鹿肉
「ファレノプシスさん、こちらを上に乗せて貰っても良いですか……?」
立派な鹿の入った麻袋を厩まで休み休み運び、目の前にいる美しい白毛の馬に恐る恐るお伺いを立てる。
「ブフォー!」
「あ、やっぱりだめですよね」
思った通り答えはNOだった。思い切り鼻息を掛けられた。お前を乗せるのも我慢してやっているのに、冗談じゃないそうだ。蹴飛ばされなかっただけでもありがたい。確かに自分の体の上に死骸を置かれるのは、良い気分ではないだろう。
かといって百合が抱えて運べる程軽くも無い鹿を、どうやって持って帰ればよいのだろうか。
悩みに悩んだ結果、百合は拡張魔法と軽量魔法の掛けられた鞄に入れて持って帰ることにした。
「エドに貰ったお気に入りの鞄なのに……」
家に帰ったらすぐ洗浄魔法をかける事を決心する。代わりに中に入っていた荷物は皮の袋に入れて、ファレノプシスの背に括り付けた。
鞄の中に何が入っているか知っている賢い馬は、ねめつけるように百合を見ている。
「うう、ごめんって。でもエド鹿肉好きだからさ……。おやつにニンジンあげるから許して……」
ニンジンはファレノプシスの好物である。しかたないなぁ、と言いたげな表情でファレノプシスは歩き出した。本当に賢い馬である。
戻った百合を出迎えたのは、家の前の庭に置かれた大量の木の根だった。
「これが白木の根か」
白木の根はごぼうのような見た目をしていた。植物の根そのもので、全体的に茶色く、細いひげがちょろちょろと生えている。太さは山芋ぐらいで、驚くことに百合の身長よりも長い。これを掘り起こすのは大変だっただろう。
ファレノプシスを厩に繋ぎ、約束通りニンジンをプレゼントした百合は、地面に置いた鞄から鹿の入った袋を取り出す。苦労しながらもとりあえず白木の根の隣に鹿の体を並べる。
改めて見てみると、鹿は大きかった。エドは本当に皮を剥いだり捌いたりする事が出来るのだろうか、と不安を抱えながら外階段を上った。
「ただいまー」
「ユリ! 助けてくれ!」
帰った百合を出迎えたのはヴォルだった。抱き着くように飛んでくる。大きな体を縮こまらせて、何とか百合の背中に隠れようとしている。勿論目測一九〇センチの体が隠れる筈がない。
森から戻ってきたばかりなのか、服やローブのあちらこちらが汚れてしまっている。
「どうしたの?」
「エドが白木の根の精製なんて気の狂ったことやろうとしてやがる!」
「精製?」
騒がしい声を聞き、内階段を上ってきたエドが顔を出した。
「おかえり」
「ただいま、エド。下にあったのが白木の根だよね? いっぱい取れたみたいで良かった」
「あぁ。見立てはあっていた。必要な量が取れて良かった」
「多すぎない? 温生湯五本で匙五掬いだけしか要らないんだよね?」
「精製したものだからな。あの量で少し残るぐらいだろう」
「そんなに少ししか取れないの!?」
玄関にあった白木の根は言葉通り山になっていた筈だ。
「あぁ。材料の中で一番手間が掛かるのが、白木の根の精製だ。なんせ粉になるのに三日かかるからな。今日中に出来るところまで処理したい。井戸に行こう」
立ち上がったエドとは反対に、百合の背に隠れたままのヴォルは抗議の声を上げる。
「嫌だって! 俺もう十分働いたじゃん!」
「どうせ夕飯も食べていくんだろう。先払いだ」
「鬼!」
「何とでも言え」
これまたずるずると引きずられて井戸へ向かう。
途中玄関に置いてある鹿の亡骸を見つけて、二人は驚いた。ヴォルは駄々をこねていたのを止めて、エドを背中に庇いさっと杖を取り出した。
「魔獣の仕業か?」
「ごめん! それ私!」
百合は殺気立つ男たちの間に慌てて割って入る。
「どうしたんだこれ」
「退院した猟師の患者さんがお礼にってくれたの。ほら、毎日増血薬飲んでたオットーさん」
「あぁ、あの患者か」
エドの納得した顔を見て、ヴォルがやっと杖を下ろした。
「血抜きはきちんとしてるとはいえ、下手に動物の肉を玄関に放置していると魔獣を引き寄せる可能性がある。もしくは今みたいに魔獣がやってきたかと勘違いしてしまう。次からは貰ったらすぐに言ってくれ」
その考えは思いつかなかった。
八咫の母親の血の匂いに釣られてきた翔豹の姿を思い出す。あんなのがやってきたら、今度こそ百合は殺されてしまう。
「ごめんね、そこまで頭が回ってなかった……」
「いや、知らなかったんだからいい。しかし雌の鹿か。ありがたく頂こう」
エドは好物を前に嬉しそうだ。
ヴォルも嬉しそうに鹿を指さして叫んだ。
「エド! これで晩飯作ってくれ! それなら手伝う!」
「晩飯の前に解体だろ。内臓は取ってくれてるから、皮を剥ぐだけか。何にせよ二日ぐらい熟成させないと美味くならないだろう」
腹をのぞき込みながらエドが冷静に返す。
今夜は鹿肉のステーキだと思っていた百合は、内心がっかりした。エド程ではないが、百合も鹿肉は好きだった。この世界に来てから良く食べるようになったが、しっかりとした噛み応えと赤身の味の濃さは野生的で、他の肉に無い旨味がある。
「いや、ローゼスが熟成させないローストの方法で前作ってくれたんだ。あれめちゃくちゃ美味かったから作ってくれ」
「そんな方法俺は知らんぞ」
憮然とエドが返す。料理が得意なエドが知らない調理法とは、どういったものなのだろうか。
「こうなったらローゼスさんに作って貰った方が早くない?」
「確かに……よし、先に白木の根の下準備をして、終わったらニールの屋敷に行こう」
エドもヴォルと同じくアポを取らない。だが仲の良い男友達同士なら、こんなものなのかもしれないと思いながら、井戸へ向かって歩き出す二人の背中を見つめた。




