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火六事務所へようこそ  作者: 守野伊音
一章 はじめての事件簿編
1/31

1怪




 その日はうだるような暑さだった。

 うだるとは漢字で茹だると書く。文字通り、茹で上がるような暑さだ。激しい運動どころか歩いてもおらず、ただ存在するだけで茹でられているかのような暑さに、私はうんざりと空を見上げた。

 連日、日傘がないと歩くことすらままならない暑さである。こんな中を帽子もかぶらず日傘も差さず歩くなんて正気の沙汰ではない。卵を茹でればゆで卵になるように、人間の中身だって茹で上がってしまうだろう。


 髪の間を縫って滑り落ちた汗が、手元のスマホに落ちる。画面上でパチリと弾け散った滴を無造作に袖で拭う。その拍子に、肩を軸に引っかけていた日傘が後ろに倒れそうになり、せっかくの日傘の恩恵である日陰がずれ、危険な熱を伴った日差しをもろに全身に浴びてしまった。直射日光の熱は、フライパンの上で焼かれるハムの気持ちを私に教えてくれる。

 呻きながら日傘を持ち直し、スマホを再び覗き込む。


「この辺りのはずなんだけどなぁ……」


 手書きのメモとスマホに打ち込んだ検索結果をもう一度確認し、地図アプリを睨む。文字と線がぶれ、二重に見える。暑さと寝不足がたたったのだろう。

 画面の右上に視線を動かし、時間を確認する。現在時間は十一時過ぎ。朝も食べていないので、少し早いけれど何か食べた方がいいかもしれない。食欲はないけれど、目的の場所に辿り着いた途端倒れでもしたら目も当てられない。


「喫茶とか……ないかな……」


 生活圏内の場所とはいえ、この辺りは初めて来るのでめぼしいお店の場所も分からない。スマホで調べてもいいのだけれど、もうそれすら億劫で、周りをぐるりと見回してみる。

 すると、細い横道の奥に看板を見つけた。背の高い建物に挟まれた道は日陰になっていて、暑さも相まってついついそっちへと足が向く。


 近づけば、少し年季の入った喫茶店があった。お店の名前は珈琲太郎。何だか可愛くて、思わず笑ってしまう。

 カフェというよりは純喫茶と呼ばれる類いの店だとは思うが、私にはその二つの違いを詳細に説明できる知識が無い。私の中では、白や明るい色のイメージが多いカフェに比べ、全体的に茶色の色合いが強いのが純喫茶という漠然としたイメージがある程度だ。

 残念ながら珈琲が苦手であまり入ったことはないけれど、雰囲気は好きだから機会があれば入ってみたいと思っていた。

 これも一つの経験だと思い、扉に手を伸ばしたとき、どこからか涼しげな音が聞こえた。

 ちりーんと響く澄んだ音は、どこか懐かしい。


「風鈴だ」


 夏の風物詩である風鈴は、最近はもうお店で売られている物がエアコンの風に煽られて鳴る音でしか聞かなくなった。最近の酷暑では、涼しげな音では到底追っつかないのだからそれも仕方が無い。それでもきちんと夏ごとに売られているので、伝統は強い。

 音も見た目も嫌いではないので、暑さへの効果はないものの、これからも風物詩として生き残ってほしい。

 ちりーん、ちりーん、ちりーんと、断続的に鳴り続ける音に首を傾げる。今日はそんなに風が吹いていないのに、よく鳴るものだ。扇風機の風でも当たっているのか、誰かが故意に鳴らしているのか。

 何故か、意識が音に吸い込まれるように向いていく。

 喫茶店の扉から離れ、音の出所を探す。やけにはっきり聞こえてくるので近いはずだ。

 きょろりと視線を回せば、喫茶店の大きなガラス窓の横に階段が見えた。建物をくり抜いて作ったかのような階段は、シャッターが半分開いている。普段なら、半分しか空いていないと思ったはずなのに、どうしてだかこのときの私は、半分も空いていると思った。


