裸足の逃走劇
「帰れない?」
言葉の意味が解らず、そのまま聞き返してしまった。
そんな馬鹿なことがあるものか。
嫌な予感に心臓が痛くなる。
「そんな……さっさと帰してよ!」
「だから方法が無いって言ってるじゃない。頭が悪いわね……あら、もしかして知らないの?」
扇子越しの目がにんまりと笑う。
焦る百合を嬲るように、もったいぶった話し方で続けた。
「聖女っていうのは、魔力の塊。その血を一滴飲むだけで、魔法使いの力を引き出す特別な薬。
魔法族は今、魔力の低下を憂いている。どんどん出来損ないばかりが生まれてくる。
選ばれし魔法使いの、高貴な血が薄まってきているのよ。このままでは魔法使いが居なくなってしまう。
でもね、貴女がいれば関係なくなる。貴女の血を一滴飲めば、元々あった魔力は強大に、出来損ないでも一時的に魔法が使えると言われている。聖女様のおかげで魔法族は安泰ってこと。死ぬまで縛られて血を抜き取られるのかしらね。
12人の子供の魂と引き換えに呼んだんだから、きちんと仕事はしてもらうわよ」
ついに声を上げて笑い出した王妃と反対に、百合の顔はどんどん青ざめる。
縋るようにクジャを見上げる。
「そんな待遇は致しません。衣食住、安全で満足な暮らしを約束いたします。ただ、教会で教えを説いたり、その力をもって洗礼のお手伝いをしてもらうだけですよ」
「でも血を抜くって……それに日本には帰れないんでしょう!?」
「それが聖女の定めです」
駄々っ子を諭すような声色だった。
百合は吠える。
勝手に連れて来られて、何が定めだ。
「それに12人の魂ってどういう事?
貴方、倒れていた男の子たちは無事って言ったよね!?」
「聖女様はお優しい。あのような者の為に、清らかな心を曇らせるわけにはいかなかったのです」
クジャの顔が憂いを帯びた。
横髪が完璧な角度で頬にかかった。
だが、百合は顔を歪める。
クジャは嘘をついていたのだ。いかにも心を痛めているような顔をして、先ほどから言っていることは無茶苦茶だ。
嘘付きの宰相。
高慢で偏見を持った王妃。
黙ったままの臣下。
そして、何も分からない年ごろの子供を祭り上げる王国。
何もかもおかしい。
「勝手に呼び出して帰れませんって、どういうつもりよ! 私は日本に家族も友達もいるの! 帰してって言ってるの! 貴方魔法使いでしょ!?」
金切り声が広い部屋に響く。
誰も何も言わず、シンとした虚しさだけが反響した。
如何にも悲しそうな顔で、クジャが首を振った。
「聖女召喚の儀式は古代魔法です。国王が管理する禁書に失われた言語で書かれていました。国中の学者が集まり研究して読み解くことができましたが、全文の解読には至っていません。
本来は召喚の儀の書かれた上巻と帰還の儀が書かれた下巻の二冊があったとされていますが、下巻は今では紛失しています」
「そんな……」
じわじわと絶望が百合を襲う。
あこがれていた魔法使いの世界。
ただ他人の命と、今までの自分の生活が無くなるのなら、こんなもの欲しくは無かった。
生まれたのは田舎の山奥で娯楽は何もなかった。
それが嫌で東京に飛び出した。
距離があることを理由に避け続けた実家に最後に帰ったのはいつだろう。両親と最後に話した言葉は何だったっけ。
こんなことになるなら、会って話をすればよかった。
足に力が入らなくなって、ぺたりと床に座り込む。
絶望感と涙が、冷たい床からじわじわと込み上げてきた。
すかさずクジャが駆け寄る。
「勿論、今現在も全文の解読と共に下巻の捜索は続けられています。我々と一緒に居れば、いつか帰ることも出来るでしょう。
……いろいろな事があり、少し疲れたのでしょう。部屋を用意しています。そこで休んでください」
クジャの目配せで、白いローブの魔法使い二人がかりで百合を立ち上がらせる。
半ば引きずられるような形で出口へと向かった。
百合は振り返った。
ぼうっとした様子の王子と、クジャの腕に纏わりつきながら話す王妃。
穏やかな表情でそれに答えるクジャ。
フードの影から、憐れみの表情で百合を見る魔法使い達。
「離して!」
百合は男たちの腕を勢いよく振り払った。
自分の足でしっかりと立ち、王妃とクジャの立つ玉座の方を真っすぐ見つめる。
「勝手に呼び出しておいて、放置プレイですか? 帰れない? 勝手なことばっかり言わないでよ!」
身体が勝手に震えだす。
心の底から燃え上がるように込み上げてくるのは、怒りだ。
