棺の塔
角での方向転換はいくらか難しかった。慎重に身体を動かして別の側面へと移った。
その時に目に入ったほとんどの物が僕を絶望させた。
というのもその一瞬だけ霧が晴れたのだ。きっと風の影響が僕が前にいた側と移った側とでは違ったからだろうと思う。
とにかく晴れた一瞬で見えたその側面の全貌はとても広大な面だと言う事を無慈悲に、痛烈に僕に突き付けてきた。
それでも僕は負けなかった。
手足を動かして一歩一歩進む。
進んでいくしかないんだ。
ベルティーナも揶揄う様な事を言わなくなった。
少しだけ寂しくて僕の方から話を振るぐらいだった。
彼女は僕の遅々とした歩みを安らかに見守っている。きっと「遅いわねえ」ぐらいの事は言いたいに違いない。
手と足の指先の感覚が麻痺してなくなってきた。
僕は休憩の時間が多くなったのを感じている。
限界が近いのだった。
ベルティーナも心配そうな表情を浮かべるようになった。
「あんた、大丈夫なの?」
「うん、まだ大丈夫だよ」
「ちょっと休憩を挟みなさいよね」
「うん、ありがとう」
両足を棺の端にかけて立って手の力加減を緩めた。そうするといくらか楽になる。
それでも本当にいくらかだけで気休めにしかならなかった。
長い休憩を再びとった。
今度はベルティーナが一方的に喋るだけだった。
彼女は色んな事を話してくれた。どうやら彼女は七姉妹の3番目に当たるらしい。姉妹の仲は良くもなく悪くもないようだ。
果物が特別好きで食卓には欠かさないらしい。
でも、姉妹の中には食いしん坊の妹もいて困っていると言っていた。それだったが嬉しそうで聞いていて力が湧いてくるような気がした。
また僕は進んだ。
長い休憩をとって20歩ほど進んだ時に右手の握力が弱くなって滑ってしまった。
すんでのところで力を入れ直して持ち堪えたがかなり危なかった。
僕たちはとても下方までやって来たのは事実のはずだ。
もう地上が見えてもいい頃だろうと思うのにそうした気配がない。
「わたし、ちょっとしっかり休憩出来るような場所を探してきてあげる。もう少し休んでから動きなさいね」
そう言ってベルティーナは飛んで行った。
僕は考えた。
風の向きは変わらない。これはつまり地上がまだまだ先にある事を示しているように思われた。
ロープや他に何か道具があればもっと楽になる。
ベルティーナが居てくれて本当に良かった。
僕は彼女にとても感謝している。
再び進み始めて程なくして彼女が帰ってきた。
それも勢い込んで両腕を広げて僕の両頬に小さな手を当てると鼻先で言った。
「見つけたわ、見つけたのよ!! ゆっくり休憩出来そうな場所だわ。ここから少し下った先に穴があるのよ!!! わたしがエスコートしてあげるから向かいなさいな!!!」
「分かった!」
僕はベルティーナの報告に活気づいて力を取り戻した。
元気になっていた。握力も戻ってきてどうにかなりそうだと思った。
ベルティーナは僕を励ました。
彼女が見つけた穴は確かにあった。そこだけ丁寧に切り取ったような穴だった。穴と言うよりも通路と言った方が適切だろう。
それでも僕はようやく寝転ぶ事のできる安らぎの場所を手に入れた。
驚く事にこの通路は明るい光で満ちていた。
一眠りして体力をいくらか回復させると僕はこの通路の事を調べ始めた。
もしかしたら地上へと通じる通路かもしれない。
「どうしてここは明るいんだろう?」
「さあね、わたしには分からないわ。それはともかく元気をとりもどしたみたいね」
「うん、バッチリだよ。ありがとう、ベルティーナのおかげだね」
調べてみると通路は整然とされていて埃一つ落ちていなかった。
それにこの明るさは火の明るさじゃない。僕が慣れ親しんだあの光だ。
電飾の特徴的な光のように見えた。
とても棺を積み上げて作り上げた物とは思えない。
一種の建築物だった。
魔法だろうかと疑ってベルティーナに尋ねてみると、
「魔法じゃないと思うわ。でも、そうね、はっきりと言ってしまえば分からないの。わたしも魔法の全てを知っているわけじゃないし、妖精は幻惑魔法が得意だから仕方がないの。でも、魔法って感じじゃないのは確かね」
「うん、僕も同意見だ。魔法の事はよく分からないけれどこの構造物の放つ光のように思える」
そうだ、光を放つ構造物だ。僕にはビル群が思い浮かぶ。あれを棺とは言えないけれど。
「もう少し調べてみようよ。下に辿り着く道があるかもしれない」
「わたしは気乗りしないわ」
本当に気乗りしないようで頭を振って僕の提案に反対した。
「じゃあ、ここで待っててよ。ちょっと見て来るから」
「嫌よ、お止めなさいよ。得体の知れない物の奥に行くなんて危険だわ。あんたってとんでもない向こう見ずなのね。止めた方がいいわ。ねえ、悪い事は言わないからお止めなさいな」
