいのだ。


「そろそろ昼から夜へ移行した面子も夜に馴染んだでしょうし、僕は仕事します。橘花さんは、僕の仕事を見て、分からないところがあれば遠慮なく聞いてください」


 そう言った火六さんの腕がおかしなことにようやく気がついた。腕を、何かが這っている。白く平らな肌は、まだらになっていた。

 黒い染みのような物が、火六さんの腕の中でうごめいている。一つ一つの大きさと形はバラバラで、ただ黒いという色だけが共通しているそれは、動いてさえいなければ一種の入れ墨に見えただろう。

 だが、私は事務所にいた彼を見ている。あのときの彼の腕には、こんな痣なかった。いくらぼんやりとした状態でも、流石にこんな派手な痣を明るい場所で見て気づかなかったはずがない。


「食え」


 一言。

 たった一言で、火六さんの腕から黒い染みが飛び出し、窓を擦り抜けて男に飛びかかっていく。黒い染みが抜け出た後の腕は、真っ白だった。




 男は絶叫を上げた。

 がぱりと喉奥まで見えそうなほど大口を開けて叫んでいる。そのまま喉奥から裏返ってしまいそうだ。人がするように全身をバタバタと叩き、身体中に纏わり付いた黒い染みを払っていく。けれど染みは、一度男の身体に付着すると決して離れず、徐々にその範囲を広げていく。


「あれが、僕らの先祖が神より賜った力です」


 淡々とした火六さんの声と同時に、男の腕が落ちた。文字通り、落ちたのだ。関節でもない、肘と肩の間、ちょうど二の腕に当たる場所が、まるで腐敗したかのようにぼろぼろになっている。

 しかし、その腕は床に落ちきる前にぐしゃりと消え、後には黒い染みだけが空中に留まっていた。その染みはすぐに男の身体に纏わり付く。

 音は何も聞こえない。なのに早送りしているかのように、男の身体が消えていく。

 男の身体が、食われている。そうとしか表現できない。

 目の前で、人の形をした何かが、黒い何かに食われていく。どちらを取っても異様でおぞましい光景に息を呑む。


「読経や祝詞を上げない理由もここにあります。僕達は、神や仏に祈っているわけではありません。神から力を直接預かり怪異を払っています。いわば半独立状態の委託業務なんです」

「委託業務」

「親会社である神は倒産していないとはいえまだ復活していませんし、勝手に業務を辞めるわけにはいかないんです」

「倒産」

「それに、この黒い奴も元々はちゃんとした形があったわけで、形を損ねたまま眠らせると別の物に変質しかねず、現状維持し続けなければならないんです。手入れしないと錆びるみたいなものです」

「錆び」


 息を呑んでいる途中なのだから、妙に現実味のある単語を言うのはちょっと待ってほしかった。目の前では恐ろしい光景が繰り広げられているのに、一気に現実に引き戻された。


「また怖がり損ねた!」

「よかったです」


 わっと嘆く私の前で、男の全てを黒い染みが覆った。ぐしゃり、ぐしゃりと凝縮されるようにその体積が目に見えて減っていく。

 突如、男が吠えた。疲れ切った老人のような、生後間もない赤ん坊のふやけた泣き声のような、奇妙な声で叫んでいる。

 悲鳴ではなく、それは咆哮だった。

 顔の半分以上を裂いた大口を開け、音と黒い液体を窓に向けてぶちまけた。お清めダブルパンチスプレーが効いたのか、窓に付着せず汚れは落ちていく。清掃に便利なだけじゃなくてそんな効果もあったなんて。

 買いたい。是非とも購入させてほしい。何本か纏めて買うのでちょっとだけお安くならないだろうか。通販の売り口上が頭の中を駆け抜けていく。

 それでも、ひっと喉が引き攣る。これには流石に悲鳴のなり損ないのような声が出た。その瞬間、巨大な男の目がぐるりと私を向く。男の目は、両手で口元を押さえた私を捉え、ぐにゃりと曲がった。

