子烏
風を切り空を駆けると、対象はすぐに見つかった。青と白しかない空の中、大きな黒は目立つ。
鳥であるのにふらふらとおぼつか無い様子で飛ぶ黒烏は、追いかけてくる百合などもう気にしていないようだった。その体からはボタボタと赤い血が滴っている。それでもただ前だけを見て懸命に羽を動かし続けていた。
対象の後ろにつきながら、しばらくそのまま飛び続けた。
やがて黒烏は一際高い木に止まった。そのまま力尽きように崩れ落ちる。
追って百合も熊手に乗ったまま静止した。
「あ……」
眼下には大きな巣があった。ニールに与えられた百合のベッドより大きな巣だ。木の枝や、藁などで作られているそれが、黒烏の巨体を受け止めていた。
黒烏の視線の先に、子猫ほどの大きさの小烏が待っていた。少しグレーに寄った黒色のふわふわの羽毛に包まれている。帰ってきた母親に気づくと、大きく口を開けてピイピイと鳴いた。
母烏は最後の力を振り絞って、鳴く子の口元に嘴を寄せた。餌を貰えると思った子烏はより一層大きく口を開けた。
だが、何も与えられなかった。そのまま黒烏は静かに絶命した。
黒烏はこの子に会いに最後の力を振り絞ったのだった。
動かなくなった母親を不思議に思い、子烏はより一層鳴いた。その高い声は母親にはもう届かなかった。
黒烏の死を見届けた百合は、巣の中に降り立った。瞼を閉じさせて、そっと指を組んだ。
この黒烏のせいでエヴァが傷つけられたし、百合も怪我をして寝込む羽目になった。だが、黒烏が悪い訳ではない。自分が、そして子供が生きる為にした行為だ。
弱い者が淘汰される自然の摂理の中でも、死を悼む気持ちは忘れたくなかった。
祈りを終えた百合は立ち上がり、巣の中を見回した。
エヴァのものとは違う色の人魚の鱗、いくつもの硬貨。何処からか取ってきた金のネックレスに、果ては綺麗に輝く唯のビンといった物が散乱している巣の中で、黒烏の羽と同じ色の石が鈍く輝いていた。
「あった!!」
百合の杖だ。その奥にアレクサンダーに借りた杖もあった。だが残念ながら借り物の杖は巣材の一部に編み込まれて取れそうにもない。
百合が手を伸ばすと、飛び上がった子烏が嘴で百合の手の甲を突いた。思いがけない衝撃に思わず手を引く。
「イタッ! ちょっと! それは私のよ!」
百合が糾弾しても関係ない! と言わんばかりに何度も突いてくる。その黄金の目は、勝手に取るな盗人め! と言っているようだった。
「あのね、その杖もあの杖も私の物なの! 勝手に取って行ったのはどっちよ!」
右手で暴れる子烏を押さえつけ、何とか杖を引っこ抜いた。
ようやく手に戻ってきた杖は、やはり温かい温度で百合を迎え入れた。まだ唯の杖石――完全な杖ではないが、握った手から感じるぬくもりは、杖が自分の半身だと自覚させるのに十分だった。
するとその時だった。グルグルと大きな唸り声に百合も子烏も手を止める。
音の発信源である下を見ると、血に塗れた小さな顔がこちらを見ていた。大きな豹のような魔獣だった。黄褐色で、耳の縁と尾の先だけが黒くなっている。黒烏の血の匂いに釣られて木の下まで来ていたのだった。
滴り落ちた血を浴びた魔獣が、獰猛に笑った気がした。
「うわぁああ!」
百合はローブのポケットに両手に持った物を納め熊手に跨った。
木を蹴って飛び上がった瞬間、魔獣の鋭い爪が巣を叩き落とした。木から巣まで何十メートルもある。羽の無い魔獣の筈なのに、恐ろしいほどの跳躍力で飛び上がったのだ。
その筋肉で覆われた体が、落ちた黒い影に多い被さる。骨が割れる音と同時に血が派手に飛び散り、百合は思わず目を反らす。ポケットの温かい塊が落ち着かなそうに動くのを右手で押さえつけた。
薄暗い木の間から、黄金の瞳が百合を捉える。再び飛び上がろうと力を入れた所で、百合は猛スピードで逃げ出した。後ろも振り返らず、体を縮こまらせてただただ逃げた。
「あ! ユリ帰ってきたよ!」
下からエヴァの声がした。熊手から飛び降りてやっと後ろを振り返る。森の中を凝視し、耳を澄ませるが追ってくるような音もしない。
心臓がバクバクと音を立てている。安心したと同時に汗が噴き出した。濃い血の匂いが鼻の奥にこびりついている気がする。あの魔獣は何だったのだろうか。
ゆらり、と影が差す。百合が顔を上げるより先に脳天に衝撃が走った。
「痛ッ!!」
「この馬鹿! 突っ走っていく奴がいるか!」
顔を上げると怒髪冠を衝く勢いのヴォルがいた。痛む頭に拳骨を落とされたのだと気づく。
「黒烏は人を食べることもある魔獣だ。魔法も十分に使えない癖に何をしているんだ! そういう事はな、自分の身を自分で守れるようにしてからにしろ!」
赤い目が強く百合を睨みつける。本気で怒らせてしまった。
「……ごめんなさい」
百合は素直に謝った。ヴォルの声は怒りで満ちていたが、その顔は本気で心配している様子だったからだ。
少しの間沈黙が流れた。だがすぐに「はぁああ」と大きなため息が頭上で聞こえた。
「お前に何かあったらどうしようかと思った」
ふわり、と爽やかな香りがした。ヴォルの黒髪が首筋に触れる。心地よい重さが肩に乗った。
百合を抱きしめた腕は震えてこそしなかったが、力の強さがヴォルの心配を物語っていた。背に腕を回し抱きしめ返す。
「ごめんね」
「怪我なんぞさせたら、俺がエドとニールに何を言われるか……」
「そっち?」
「お前あの二人本気で怒ったらめっちゃ怖いんだぞ……」
その時だった。ピイイ! と高い声が百合のローブの右ポケットから聞こえた。