「でも、ちょっと気になるんだよ。行ってくるね、ここで待ってて!」
僕はベルティーナをそこへ残して通路の奥へと歩き出した。
この通路のどこがどうやって発光しているのか僕には分からない。天井部分が光っている訳ではないし、段組がしてあってそこから光っている訳でもない。
光を感じる感覚としては通路の全体が光っているような感覚だった。
どこまで歩いても行き止まりにもならないし、分岐があるわけでもない。永遠に光り輝く通路があるだけだった。
僕は突然に不安に駆られて振り返った。ベルティーナの姿が見られるような気がした。
ただそんな事はなかった。というのも彼女はとても小さいし、振り返った先に僕たちが入って来たこの通路の入口も見えなかったからだった。
引き返そうかと初めて考えが過ぎると僕はたちまちこの通路の全てが恐ろしく思えるのだった。
得体の知れないとベルティーナは言っている。まさしくそうだ、得体の知れない構造物、取り立てて建築物が好きな訳でもないし、古い建物が好きな訳でもない。どうしていきなりこんな好奇心が湧いてきたのか分からない。
およそ僕らしくない。
あれ、僕は一体どっちから来たんだっけ?
まずい、一度振り返ってしまった事と周囲の景色が全く同じ事でどの方向にベルティーナを残して来たか分からなくなってしまった。
とんでもない失敗を犯してしまった。
呼びかけたら答えてくれるだろうか?
「ベルティーナ!!!」
返事はない。
もう一度、思い切り大きな声を出そう。
「ベルティーナぁ!!!!!」
するとどこか遠い所から風切り音が聞こえて来る。
どこかにベルティーナがいるんだ。
「ベルティーナ、どこ?」
「ここよー!!!!」
声が聞こえた方を向いた。
信じられない方向から声が聞こえて来た。
僕の耳は驚く事に上の方からベルティーナの声を聞いたのだ。
僕が上を見上げたとほぼ同時にベルティーナが僕の顔面にぶつかった。
ぶつかったと言うよりも抱き着いたと言った方がいいだろう。
彼女は泣いていた。
「このお馬鹿さん、人でなし!! どうしてこんな残酷な事が出来るのかしら。この仕打ちに値する悪い行いをわたしがしたってわけ?」
「いや、違うよ。右も左も分からなくなっちゃったんだ。でも、君が来てくれて本当に良かった。これで戻れるね。君が来た方に引き返せば外に出られる」
ホッと一安心したのは束の間だった。
彼女は上から来た。
どうして上から来るんだ?
「ベルティーナ、君は………」
「ジェイク、あんた………」
「「どこから来たのさ?」」
何か異常な事が起きている。
明らかに異変が起きている。
「ベルティーナ、僕から離れないでね!」
「うん」
ベルティーナが僕の首元の襟を掴んで肩に座った。
手を広げて右の壁に触れようと近付いてみる。
右の壁は存在しなかった。どこまでも光の中を突き進んでいる。
今度は前に進んでみた。やはり壁はない。前後左右のどの方向でも僕は壁という物に触れられなかった。
なら僕は一体なにに足をつけているんだろう、一体なにを足場として立っているんだろう。
恐る恐るしゃがんで指先で足の間に触れてみる。驚く事に僕の指先は足の間にある何らかの足場を通過して足より下へと進む事が出来た。
僕はすぐに起き上がって試しにジャンプしてみた。
するとそれまで感じていた足場の感覚が突如として消えてジャンプした感覚が消えない浮遊感が訪れると僕はもう前後左右どころか上も下もなにもかもが分からなくなってしまった
ただ右肩に乗るベルティーナは感覚だけは確かだった。
「あんた、浮いてるの?!?」
「うん、浮いてるみたいだ。すごい気持ちが悪いよ、とても嫌な感じだ」
「わたし、試しに上の方に飛んで入口まで戻ってみましょうか?」
「駄目だ、駄目だ、絶対に駄目だよ。今、離れてしまったらもう戻れないかもしれない」
「じゃあ、どうするって言うのよ?」
答えはない。分からない、どうするべきだろうか。
無重力空間にいる宇宙飛行士をテレビで見た事がある。そんな浮遊感がこれに似ているだろう。
とにかく外に出よう。ここに来てからろくな事が起きてない。
「これってこっちでは当たり前だとかそんな事はないよね?」
「ないわよ、こんな事が当たり前ではうんざりしちゃうわ。早く出ましょうよ、この感じとっても嫌だわ」
彼女はどうやらこの浮遊感が心底から嫌らしい。
さっきまでパタパタと羽根を動かして自由にしていたのがここでは上手く出来ないようだ。
「うん、どうにかしよう」
とは言うものの僕には打開策はなかった。
恐ろしい実験に飛び込んでしまった感覚が拭えなくなってきた。そして僕はあろうことかベルティーナも巻き添えにしてしまったのだ!
