ファンタジスト・ラプソディ
夢を見ていた。
夢を見ている時にあまりに現実離れしていていたり、人とのやり取りでその知人が言いそうにない事を言ったりして「あ、これは夢だな」と気が付く時がある。
それが今だった。
全身真っ黒の人が僕の目の前に立って僕を指差していた。
言葉を発している訳では無いが僕は非難されていると思った。
それが誰だか知ろうと思った時に僕はまだ生きている事を知ったのだ。
あんな事があったんだと思い出すとその結果がこれだとは思えない。だからこそこれは夢だと気が付いたし、起きなければならないと思えて来る。
僕は起きた。目を覚ましたのだ。
「びっくりした」
聞き覚えのある声だった。
声のした方を向いて「ベルティーナ、良かった」と言うために開いた口が塞がらない。
僕の隣にいたのは母親だった。
「あんた、オタク趣味もいい加減にしなさいよ。電車の中で気絶したって聞いてもう死んだかと思ったんだから」
母親、間違いなく僕の母親だった。
怒っている時の表情を見慣れたなんて感じている事にちょっぴり驚きつつも僕はこの人を母親と認めた。
どうやらここは病院らしい。
白いシーツのベッドの上に僕は寝ていた。
「僕はどれくらいここにいたの?」
「半日ってところかな。昨日の夜にメッセージのやり取りをしてたでしょう。いきなり返信が来なくなったから心配してたところに駅に着いたって連絡しても来ないし、駅には電車が停まってるからおかしいと思ってたの。車から出て迎えに行こうかと思ったら電話がかかって来るじゃない。何かと思ったら救急搬送するって言うから大変だったのよ」
それからも長々と母親の言葉が続いた。
僕は一体どうしてしまったんだ?
ベルティーナは現実では無いのか?
いや、そもそも妖精なんて現実にはいない。これが正しい世界なのかもしれない。
でも、あの現実感はあまりにも真に迫っていた。
僕はさっき目覚めた時、夢を夢と見抜いたからこそ目覚めたんだ。その先がベルティーナの元か母親の元かという差があったけれどとにかく夢を夢と理解する事は出来る。
あれは決して夢なんかじゃない。
絶対に現実だった。
「じゃあ、お母さんはこれからあんたが目を覚ましたって事を報告して来るわね。大人しくここにいてよ」
「うん」
母親は医師と2人の看護師を引き連れて戻って来た。
どうやら僕が寝ている間に様々な検査をして病気や怪我などの影響による気絶ではないと判断が下っていたらしい。
覚醒後の生体反応のデータを取るために医師は簡易的な検査を行った。
僕は医師の算数の簡単な問題に答える事や適当な状況の説明の求めに応じて心ここに在らずのまま事務的に答えていく。
頭の中はベルティーナの事でいっぱいだった。
懐に彼女を導いてそこにいた感覚が確かにあるんだ。僕がそこを押さえたり、眺めたりする度に医師はその理由を尋ねてくる。言ったって分からないだろうし、それで頭に後遺症があると思われるのも嫌だから言わない。
適当な受け答えの後にようやく解放された。
受付で母親が色々と済ませている間に僕はスマホを覗いた。
そこにはいくつかのメッセージが届いていた。どこからか救急搬送された情報を手に入れた友人の心配するメッセージやサボりと揶揄う様なメッセージがある。
僕は本来なら返すところを他に考えるべき事があってすぐにはしなかった。
再びベルティーナの傍へ行く方法を考えるべきだ。
これ以上に必要な事は今はない。
考えをまとめるためにまずは病院から出る必要がある。
僕の落ち着ける場所と言えば喫茶店か書店か自宅の自室だけだ。
母親の運転する車に乗せられて僕は自宅へと向かい始める。
見慣れた光景が広がっていた。
ベルティーナに語った日本という故郷の形と随分違うように見えた。
車中で母親があれこれと話し始める。
今回の苦労と心配、僕の健康について(持病はない)、学校の事、僕の趣味などなど話題は尽きないようだった。
うんざりしてスマホに届いていたメッセージの返信を始めた。
返信が来る前に車は僕と家族の住むマンションに着いた。
父親は仕事でいない。
僕のうんざりを察した母親もうんざりしたような感じを露骨に出すようになった。
「お父さんに事情を説明出来るように考えておきなさいよ」
自室に入る僕の背中に向かって母親が言った。
ベッドの上に寝転がって僕は天井の染みを見ながら考えた。
あまりにも現実離れした事を望んでいる。
