黒烏(2)
頭の中の遠い所で声がしている。高い音と低い音が跳ね返り、何重にもこだまする。やがてそれが少しづつ重なり、一つの音になる。
百合はゆっくりと目を覚ました。
ぼやけた視界がクリアになる。目に入るのは遠くの青色だ。その青にゆっくりと白が流れていく。背面には固い感覚があった。仰向けでどこかで寝かされているようだ。
どうやら、何とか生きてはいるらしい。
「痛ったぁ…」
大きく息を吸って吐くと、背中に強い痛みが走った。
「ユリ!」
高い声が百合の足元から叫んだ。首を動かそうとしても、痛みが酷くて動けない。
百合は顔を思いっきり顰めた。水面に叩きつけられた時に、全身を相当強く打ってしまったようだった。
「ユリ! 大丈夫!?」
エヴァの声だ。怪我は大丈夫だろうか。
悲鳴を上げる腕で上半身を支え、何とか身を起こす。
百合は陸地の、湿った草の上に寝かされていた。足元には湖が広がっている。視線の先には、泣きはらしたエヴァの姿があった。
「エヴァ……身体は大丈夫?」
「私は大丈夫。ごめんね、ユリ、痛いよね」
エヴァの視線は左肩に注がれている。気絶してからどれぐらい経ったのか。今も流れ続ける血のせいで、目の端が白く歪んでいる。だが、それをエヴァに言う気はない。
「大丈夫、エヴァも知っての通り魔薬を塗れば止まるし、打ち身だけっぽいから」
話しながら手足を動かしてみる。激痛は走るが、経験上骨は折れていないと判断する。
「エヴァこそ大丈夫? すぐに薬用意するから」
「人間の薬なんて使うんじゃない!」
ローブの中に手を入れた途端、低い声が聞こえた。
霞む視界の端、エヴァの左隣に見知らぬ男がいた。エヴァと同じように、水の中から大声で叫んでいる。
「お前のせいでエヴァが怪我をした! 鱗が剥げるなんて、嫁入り前の女の身体に傷をつけやがって!」
「人魚……?」
オレンジの長髪の男だ。水に浸かった下半身は、緑ががった青色の鱗で覆われている。焼けた浅黒い肌には、見たことも無い模様のタトゥーが入っていた。
女の人魚がいるのだから、男の人魚だっているだろう。当たり前のことなのに、その発想が無かったせいでひどく驚いてしまった。
「ユリに酷いこと言わないでよ!」
「人間のせいでお前が怪我したんだろう!」
「ユリは悪くない! それに黒烏は光るものが好きだから、私の鱗を見て近寄ってきたの!」
「何故水面に顔を出した! 人間に見つかったらどうするつもりだ!」
「人間がみんな悪いわけじゃない! シンは何で分かんないの!?」
男の人魚の名前はシンというらしい。
目の前で繰り広げられる激しい言い合いに、どうすればよいのか迷った。だが、興奮したエヴァが尾びれを水面に叩きつけると、黒烏に掴まれた傷口から血が流れていた。
このまま放っておく訳にはいかない、と間に割って入る。
「エヴァ、血が出てる。とにかく怪我をどうにかしないと。一瞬だけでも身体をこっちに上げれる?」
「上半身水につけてたら大丈夫だと思う」
「人間は黙ってろ!」
「エヴァが血を流し続けてても良いの?」
百合はそう言って喚くシンを黙らせた。
ローブの中から切り傷の薬を取り出す。蓋を開けて確認すると、幸いなことに水は入っていなかった。この様子なら使えるだろう。
鱗が剥げて血が流れている部分に、スパチュラで塗りつける。血が止まり、皮膚が巻き戻ったかのように傷がふさがる。だが、そこに本来生えていた筈の鱗は、戻っては来なかった。
「人間の皮膚用だからかな……ごめんエヴァ」
「ユリは何も悪くない! 鱗だって、一年したら生え替えるよ!」
「その一年間、お前はずっと恥ずかしい思いをするんだぞ!」
「恥ずかしい思い?」
聞き捨てならないシンのセリフに百合は食いついた。
「昔自らの鱗を全て剥ぎ、尾を割って人間になった人魚がいた。剥げた鱗を持つ人魚は、我々を絶滅させようとした人間に憧れる、愚か者の証だ。そんな状態なら、人魚の国から追い出されても仕方ないんだぞ」
「怪我だって言えば納得してくれるわ!」
「それに楽しみにしていたパーティーはどうするんだ。そんな姿じゃ、王子の前に恥ずかしくて出れないだろう。他の人魚にも何を言われるか!」
