人魚の涙
家に戻るとまだエドは帰ってきていなかった。宣言通り帰るのが遅くなっているみたいだ。
貝が死なないように、台所の盥の中に入れて、たっぷりと水を張る。
エヴァの言う通り、ポコポコと大きな泡が、うっすらと開いた口から上がってきている。
一定のスピードで空気を吐く様は、水槽の中に入れるエアーポンプのようだ。
その足で地下の食品庫に行き、食材を確かめる。
エヴァがくれた貝はバターで炒めるか、と考えて手を止める。
貝と言えばバター焼き。網の上で旨味のエキスが零れないように焼いた貝に、バターと少しの醤油を落として熱い内に食べるのが最高に美味しいのだが……。
「醤油無いんだよなぁー」
砂糖、塩、酢、醤油、味噌。いわゆる「さしすせそ」の調味料で日本食の味付けは出来ている。
砂糖は貴重だがあるにはある。塩は何処でも売っている。酢は果実酢で代用できる。
だが、醤油と味噌は何処にもない。
朝市でも探し、ヴォルにも聞いたが「聞いたこともない」と言われてしまったのだ。
「お米食べたいよう」
田舎育ちの百合は、実は農家の娘だった。
高校卒業後、早々に家を出て一人暮らしをしていたが、米や野菜が実家から定期的に送られてくるので、自炊はマメにしていた。
家族で食べる米や野菜は、姿形が悪くても気にしない為、完全無農薬で育てていた。
混じりけの無い野菜本来の味で育ってきた百合は、東京に出て、初めてスーパーで買った野菜や米に味がしないことに驚いたのだった。
話がずれたが、朝昼晩と米を食べて育ってきたのだ。そろそろお米の味が恋しい。
だが醤油と味噌と同じく、米も何処にも無かった。あるのはタイ米のような細長くパサパサとしたものだけだった。食べたいのは甘くてもっちりとしたジャポニカ米だ。
あまりにも「ジャポニカ米は無いのか!?」としつこく聞くので、商人に「ドンプの出身か?」と疑われた程だ。
そんなことを思い出していたら、焼けた醤油の香ばしい香りと白米の甘味を思い出してしまった。
「うう……バター焼きはやめよう……」
せっかくエヴァ貰ったものを、残念な気持ちで食べたくない。
温室からハーブを摘んできて、白ワインで酒蒸しにしようと決めた。
夕飯のメニューは酒蒸しとチーズフォンデュにしようと思い、根菜を片手に台所に戻ると見慣れた金髪の姿があった。
「あれ、エド帰ってたの? お帰り」
声に反応したエドが振り返る。
そのやけにゆっくりとした動きは、錆びたロボットを連想させた。
「おい、この貝どこから拾ってきた……?」
「拾ったっていうか、貰ったの。湖に住む人魚から。
晩御飯酒蒸しとチーズフォンデュにしない? 酪農家のおじさんからチーズ沢山もらってたよね?」
「酒蒸し? どんな料理だ」
「砂抜きした貝をフライパンに並べて、ワインを掛けて蒸すだけの簡単料理。大きいから食べがいがありそうだよね。この貝は砂抜き必要なのかな?