水中で藻掻く僕を客観視していると息が出来ている事に裏打ちされて決してここは水中ではないと僕の理性が言う。
かと言って宇宙でもない。
どちらもやはり息が出来ないからだ。
僕のこの藻掻く様をベルティーナが心配そうに見ている。
きっと彼女は僕がどうしたらいいのか全く分かっていないのを知っている。
それでいて何も言わないのが僕に突き刺さった。
それでも何か効果があるように思われた。先程よりも何か中の様子が変わっているように見えるからだ。
この光中の空間の中で光景が変わる事が良い傾向なのか僕には分からないが悪くない事だけを祈るしかない。
何かが変わっている。
でも、何が変わったのか僕には分からない。
「ジェイク、あれ!!!」
ベルティーナが細い腕を伸ばして指差す方は浮遊する僕たちの遥か前方だった。
それは黒い点だった。
光中の中ではっきりと映る黒い点が見える。
あれは僕らが入って来た入口なのだろうか。
「きっとわたしたちが入って来た入口よ。わたしがあそこまで飛んで行ってロープでも持って来てそれを伝って出ましょうよ。そうするしかないわ!!」
そう言って直ぐにベルティーナは僕の肩から飛び立った。
僕は止めなければならなかった。
この浮遊感覚の中でどれだけ彼女の飛行能力が発揮出来るか分からなかったし、あれが入口とは思えない。
ベルティーナの悲鳴が聞こえた。
彼女の飛行能力は見事に平衡感覚を失ってどれだけ強く羽ばたいても光中を緩やかに漂うばかりだった。
「ベルティーナ、僕に掴まるんだ!!!」
僕は右手を彼女の方へと伸ばす。
悔しい事にほんの僅か指先が届かない。
2人で必死に手を伸ばした。
ベルティーナも僕の指先を掴もうと手を伸ばして羽根を動かしている。
あとほんの少しだけ、何かがあれば!
右手を伸ばしたままにして僕は左手で髪の毛を1本抜き取った。
それを右手の人差し指と中指で挟んでベルティーナへと伸ばす。
足りなかった距離を1本の髪の毛が補ってくれた。
ベルティーナはそれを掴んで手繰ると僕の肩に戻って来た。襟を強く掴んでもう離れそうにないほど。
「咄嗟の機転にしてはやるじゃない!!!」
「たぶんベルティーナが言ったロープに受けた機転だね。でも、本当に良かった」
ベルティーナは泣いていた。
僕は彼女に安心して欲しくて微笑んで見せた。
「ジェイク、髪の毛が!!!」
ベルティーナが僕の頭の方を指差して言った。
ただ僕にはほとんど見えないので髪の毛にどんな事が起こっているのか分からない。
右肩にベルティーナが乗っているので左手で頭を払う。
そうしていると何が起きているのか分かった。
僕の左手が輝き出して周囲の光の中へと溶け込んでいったのだ。
左手から腕へ、いや右手も、足も、全てが光の中へと溶け込んでいく。それなのに僕の身体の実感は保たれていて異常な感覚なのだ。
そして辺りの光も更に強く輝き出した。
もう眩しくて目を開けていられない。
恐ろしさと眩しさで僕は身体を折り曲げそうになった。すんでのところで右肩にいるベルティーナの事に気が付いて小さな彼女を守らなければならないと思った。
「ベルティーナ、僕の懐に入るんだ!!」
服の胸元を広げてベルティーナを服の中へと導いた。
身体を折り曲げて両手で目を覆った。でなければ失明してしまいそうなほど強烈な光に照らされている。
目を閉じ切ってしまう寸前に僕には遥か前方にあったあの黒点がさっきよりも大きくなっているのが見えていた。
僕は気絶した。