 一階が喫茶店であっても、二階もそうとは限らない。上は普通の民家かもしれない。それなのに、音が気になってならなかった私は、少しかがんでシャッターの奥を覗き込んでしまった。

 細い階段が二階まで続いている。日の光が届かずだんだん暗くなっている階段の上から、その音は聞こえていた。強い日差しで焼かれていた目は、光の届かない陰が生み出した黒に慣れていない。目を細めても風鈴の姿は見えなかった。けれど音は激しくなり、もはや台風の中にあるかのようにちりちりちりと鳴り響いている。

 その時、暗闇の中で何かが動いたように見えた。目を凝らせば、ようやく少し闇に慣れた視界で扉を見つけた。階段の左手に扉があったらしい。扉がゆっくりと開き、中から人が出てきた。

 現れたのは、大学一年生の私とそう年が変らないと思われる青年だった。

 少し癖のある黒髪は頻繁に整えられているようには見えず、少々ぼさっとしている。そんな前髪で見えづらいが黒縁の眼鏡をかけている青年は、扉から身体半分を出した状態でじっと階段下の私を見下ろしている。そして、扉についている風鈴を、伸ばした手で触れた。

 途端、ぴたりと風鈴の音が止む。


 ああなんだ。そんなところにあったのか。

 私は鳴り止んだ風鈴を見て、ほっとすると同時に、ぞっとした。だって、いま、風鈴はどうして鳴っていたのだろう。

 だって、階段の突き当たりは壁だ。この建物は二階しかないらしい。階段には半分シャッターがおり、風鈴が取り付けられている扉は閉まっていた。風鈴を鳴らす風はどこからも入っていないはずだ。それなのに風鈴は、青年が触れるまでずっとけたたましく鳴っていた。そして、青年が触れれば、ぴたりと止まった。

 私をじっと見下ろしていた青年は、やがて億劫そうに動いた。扉から出した身体を部屋の中に戻していく。


「どうぞ」


 酷く淡々とした、それでいて風鈴よりも涼しげな声に、意識が冷えた。どうかしていた。人の家を覗き込むなんて。

 青ざめた私は、彼に謝罪しようとした。けれど彼は、一度体勢を直したのか、今度は半分ではなく身体の全てを出して扉を完全に開けた。


「あ、あの」

「どうぞ。ここが火六事務所です。お入りください」


 何も言っていないのに、私の目的地であった場所の名を当たり前のように口にした青年は、私の返事を待たずにさっさと中へと入っていってしまった。

 開けっぱなしになっている扉は、暗闇にぽっかり口を開いているような不気味さと、ようやく見つけ出した救いの手のような光を纏っていた。








 大学進学を機に、故郷を遠く離れたこの地で一人暮らしを始めた。

 大学には同じような子が沢山いて、それなりに楽しくやっている。だが、自分でもうまく説明できないことを相談できるような相手は、まだいない。


 警察にも今の段階では何も出来ないと言われてしまった。それは仕方が無い。だって、何も無いのだ。

 夏休みに入ったので実家に帰ればよかったかもしれない。けれど、あれがついてきたらどうしようと、それも出来なかった。

 どうしようもない八方塞がりで肩を落とし、警察署を出てきた私に、一人の刑事が追いついてきた。


『ここ、行ってごらん』


 そう言って渡された手書きのメモには、住所と、火六事務所の名前が書かれていた。



 事務所という所は、なんとなく机と椅子が沢山あるものというイメージを持っていた。しかし、通された室内は意外なほどさっぱりしている。事務員の仕事場のイメージとごっちゃ混ぜになっていたのかもしれない。

 私は、通されてすぐの場所に置かれていた二人がけのソファーに座った。その前には、パイプ椅子に座った先程の青年がいる。半袖のシャツに黒いズボンだ。何も言わず私が座るのを待っていた青年は、ふと何かに気づいたのか私の背後を見て立ち上がった。そのまま奥に行ってしまったので、やることもなく周りを見る。

