束の間の幸せ
人魚のエヴァと出会ってから丁度一週間が経った。今日は湖で落ち合う約束の日だ。
今日の午後は町への配送が無い。百合はあらかじめエドに外出の許可を貰っていたので、いそいそとローブを着込んだ。
エドはソファーに座り分厚い本を読みふけっている。今朝王都でしか手に入らない、最新の魔薬の学術書が届いたのだ。待ちに待ったものらしく、視線が止まることなく文字を追っている。
滴る汗もそのままに集中している所を申し訳ないが、そっと声を掛ける。
「薬草摘んだ後、人魚のエヴァに会いに行くけど、エドも行く?」
エドは雑誌から顔を上げずにそのまま返事をした。
「行かん。が、もし鱗が抜けるようなら貰ってきてくれ」
「人魚の鱗?」
「愛の媚薬の素材になる」
百合は驚いて目を見開く。
愛の媚薬、それはもしかして本の世界で幾度となく読んだ惚れ薬の事だろうか。
「そんなのあるの?」
「あぁ。服用した後最初に見た相手を愛する惚れ薬だ。一滴で丸一日効果が続く。甘いカシスの香りがするそうだ」
「エドは作ったことないの?」
「今となっては中々手に入らない貴重な素材ばかり使うからな。その内の一つが人魚の鱗だ。あとは……」
「あとは?」
エドが渋い顔をする。
「現在は法律で販売が禁止されている。過去王族にこの魔薬を盛った人間がいたそうだ」
「じゃぁどちらにせよ作れないじゃん」
「販売が禁止されていても、調合は禁止されていないからな」
いけしゃあしゃあと言うが、その理屈は恐らく通用しないだろう。
「後で作り方書いてある本貸してね」
「調合には丸々一ヶ月掛かる上に、最上級の難しさだぞ? お前じゃまだ出来ない」
「それはそれ、これはこれ」
調合が出来る、出来ないではなく、純粋に興味がある。
いつか実物を見てみたいものだ。
遠くで鐘の音が鳴った。そろそろ出なければいけない。
百合は鞄を持って立ち上がる。
「じゃあ行ってきます」
「気をつけてな」
意外な言葉に振り返ると、エドは雑誌から顔を上げていなかった。それでも初めて掛けられた言葉に百合は顔がにやけてしまった。
「はーい。日が暮れるまでには帰ります」
厩の道具入れにこっそりと隠していた熊手を手に、森の中を進む。
湖にたどり着くと、辺りを見回して誰もいないことを確認する。熊手に跨って地面を大きく蹴り、飛び上がった。
「あー涼しい」
この暑さだ。風が吹くだけでも気持ちよく感じるが、水の上の涼しさは格別だ。ボートが手に入れば、エドと一緒に涼みにいくのも良いかもしれない。
「おーい! ユリー!」
斑花の群測地の辺りから声がした。下を向くと湖から顔を出したエヴァが大きく手を振っている。
地面に降りると、エヴァも陸地の近くに近寄った。
「お待たせ」
「ううん、全然待ってない!」
ユリはジャンパスカートを捲った。行儀悪くも靴下も靴も脱いでしまって足を水に浸す。
「冷たーい」
「そう? 今日は随分温かいよ?」
「こんなに冷たいのに?」
湖の水が外気と違いひんやりと冷たい。首筋を流れていた汗がすっと引いていく。
「水中人の住んでる水底の方は温度が変わらないからね」
「へぇそうなんだ」
ユリはエヴァの服装が前回と違うことに気付く。
前回はビキニのような服装だったが、今日は明るい黄色のフリルのついたチューブトップのトップスを着ている。どんな素材でできているのだろうか、水の中なのに濡れることなく軽やかに揺蕩んでいる。
「ねぇねぇ、それより! お花どうだった?」
キラキラと期待に輝く目に、つられて笑ってしまう。
百合は斜めに掛けた鞄の中から、ハンカチの包みを取り出した。包みをそっと開くと、中にはニールが魔法をかけた斑花が入っていた。摘んで一週間も経つのに瑞々しさはそのままだ。
「わー! 触っていい?」
「もちろん」
エヴァは両手で恭しく髪飾りを受け取った。そうっと花びらに触れて、今度はツンツンとつついてみる。完全に固まっている事を確認すると、驚いたように手を広げた。
「すごーい! 本当に固まってる!」
「ね、ちょっと貸して、着けてあげる」
エヴァの濡れた金髪を掬い、触れないように耳に掛ける。そしてその上にヘアピンを固定する。
「うん、可愛いよ」
「うわぁ! 本当!? ありがとうユリ!」
「私がしたんじゃないけどね!」
「お願いしてくれたじゃない! 魔法ってすごいのね!」
湖面に映った姿を見て、興奮で頬が薔薇色に染まる。弾ける笑顔が可愛かった。
そんなに喜んでくれるのなら、お願いしたかいもあったものだ。
「人魚は魔法は使えないの?」
「水に関する事なら使えるけど、こういうのはサッパリ。ね、ね、泳いできても良い?」
「どうぞどうぞ」
返事を聞くやいなや、ザブンと水しぶきが上がる。
一瞬鱗が光った。水の中を踊るように滑らかな動きでヒレが動く。ぐんぐんとスピードを上げ、すぐに姿が見えなくなった。
数秒後、随分と離れた所でエヴァが顔を出す。
「壊れてないー!?」
良く通る声は水面を滑って百合の耳に届く。
「そんな遠くじゃみえないよー」
「確かに!」
声を上げて笑ったエヴァは、こちらに戻ろうと水面に潜ろうとする。
その時だった。




