箪笥の下には過去の罪が眠っている
伯父の妻である葉子さんは、とても綺麗なイヤリングを持っていた。
単なる琥珀だと彼女は笑うが、それは時々光を受けて緑色に輝く。
透明とは言えない濁った半透明な石の中に、泡や針金みたいなものだって見えるのだ。
私はそれが凄く欲しかった。
あれは一体何だろう?
あの石の中を覗いてみたい。
ある日、葉子さんはそのイヤリングの片方を落としてしまった。
私の目の前で。
場所は、今や寝たきりとなっている祖母がいる和室。
イヤリングが彼女の右耳から外れ、畳の上に音も無く落ちたのである。
彼女の後ろについていた私は、急いでそれをつかもうと身を屈めたが、拾ったら彼女に返さなければいけなくなる、という真実に気が付いて手が止まった。
私はそのイヤリングがどうしても欲しかったのだ。
隠してしまえ。
悪魔が私に囁いた。
祖母の部屋には、祖母が今でも大事にしている、車箪笥という赤茶色の箪笥があった。金属の飾りがそこかしこについているという、小型でも見るからに重そうな時代がかった箪笥であり、名前通りに車輪がついているので床との隙間がある。
手を入れる気にもならない、重そうで狭い隙間が。
私は石を踏みつけて、その石をその箪笥の狭い隙間へと蹴とばした。
イヤリングは、落ちた時と同じようにして音を立てずに、畳の上をコロコロと車箪笥の下へと転がっていった。
さて、私はその隠したイヤリングをどうしたか。
何もしていない。
罪の意識で車箪笥の下から取り出せなくなったのだ。
いや、半狂乱になってイヤリングを探す葉子さんを目の当たりにした事で、私は子供心に自分のしたことが悪い事だと気が付いて、脅えて身がすくんでしまっただけだ。真実を知られて大人に怒られたくはないと、それだけだった。
「七回忌は早いわね。一週間後にはここが取り壊されるのも悲しいわね。」
母は気怠そうに言うと、生活感の全く消えた古ぼけた台所を見回した。
「思い出の大事な家が、誰も住めない家になるとはね。」
叔母はダイニングテーブルを撫でながら、悲しそうに呟いた。
祖母の七回忌に私達親族は集まり、寺で七回忌の法事をした。
そのお伽の後に誰が言ったのか忘れたが、取り壊しの決まった祖母の家を覗きに行く事になったのだ。
私の母だけでなく、伯父や叔母達には思い出の詰まった生家であったが、祖母が亡くなった日からこの屋敷は誰もが足を踏み入れたくない家となっている。
「お兄さんも大蓮君も来なかったわね。」
「来れるはず無いじゃ無いの。」
叔母の言葉に対し、母の言い方は吐き捨てるようだった。
殆ど寝たきりだった祖母は、ある日の夕方、布団の中で冷たくなっていた。
発見したのは同居していた伯父夫婦だった。
この時は伯父は会社であったので、死んだ祖母の発見者は息子を幼稚園バスから引き取って戻ってきたばかりの葉子さんとなる。
彼女はすぐに救急車を呼んだが、すでに息絶えているからという事で警察が来た。
自宅で亡くなった人は、異常死として警察に検視されるものだ。
医者も呼ばれ、異常死で無いとの医者の検死があれば、遺体はようやくどこかに搬送される。
祖母は事件性ありとして解剖もされた。
あばらの骨が全部折れていたのである。
祖母の死は同居していた葉子さんの責任にされ、葉子さんもこの世からいなくなった。
伯父は祖母と葉子さんの葬式を出すと、息子を連れてこの町から姿を消した。
かたん。
微かな音に、私は台所の戸口を振り返った。
黒いスカートの裾がちらっと見えた気がした。
「どうしたの?」
「孝子叔母さんはどうして入って来ないの?」