 分厚いファイルがみっちり詰まった本棚とリチウムの床、私の正面に一つだけある大きな窓の前に机と椅子、私の背後には簡単な炊事場があったのが入ってきたときに見えた。

 前に誰もいないのをいいことに、胸元を摘まんではたはたと中に風を送る。夏らしい爽やかな色合いに惹かれて購入したブラウスだが、生地が少し厚い。ここは外とは違ってエアコンが効いていてありがたいが、日傘越しとはいえ外の熱にあぶられ続けた身体は中に熱が籠もっている。そうすぐに身体は冷えない。

 炊事場から戻ってきた青年は、私と自分の前にペットボトルの水を置いた。無造作に置かれたペットボトルが中の水と一緒にぼころんっと独特の音を立てる。


「どうぞ」

「あ、りがとうございます」


 もてなしではお茶か珈琲が出てくるものだと思っていた固定観念がぶち壊される。まだまだ学生の身には勉強になった。ペットボトルで出てくることが一般常識かは分からないが、暑い中彷徨ってきた身にはお茶や珈琲より水が助かるのでありがたく頂くことにした。

 彼と一緒にまだ開いていないペットボトルの蓋を開けて、口をつける。自分で思っていたより喉が渇いていたようで、一気に半分も飲んでしまった。だが、おかげで人心地つけた。


「火に六と書いて、ひむいと読むんですね。……それで、ですね。あの……ここは、その……」

「どういった所であるかという質問なら、胡散臭い場所とお答えします」


 きっぱり宣言されてぽかりと口を開けてしまう。


「それで、話を伺う前に、誰にここを聞いてきたか教えてもらってもいいですか?」

「あ、はい。お名前は存じ上げないんですが……警察署の、刑事さんで」

「ゴリラですか?」

「ゴリ……眼鏡の人です、けど」


 ゴリラ!?

 私は警察署の中でスーツを着たゴリラが闊歩する光景を思い浮かべた。即通報したいのに、警察の中にゴリラがいたらどうしたらいいのだろう。そしてこれは笑うところなのだろうか。

 そぉっと青年を伺うも、青年の表情は平坦なままだ。どうやら笑うところではないらしい。

 でも。


「ふっ」


 毛むくじゃらのゴリラがきちんとスーツを着込んで闊歩している姿が頭から離れず、思わず笑ってしまった。その瞬間、何かが頬を伝い落ちた。汗かと思って手をやる。エアコンに冷やされていくはずなのに、次から次へと滴が落ちてきて困惑した。けれど、すぐに気づく。これは涙だ。

 ずっとずっと張り詰めていた糸が、思わず漏れ出た笑いで切れてしまったと気づいたときにはもう遅い。ペットボトルを握りしめたまましゃくり上げる私を、青年は気味悪がったりしなかった。


「…………僕は火六(ひむい柚木ゆきと申します。この火六事務所のオーナーで、俗にいう霊能者です」

「橘花、橘花梓、です。突然泣いて、ごめんなさい。あの、私、本当に頭、頭おかしくなったんじゃないかって、本当に、あの」


 しゃくり上げながら名乗った私に、彼、火六さんはゆっくりと頷く。


「ここは、信憑性も定かではない、胡散臭い事務所です。ですが恐らく、今の貴方に必要な場所だと思います」

「ここ、は」

「ここでは、証拠が必要な警察では対処が出来ない、特殊な事件を取り扱っています。端的に言えば、幽霊や妖怪といった、存在が不確かであり公には笑い話となる理由が原因となる事柄です。貴方を苛む現象が、警察では手が出せず、現実の物とは思えない事柄であり、この事務所の取り扱い案件について一笑に付すことができないのであれば、力になれるかもしれません。お話を、伺います」


 橘花、梓さん。

 そう、ゆっくり区切って呼ばれた自分の名に、私はずっと強ばっていた何かがほんの僅かに解けた音を聞いた。







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