「結構、帰れないなら好きにさせてもらいます!」
そういい捨てて百合は走り出した。
重い扉を両腕で押し開けると同時に、後ろで「捕まえろ」と指示するクジャの冷たい声が聞こえた。
回路に飛び出した。
絵は百合の心を映してか、大荒れの夜の海に代わっていた。
大雨と強風の間で雷が光り、船が一艘暗い渦に巻き込まれた。
後ろから追いかける足音が聞こえた。
ハイヒールを脱ぎ捨て、ドレスの裾をつかんで走るスピードを上げる。
ガシャン! と百合の右隣に飾られていた白磁の壺が、光と共に割れた。
後ろを振り返ると追ってきた男達は目を光らせ、杖を持ち攻撃を仕掛けていた。
「本性現したわね!」
お姫様扱いで丸め込みたかったのだろう。
残念ながら百合は夢見がちだが、そこまで能天気ではない。
「馬鹿にしないで!」
小さい頃は野山を駆け回り、高校まで陸上に打ち込んだ百合の足は速く、後ろから飛んでくる拘束魔法をひょいひょいと身軽に避けながら王宮の中を走る。
長い廊下は行き止まりで階段に突き当たった。
上か、下か。
道はわからないので、階段をひたすらに下っていく。
一階にたどり着き、甲冑の飾られた細い廊下を走り抜け、肖像画が沢山掛けられた部屋に入ると、後ろの男が放った魔法が、前方にある高さ3メートル程の大きな窓ガラスを粉々に割った。
「ラッキー!」
窓から飛び出すと、足裏に芝の感触があった。
やっと外に出たのだ。
いつの間にかすっかり日は暮れていた。
百合の荒い息を街灯が照らす。
そこは、広大な庭だった。
とにかく逃げるために、迷うことなく生垣の中に飛び込む。
むき出しの腕を枝が引っ掻き、傷を作った。
長いドレスが引っ掛かったが、無理やり引っ張るとビリッ! という嫌な音と共に膝上で破けた。
「走りやすくなった!」
引っ掛かったベールもむしり取り、再び走り出す。
百合の女とは思えない思い切った行動に、ぽかんとしていた魔法使い達も、慌てて二手に分かれて回り込んできた。
やがて開けた場所にたどり着いたところで、追いつかれてしまった。
視線の先には噴水と、到底通り抜けれないであろう分厚い薔薇の生垣があった。
百合の体力も限界だった。
ぜいぜいと息を切らす。
久しぶりの全力疾走に喉の奥が切れたのか、口の中に血の味が広がった。
肩で息をする百合の前に、長い髪の男が一歩近づいた。
薄暗い中でも光って見える艶のある銀髪だ。
「さぁ、城に戻りましょう」
他の魔法使 いとは少し違う、凝ったデザインのローブを着ていた。
男の後ろに、追いついた魔法使い達がずらりと並ぶ。
この中で一番偉いであろう男は、百合の腕を取る。
百合はがむしゃらにその手を振り払った。
苛立ったようにスクエア眼鏡の奥の目が細められる。
「城から出ても、この世界の人間でない貴女は右も左もわからない筈。
大人しくしていれば、誰も危害を与えません。約束しま
す。
さぁ、怪我もしてしまっています。手当しますから、一度戻りましょう」
クジャより真摯な声色だったが、百合は首を振る。
「薬か置物にされるなんてまっぴらよ! 私は帰るんだから!」
噴水を回り込み、じりじりと後退する。
すぐにむき出しの背中に薔薇の棘が刺さった。
――行き止まりだ。
それでも逃げようと後ずさると、百合の足が固い何かを踏みつけた。
下を見ると、踏んだのは熊手と呼ばれる竹でできた箒だった。
掃除をした人間が置き忘れたのだろうか、立てかけていたものが転がったのか、一本だけぽつりと落ちていた。
それを見てピン、と思いつく。
上手くいく確率は低い。それでも、
「(一か八か!)」
百合は熊手を手に取る。そして素早く跨った。
大きく息を吸い、叫ぶ。
「デッキブラシでも飛べるんだから、熊手でも飛べるでしょ!? お願い!」
ピシリと百合は熊手を叩く。
「何を馬鹿なことを……」
男がそういい終わらない内に、ふわり、と百合の身体が宙に浮いた。
「わ、わ、わ!」
それはふらふらとおぼつかない様子であったが、慌ててしがみ付いた百合を落とすことなく高度を上げていく。
ポカンとする男たちが我に返り、慌てて拘束魔法を放った。
だが熊手は意思があるかのように右へ左へ軽く避けていく。
揶揄うかのように、ひらりひらりと攻撃をかわし、やがて魔法の届かない高さまで登ると、スイーっと水平に走りだした。
破れたドレスに使い込まれた熊手。魔法族の常識では考えられない姿だが、それでも聖女は思惑埋めく城から逃げ出したのだった。