エド、気泡貝って知ってる?」
その言葉を聞いて、エドは台所の椅子に座り込んだ。
「どうしたの?」
百合も端に寄せてあった木のスツールに腰かける。
何だか様子が変だ。
「人魚だと? どこに居たんだ」
「だから森の湖だって」
「湖に水中人が居たなんて知らないぞ……」
「へー会ったこと無かったんだ」
エドも会ったことがあるものだと思い込んでいた。
「水中人は警戒心が強く、人間の前にはそうそう姿を現さない。奴らも乱獲された歴史があるからな。
それでどうして貝を貰うことになったんだ」
「人魚――エヴァっていうんだけどね、咲いてた斑花を摘もうと思って陸上に上がったら、酸素が足りなくて死にそうになってた所を、たまたま見つけて助けたの。
その時腕に触ったら火傷しちゃったから、魔薬で治療したらお礼にって」
「間抜けな奴だな。人魚が水から出たら死ぬに決まっているだろう」
「そう言わないであげてよ」
呆れたようなエドに百合も苦笑いを返す。
「人間が喜ぶからってこの貝をくれたんだけど、美味しいってことだよね?」
「これを食って喜ぶ馬鹿はいないだろうな」
「えっ!? まさか毒!?」
エドは首を振る。
「毒は無い。だがとてつもなく貴重なものだ」
エドは盥の中の気泡貝をのぞき込んだ。
「気泡貝はその名の通り、空気を吐く貝だ。この貝の内側を口にぴったりと当てれば、水中でも呼吸が出来るようになる。
魔法具で似たようなものがあるが、これは魔力を必要としないから誰でも使うことができる」
「えー!? すごい」
驚いた百合にエドは続ける。
「水中で使えるが、医療の現場でも使える。呼吸が弱くなって苦しんでいる人間にこれを着けると、楽に呼吸が出来るようになる」
つまり人工呼吸器のようなものだろう。
エドが立ち上がり、引き出しからテーブルナイフを取り出す。
それを貝の口に差し込み、ぱかりと開いた
「そして運が良ければ、真珠が入っている」
ぷりんとした薄黄色の貝の身の隣には、発光するような美しい真珠が入っていた。
「気泡貝の真珠は大きく、美しい球体で、光の加減で虹のように複雑に光る。
その美しさから「人魚の涙」とも呼ばれて王族に親しまれてきた」
「へー確かにすごく綺麗」
エドから受け取って見ると、小指の爪ほどの大きさで、まん丸だ。
百合の知る真珠そのものだ。
「ネックレスとかにしたら良いかな?」
一粒真珠のペンダントトップなんて、上品で素敵だ。
夕陽に反射する真珠を眺めながら百合は呟く。
「人魚の涙のネックレスか……その大きさだと金貨百枚はいくかな」
「ぐっえ!?」
空気が変なところに入り、くぐもった声が出る。
ゴホゴホと咽ながらエドに聞き返す。
「百枚!? ウソでしょ!?」
金貨百枚といえば、感覚的には百万円だ。
日本でも本真珠は確かに高価だったが、流石にたった一粒でそんな値段はしなかった。
「嘘じゃない。気泡貝自体が手に入りにくいのに、真珠も確実に入っている訳ではない。市場にめったに出ないから、価値があるんだ。
まぁ俺にとっては貝殻の方が貴重だが。これ貰っても良いか? ジェイコブの入院患者で自己呼吸が難しい者がいるんだ」
今日は呼吸が楽になる魔薬が無いかの相談に行っていた、とエドが言った。
「勿論。エドにはお世話になってるし、真珠も貰って下さい」
「男が真珠をつけてどうする。ニールに相談してネックレスにしてもらえ」
「分不相応だよ、金貨百枚のネックレスなんて……」
「二百枚だな、もう一つ出た」
「ひえぇええ……」
エドが貰った貝を全部開けると、結局二粒の真珠が入っていた。
「ピアスにすれば良い」
「無理、そんな高価なの似合わない」
エドは真珠をタオルで拭き、百合の横髪を耳に掛ける。
露になった耳たぶに、そっと真珠をあてがう。
「そうか、綺麗だぞ?」
ふ、とエドの空色が甘く解ける。
唇が微かに緩んだ柔らかな表情に、百合の顔が一気に赤面する。
小指で百合の頬をするりと撫で、掌に真珠を落とす。
「メシの用意だな。着替えてくる」
と部屋から出て行ってしまった。
パタン、と軽い音を立てて背後で扉が閉まった。
と、同時に百合は自分の掌に顔を埋める。
「か、顔が良い……」
触られた頬が焼けるように熱い。
百合はエドが戻ってくるまでの間に、爆発しそうな心臓の音をどうやって鎮めようかと頭の中で考えていた。