もし僕が頑張ってベルティーナの元へと行く事が出来たならそれは意図的な異世界転移が可能だという事になる。
そんな事は現代科学では不可能だ。可能と考えるために小難しい様々な理論に関連付けて可能と思わせる事を繰り返している。
そのどれもが弱い関連付けなんだ。
未来では可能になるかもしれないさ、ただ現代科学では不可能なんだ。
僕は個人で現代科学を超える偉業をなさなければベルティーナと再会する事は不可能なのだった。
今のところ、ベッドの上で横になっている僕には偉業のための具体案は全く出ていない。
SF映画で様々な研究をするマッドサイエンティスト的な知人がいない事が悔やまれる。どこかに誰かいないか、近所にそんな研究所がないかと現実逃避をしているとスマホがメッセージの着信を立て続けに知らせてきた。
見てみると僕をサボりと揶揄した友人のひとりがオム・オム・オムライスの新作を読みたいからだろうと言っていた。
僕は昨夜の事を思い出した。
そういえばあの本を読んでいる時に電車内で気を失ったんだ。
その気絶からベルティーナの元へと行ったのなら昨夜の事を再現してみるしかない。
僕は手荷物の中を調べた。
困った事に僕のリュックの中にあのノベルが入っていなかった。
「母さん、僕のリュックの中身を触った?」
「触らないわよ」
「リュックってずっと僕の傍にあったのかな?」
「当たり前じゃない。救急搬送された時から救急隊員の人が持って傍に置いてくれてたからね」
とすると僕のあの本は気絶した際に電車内に置き去りにされてしまったのかもしれない。
時刻は午後4時を過ぎている。
本屋まで行きたいなんて言おうものなら叱られるに決まっている。
僕は居ても立ってもいられなくてすぐに行動に移す事にした。
もうどんな手段でも構わない。
「ちょっと直斗のところに行ってくる」
母親の返事を聞かずに僕は自宅を出た。
直斗は小学校からの友人で気難しい男だけどきっと力になってくれるだろう。
喧嘩別れして顔は合わせるけれど2人で話をするのは随分久しぶりの事だ。
直斗の家のベルを鳴らすと直斗の母親がインターホン先に出てきた。
「こんにちは、直斗いますか?」
「あら、こんにちは。久しぶりね、直斗なら居るわよ、呼ぼうか?」
「お願いします」
直斗の母親を見るのは久しぶりだった。
直斗は母親似の中性的な顔立ちをしている。その中性的な顔立ちと声を揶揄うと誰彼構わずに怒る男だ。
待っていたがインターホン先に出たのは直斗ではなくよく似た母親の方だった。
「ごめんなさい。今、手が離せないみたいなの。良かったら中に入って待っててくれる?」
願ってもない事だった。
僕の用事もすぐに終わる。喧嘩をぶり返さなければだけれど。
直斗が機嫌を直していてくれる事を祈るばかりだ。
扉の鍵が外される音がして扉が開かれた。
「手が離せないって言ってもゲームなのよ。本当に困った子だわ」
「大丈夫です、待ってます」
僕は直斗の部屋へと直行した。
何度も遊びに来た事があるので僕は知っている。
直斗の部屋の引き戸を開けて中に入った。まるで職員室に入るような緊張感があって嫌になったが友人の部屋だと言い聞かせて持ち直した。
直斗はFPSのゲームをしていた。英語を喋って海外の友人とボイスチャットでコミュニケーションをとっている。
直斗は弓道部員で全国大会にも出場した事のある実力者だった。
使っている武器も弓だったのが僕にはちょっと可笑しかった。
どうやら敵に倒されてしまったらしい。
ゲームメイトに色々と話をしてヘッドホンとマイクを外して振り返った。
「久しぶり、直斗」
「何しに来たんだよ?」
辛辣な言葉だった。その気はないかもしれないが少なくとも僕にはそうして聞こえた。
「つい昨日に発売されたオム・オム・オムライスの本を買ったか?」
「買ったよ。買ってないのか?」
「いや、買ったんだけど無くしちゃったんだよ。読み終わってたら貸してくれないか?」
「無理だよ、俺はいつも3回は読み直すから。まだ2回目の途中なんだ。貸す事は出来ないぞ」
「そうか、分かった。僕、昨日は途中までしか読めなかったんだけどどうだった? 面白かったか?」
「なかなか良く書けてると思うよ。俺はハイファンタジーをあんまり読まないけどこれは良く読めた方だと思う。だから3回読む気にもなったんだけどな。お前、搬送されたって聞いたけど?」