「それは……」
俯いたエヴァの金色の目に、見る見る間に涙が溜まる。
堪えきれなかった分が、ほろりと頬に伝った。
「行かない……こんな姿で好きな人の前には立てないもん……そんなこと言われなくてもわかってるよ! シンの馬鹿! 大っ嫌い!」
そう叫んで、エヴァは水の中に潜ってしまった。
その場に残されたのは百合と、人間嫌いのシンだ。
沈黙が流れる。
ため息を吐いたシンは、苛立った様子で髪の毛を掻きむしった。
「これだから人間なんぞに関わるとロクなことにならん!」
「シンさんはエヴァの兄妹なの? それとも恋人?」
いちいち言動にうるさく口を出すのは、兄特有の行動だが、いかんせん二人は顔を含めた身体的特徴が合致しない。噂の王子様にゾッコンなエヴァをみても、恋人という線は無さそうだが、一応念のために尋ねる。
「こ、恋人だと!? そんなものではない! エヴァは可愛い妹みたいなもんだ!」
動揺でヒレが水面をバチャリと叩いた。慌てて大声でシンは否定する。
百合はその赤く染まった頬を見てピンときた。
「好きなんですね、エヴァのこと」
「す、す、すきだと!?」
唇を尖らせたままシンは硬直してしまった。どうやら大当たりのようだ。
「好きだったら、あんな言い方しないで優しくしてあげたほうが良いですよ」
百合はそう話しながら濡れた髪を絞った。水に落ちたのだから当たり前だが、どこもかしこもびしょ濡れである。
ジャンパースカートの裾の水を絞っていると、太ももにあるべき重さが無いことに気づいた。捲って見ると、ホルスターに差していた杖が無くなっていた。借り物の杖も、自分の杖も無くなっている。
やってしまった、どうしよう、と百合は落ち込む。
だが目の前で水に浸かったシンも同じように落ち込んでいた。
「わかっているさ」
「え?」
先ほどまでと違い、あまりにも小さな声だったので、百合は思わず聞き返してしまった。
「オレが口うるさく注意するから、エヴァに嫌われているのは分かっている。だが、あいつは好奇心旺盛で何をしでかすか分からん……心配なんだよ」
筋肉隆々の上半身を小さく丸めて自己嫌悪に耽る姿は、なんというか哀れだ。
口がまだ動き続ける。何やら溜まっているものもあるみたいだ。
「続けて」と先を促す。
「エヴァとは生まれた時から一緒で、ずっと面倒を見てきたんだ。他人の良い所を見つけるのが上手で、惚れっぽい性格だから色々な男を好きになるんだが、毎度毎度ロクな奴じゃなくて。間に入って文句を言っていたらいつの間にか嫌われてしまった」
「でもエヴァのこと助けてくれたじゃない」
「エヴァがお前と会うと言うんで、隠れて見ていたんだ。すると黒烏に襲われて……水の中に戻された時に、逃げるために慌ててここに運んだんだ」
これは多少ストーカー気質もあるな、と百合は頬を引きつらせる。
「黒烏ってどんな動物なの?」
「動物じゃない。あいつらは魔力を持った魔獣だ。黒烏は賢い魔獣だ。雑食で光物を何よりも好むせいで、人魚が襲われることも多い。エヴァが食べられていても可笑しくなかった」
「あんまり怒らないで、心配してることを伝えれば? あと、嫌なことを言われるかもしれないから、パーティーにも行かないで欲しいって」
「あんなに楽しみにしてたんだ、可哀想だろう」
望みを叶えてあげたい気持ちと、恋する相手の元へ行ってほしくない本心が、彼の中でさざめきあっているようだ。
「とにかくエヴァに怒鳴ったことを謝ること。そうしたらエヴァだって素直になるわ。あと人間と人魚に何があったのか知らないけど、私とエヴァは友達よ。友達の交友関係に口出すのは野暮だわ」
シンは、百合の言葉にぐうの根も出ない。
「私そろそろ帰りたいんだけど、ここって何処なの? 襲われた湖の近く?」
「あそこよりもっと遠くの湖の縁だ。帰るなら勝手に帰るんだな」
ボチャン、と重い音がして、シンは尾びれを優雅に動かしながら帰っていった。
一瞬で水色に溶けた姿を眺めて百合は思う。
「……いや、だからここ何処よ?」