 その瞬間、世界が止まった気がした。

 笑った。

 笑っている。

 そう気づいたとき感じたものは、目の奥が焼き切れそうな怒りだった。


 この人は、こいつは、私が脅える様を見て、喜んだ。その様子を嘲笑い、喜んだのだ。

 新しい生活を、初めての、人生で一度きりの初めての一人暮らしを、大学生活を、汚して、嫌悪と恐怖に塗りつぶして、夜を閉ざして、昼を砕いて、そうしてぐちゃぐちゃと脅えて潰れていく私を、自分が追いやった私を見て、喜んだ。

 目の奥の怒りはそのままの熱と勢いで頬を伝い落ちていく。涙とは悲しいだけの理由で流れる物じゃない。少なくとも、いま私にとってはそうだった。ただ感情の発露としてだけここにある、冷却水ですらあったのかもしれない。

 だって、頭が焼き切れそうだ。この男が現れてからの恐怖と疲労と、世界が裏返ったかのような絶望が、一気に押し寄せて張り裂けそうだった。

 叫び出したかった。私が感じた恐怖を、こいつのせいで被った不利益を、痛みを、絶望を、日常をぐちゃぐちゃにかき乱された怒りを。大切な始まりの生活をぶち壊された理不尽を、どうしようもなく奪われた穏やかな気持ちを、喉が張り裂けんばかりにぶちまけたい。

 同時に、殴りたかった。私が負った傷を、気持ちに刻まれた傷を、同じだけの規模で否それ以上でこいつに刻みたかった。こいつに傷ついてほしかった。こいつに壊れてほしかった。

 だってそうでなければ、あまりに理不尽ではないか。


「橘花さん」

「――はい」


 返事には、一拍を要した。その一拍で私は何かを飲みこんで、何かを諦めて、何かを守った。

 この男から被った被害が多ければ多いほど、つけられた傷が深ければ深いほど、恨みは募る。だけどその上で、私が今の自分を壊してまで呪いたいかと問われれば、否だ。

 二度と私の人生に関わらないのならそれでいい。私の恨みも憎悪も、私が私を壊していいと思うほど大切な何かの為に使いたい。それならば、納得がいく。

 こんな奴の為に、私は私のとっておきを使ってやるものか。それこそ勿体ないではないか。他者を害してやりたいだなんて感情を燃やすのは、一生に一度で充分だ。本当は一度だって要らないくらいだが、それでも自分を砕いてでも許せる怒りがあったのなら、その一度に全てを懸けてやる。

 だから、その力を、その為の力を、こんな奴のためには使ってやらない。一生に一度を小出しにしては威力が落ちるし、何より勿体ない。

 それに、少しだけほっとした。これだけの仕打ちをしてきて私を嘲笑った相手に感じるものが、恐怖ではなく怒りで、本当によかった。ここで恐怖と絶望で立てなくなったら、私は私に絶望する。

 両拳を握り、ふんっと気合いを入れる。


「火六さん、やっちゃってください!」

「もうやってます」

「あ、はい。どうも」


 淡々と返された尤もな言い分に、行き場のない気合いが塩もみしたキュウリみたいにしなびた。

 男は立て直した私を見て眼を見開いた。少しだけ、胸が空く思いがする。私は私を損なってまで復讐したいほど、これに思い入れなどない。だけどせめて、一矢は報いたかった。

 だから、大きく息を吸い、思いっきり笑った。


「あー、すっきりした!」


 ざまあみろ!

 浮かべた笑みも叫んだ言葉も、心からのものだった。

 絶望を、きっと今までは窓越しに私が浮かべていた絶望を、今度は男が浮かべた。

 男の姿がぐしゃりと解ける。そうして、気がつけばもう何もなくなっていた。

 私の日常を呆気なく破壊した男は、現れたときと同じくらい呆気なく消え去っていた。








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