「うん、喫茶店でコーヒー飲みながらその本を読んでたんだけど頭痛が激しくなって気絶しちゃったみたいなんだ」
「じゃ、その時のどさくさで無くしたんだな。買い直すしかないだろ」
そうするしかない。
近くの書店に猛ダッシュで行けば母親も怪しまないかもしれない。
とにかく僕には時間や他の物、足りない物が多すぎた。
「じゃあ、行くよ。ありがとう、用はそれだけだから」
「分かった。明日は学校に行くのか?」
何も問題がなければ、つまりはいつもの日常に戻ってしまっていたなら行くに違いない。
僕は、「行くよ」と短く答えた。
「そっか、またな」
直斗がヘッドホンとマイクを付け直して会話を再開したので僕はゆっくりと音を立てないようにして部屋を出ていった。
すぐにも書店へ向かうしか無かった。
幸いな事に僕は財布をポケットに入れて家を出ている。
ナイスだ、さっきの僕。
近くの書店にはオタク話をする仲の良い店員・副島さんがいる。その人が店にいる事を願って僕はそこへ向かった。
ここから5分ほどで行ける。
書店に駆け込むと入ってすぐのところに例の副島さんがいた。
「や、新刊読んだかい?」とにこやかに話しかけてくれた。
「僕、その本を買いに来たんだ。どこにあるかな?」
「向こうだよ」
副島さんは酷くびっくりした様子で店の奥を指差した。
僕は《ファンタジスト・ラプソディ》を1冊手に取ってレジへと持っていった。
レジでの精算は副島さんがしてくれた。
レジの最中も僕の慌てぶりに面食らっている。
「昨日は直斗くんが来てくれたよ。彼も立派なオタクだね。3冊も買っていったんだよ。ほら、よく言うじゃん、布教用・読書用・保管用ってね」
3冊?
直斗は3冊も買っていったのか。
でも、それなら1冊くらい僕に貸してくれたって良いだろうに。
よっぽど僕の事が嫌いになってしまったのか?
いや、それよりも僕もそれぐらい買っていくべきだ。だって、また無くしてしまったら困るものなあ!
僕は計4冊の《ファンタジスト・ラプソディ》を購入した。
出版社と作者の利益にとても貢献した事だろう。
マンションに戻るとエレベーターの前で母親が待っていた。
エントランスに置かれている椅子に腕組みをして座っている。
明らかに怒っていた。
マンションの番号を入力して中に入ると母親はつかつかと僕に近づいて書店で購入した本の入っている袋を奪い取った。
「いい加減にしなさい!!! こんな時にまでアニメだか漫画だか何が大切だって言うのよ、自分の身体を大切にしなさい!!! 家でゆっくり休むのよ、まだ本調子じゃないんだからね!!」
「お医者さんもそう言ってたんだから」と語尾を弱くして母親が言った。
僕にも大切なものがある!!
腕を掴まれて僕はエレベーターに押し込められそうになった。
このままだと本を没収されてしまう。
それだけは避けたい、何としても!
母親の掴む手を振り払うとエレベーターのドアが閉まる直前に袋を奪って駆け出した。
きっと直斗の母親が電話したに違いない。
僕は、マンションの外へと駆け込んだ。
そしてただ全力でどこかへととにかく走り出した。
マンションからいくらか離れたところで僕は止まった。
ぜえぜえと息が切れているがそこまで疲労した感じはない。いや、逆にもっと走れそうな感覚がある。
財布を取り出して所持金の残りを見た。
1000円札が1枚もない。残っているのは小銭ばかりで昨夜の再現をする金銭的余裕はなかった。
喫茶店でアメリカンコーヒーを1杯、駅から自宅の最寄り駅までの切符代を足すとこの小銭たちでは賄えない。
悲しい事だが僕は金に負けて再現を近づけるだけにした。
近くの公園に行って缶コーヒーを買おう。
これまた悲しい事に自販機にはアメリカンコーヒーがない。ブラックは飲めないので微糖コーヒーを買う事にした。
だいぶ色々と変わってしまったが僕は公園のベンチに座ってコーヒーを飲みながら《ファンタジスト・ラプソディ》を最初から読み始めた。
驚く事にそれはやって来た。
半分を読み終えてラスボスの正体を知ると頭痛はまるで金槌で殴られたような痛みにまでなった。
ここまで読むのにそれほど時間はかからない。きっと昨日、読んだから覚えていてすらすら読めるのだろう。
この本が原因だ。間違いない。
この本は僕のアイディアを盗用した作品だ。それは間違いない。今でもその主張は変わらないし、むしろもっと固くなっている。
でも、もし僕が書いたならこの本にこんな力を宿せただろうか?