「孝子は和美と一番仲が良かったからね、帰るって、家の前で帰ったわよ。」
「え、だって、今そこを。」
「そこを?」
「なんでもない。まだ目がおかしいみたい。」
私が見たものは単に見間違いだったのだろう。
明るい外からこの家に入って来てからしばらくたつというのに、未だに視界が薄ぼんやりと暗っぽいじゃないか。
「孝子姉さんは帰っちゃったんだ?気が付かなかった。」
「あなたまで。まあ、あの子もやっぱり無理なんて言って急に帰っちゃったんだから仕方がないか。辛いわよね。家族なのに二度と会えないって。でも、和美達が元気でいれば良いわね。」
「そうね。」
私は感傷的になった母と叔母から離れた。
叔母の娘達は既に庭に出て、野生化した苺を摘むというお遊びに夢中だ。
叔母の幼い娘達を見ている父と叔父は、祖母の家が歩いて帰れる距離だからと、道すがらに買ったビールを飲んで世間話に興じている。
誰もの目が私から離れたのならばと、私は祖母の部屋へと歩いていた。
大昔のあの日のように。
かくれんぼのようにして、こっそりと、静かに、と。
広く明るい和室は祖母がいた時のままで、驚いた事に、祖母の持ち物であった家具は全部その部屋に残っていた。
伯父がこの町を出ていく際に、家の中の物を一切合切売ったか捨てたかしたと、母と叔母達は非常に憤慨していなかっただろうか。
祖母の部屋には、桐箪笥も、小箪笥に鏡台も、そして、車輪のついている車箪笥だって全部残っていたのである。
花嫁道具だったと、祖母が自慢していた祖母の宝物だ。
私の足はそんな祖母の宝物の一つ、私の過去の罪を知る車箪笥の元へと向かっていた。
そこに罪があるはずは無い。
祖母の部屋は警察が調べ尽くしていた。
だから、私が隠したイヤリングが警察に見つかって、葉子さんが警察に連れていかれたのだ。
「あるわけはないわ。」
私はしゃがみこんだ。
何か光っている?
私はさらに頭を下げ、車輪の下を覗いた。
「ひゃっ!」
目玉が見えた。
私は尻餅をついていた。
だが、自分の視界が映す茶色の箪笥に緑色の小さな水玉がいくつか見えることで、自分の目がまだ外の陽光の残像を残していたのだと気が付いた。
気が付いて、びくびくしている自分を笑った。
「子供の頃の事なんか、時効よ、時効。ここに何かがあるわけも無し。」
再び私は箪笥の下を覗いた。
そこには、あの、緑の石が、あった。
どうしてかを考える間に、私は十歳のあの日に戻っていた。
私はその場に伏せると、私が欲しくて堪らなかった罪の石に右手を伸ばした。
指先に、小さく冷たいものが当たった。
十歳の私には大きく感じたが、十六歳の私の指先には小さく感じた。
私の罪悪感もこの程度だったと、ほくそ笑むぐらいに小さかった。
十歳の頃の指先では引き寄せられなかったが、今の私の長くなった指ではそのイヤリングを手元にまで転がせることが出来た。
ああ、やった!
私はとうとうこの石を手に入れたのだと、右手でイヤリングを握った。
「どろぼう、見つけた。」
私の顔の真ん前に、祖母の顔があった。
あの日は私の真後ろだった。
祖母の昼寝の時間に忍び込んだのに、寝ていたと思った祖母が起きていたのだ。
「どろぼう!どろぼう!」
「静かにしろ!」
私は祖母が暴れないように彼女の胸に座り込み、祖母の顔に枕を押し付けた。
隠しただけだ。
まだ盗んでいない!
私を泥棒にするつもりか!
祖母のあばらはミシっと鳴った。
同じ音が聞こえた。
それは車箪笥の車輪の軸が折れた音なのか。
車輪を失った車箪笥は、罪を握った私の右腕を挟み砕きつぶした。