黒烏
「「え」」
声を発したのは、百合とエヴァ同時だった。
黒い影が水面に差したと思うと、エヴァの身体が宙に持ち上げられる。
上空を見上げると巨大な鳥だった。漆黒の翼がばさりと広がり、大きな太陽を遮った。
「キャー!」
「エヴァ!!」
反射的に伸ばした手は、お互い空を掻く。
鷹が川で泳ぐ魚を捕まえる時のように、湖面に鋭いかぎ爪を入れ、その黒い鳥はエヴァの身体をわし掴んだ。あっという間だった。もう一度大きく羽を羽ばたかせたと思うと、猛スピードで飛んで行ってしまった。
「待て!」
百合は慌てて熊手に乗り、飛び上がる。柄に胸が付くほど姿勢を倒し、猛スピードで鳥の後を追いかける。
「ユリ! 助けて!」
「エヴァを離しなさい!」
エヴァの叫び声が森に響いた。
鳥は百合が近づいてきたのを見ると、大きな嘴を開けて「ガァアア!」と威嚇した。その大きな鳴き声は、衝撃波のように百合の髪の毛を巻き上げた。
巨大な鳥は烏によく似ていた。漆黒で艶のある羽を持ち、同じ色の目と嘴を持っている。
よくよく見ると、足が三本あり、その鋭いかぎ爪全てがエヴァの柔らかな体を掴み、傷をつけた。
烏だと思うと可愛いが、自身を丸飲み出来そうな程大きいのでは、もはや怪鳥と言っても過言ではない。自分より大きな動物に対して、人は恐怖心を抱いてしまうものだ。
「う、う」
エヴァの皮膚が、吹く風によって見る見るうちに乾いていく。
桜色の唇が、苦しそうに歪んだ。このままでは、また窒息してしまう。早く水に戻さなければ。
「離して!」
烏は言葉が通じるのだろうか。「嫌だ」と言わんばかりに大声で鳴く。
百合は熊手の柄を握りしめ、巨大な胴に突進する。
だが空の上では鳥の方が有利だ。ひらりと躱される。
叫んでいたエヴァの悲鳴が途切れた。烏のかぎ爪の中で、ぐったりと身体から力が抜けていた。だらりと伸びた指先から、水が一滴湖面に落ちた。
抵抗が無くなったのを幸運と言わんばかりに、烏の飛ぶスピードが上がる。烏の進行方向には湖は途切れ、生い茂った森がある。百合の行った事の無い、森の奥だ。そこに連れていかれると、ますます湖から離れるだろう。人魚のエヴァの命が、危ない。
何とか先に回り込み、闇雲に突進を繰り返すことで湖の上まで押し戻す。
一定の距離を保ち、空中での睨み合いが続いた。
エヴァを水中に戻したい。だが、取り戻す為にエヴァの身体に触れると、また火傷を負わせてしまう。八方塞がりだ。
「(何か、何か方法はないの!?)」
目に見えてエヴァが弱っていく。うめき声も聞こえない。呼吸をしているのかも危うい。
百合は咄嗟に右足に着けていた杖を取り出す。
アレクサンダーから練習用に借りていた杖だ。借り物の杖で、しかも呪文を知らない自分に何が出来るのだろうか。でも、このままでは。
「(一か八か!)」
木の感触を握りしめる。ニールの動きを思い出し、大きく息を吸い込んだ。
「粉砕せよ!」
百合の放った呪文は弱いながらも赤い閃光となり、烏の胴に直撃した。本棚を破壊するような、元の呪文ほど威力は無いが、大きく羽が毟られ、赤い血が噴出する。
「グガァアア!」
痛みと衝撃で烏の拘束する力が弱まった。かぎ爪からエヴァが落下し、湖面に勢いよく叩きつけられる。
バチッ! と鈍い音がした。
「エヴァ!」
箒を旋回させ後を追おうとするが、それよりも早く烏が身体を滑り込ませた。
「ガァアアアア!」
黒い目は怒りに燃え、百合を睨みつける。血まみれの身体で、百合に突進してくる。
「どいて! もう一発食らいたいの!?」
だが烏は怒りで自我を失っていた。藻掻くように羽を無茶苦茶に羽ばたかせ、大声で威嚇を続ける。
そのまま大きな羽を畳み、百合の身体を掴もうと襲い掛かってくる。
「粉砕せよ! 粉砕せよ!!」
闇雲に魔法を連発しても烏には当たらない。むしろ学習したかのように、赤い閃光の軌道を読んで左右上下に避けている。
ついに烏の嘴が、百合の左肩を捉えた。鋭い嘴がめり込み、ローブごと肉を抉った。
血が噴き出す。熱湯を掛けられたかのような熱い痛みが、左肩から全身に走った。
「痛っ!」
思わず利き手で傷口を抑えた。ドク、ドクとそこだけ別人の身体のように脈が打っている。
ぐらり、と身体が傾く。
今は不安定な熊手に跨っている。ただでさえバランスを取るのが難しいのに、片手を離すとどうなるか。
空中での姿勢は、一度崩すと元に戻れない。
百合は杖から真っ逆さまに落ちて、湖面に大きな水飛沫を上げた。




