記憶の香り
「何の匂いだ」
エドが百合の手元をのぞき込み、不思議そうにひくひくと鼻を震わせた。
日もどっぷりと暮れた頃、夕食を終えて思い思いのリラックスの時間に、百合は一人で一階の調合室に籠っていた。
エドは、百合がこの部屋を好きに使うことを許可している。
「実際に手を動かさないと、知識は身につかない」がエドの信条で、百合を育てる上での基本方針である。
その為、棚に几帳面に並べられた高級な材料でも、言えば使わせてくれるのだ。
いつもは薬草の根をミリ単位で均等に切る練習や、明日の調合で使う素材の下処理をしているのだが、今日は違った。
部屋中に爽やかな香りが充満している。
アルコールランプの上に置いてあるのは、ぽこぽこと泡を発生させるガラス製の実験器具だった。
今日の昼間にジェイコブの病院へ魔薬を納品した後、百合は一人で夕飯の買い物をしに西側のテント街をぶらついていた。
冷やかし半分にいろいろなテントを覗きこんでいた所、生活用品が雑多に並べられているガラクタ屋の隅の方に、日本で使っていた実験器具が置かれていた。
「アンタそれが何だかわかるのかい?」
百合がじっと見つめていたからか、太った店主が近寄って話しかけてきた。
付属しているアルコールランプを持ち上げて続ける。
「ここにランプを置くんだから、火をつけて使うってことは解るんだが……買い手がつかなくて参ってるんだ。大きくて場所を取るしな。安くするよ、どうだい?」
「いくら?」
「金貨三枚ってところだな」
「じゃあいいや」
「待て待て待て!」
手荷物を抱えなおし、あっさりと踵を返す百合を店主は慌てて引き留める。
「じゃぁ金貨二枚と銀貨五枚でどうだ」
「出せて金貨一枚と銀貨五枚ってところね。使い方も分からない物の価値が分かるの?」
「金貨二枚と銀貨三枚!」
日本では考えられなかったことだが、露店の商品は食べ物以外は基本的に高く書かれている。値引きをすることを前提で、値段がつけられているのだ。
押し問答すること数分、結局金貨一枚と銀貨九枚まで値引きさせた百合は、思わぬ収穫物に満足顔で家へ戻った。
「精油を作っています。タオルに付けようと思って」
ぽたり、ぽたりと落ちてくる液体を分液ろうとへ受ける。先が細くなったガラス器具の中で、満たす液体の表面にうっすらと油の層が浮いている。実験は成功だ。
そう、露店で売っていたのは水蒸気蒸留装置だったのだ。
百合は働き出してすぐの頃、ストレスでひどい肌荒れに悩まされていた。
皮膚科にも通い、処方された薬を飲んでいたが改善せず、ありとあらゆる手段を試していた。
その時に、もしかしたら化粧水に入っている防腐剤が肌荒れの原因ではないかと考え、自宅でも簡単に作れる手作りの化粧水を試していたのだ。
結局ストレスの原因であるセクハラ上司が、内部告発で左遷されたことによって肌荒れは治ったが、化粧水を作ること自体が面白く、趣味になった。
手作り石けんや入浴剤、ポプリなど趣味の範疇でよく作っていたのだ。
これもその時に使っていた器具だ。
湯を沸かして水蒸気を発生させ、ハーブや花を蒸すように熱し、冷却水の満たされた細いガラス管へ導くと、冷やされて液体になる。
これを放冷すると二層に分かれる。下層の蒸留水がフローラルウォーター、上層の油の層が精油、いわゆるエッセンシャルオイルである。
「なるほど。良く知ってたな」
「香りは女性の生活の中でとても大切ですから」
風呂に入れず体を拭うだけの今、体臭がとても気になる所だ。
なんとしても成功させたかったので、出来上がった液体を満足げに見つめる。
「ミント以外に何を入れた?」
「ローズマリーとラベンダーも入れてみたの。あー良い香り!」
肺に香りを満たすように、大きく吸いこむ。
爽やかな香りは朝の森のようで、今日はこのフローラルウォーターを枕に振りかけようと決める。蒸し暑い中でもよく眠れそうだ。
ふと隣から視線を感じた。
見るとエドが微笑んでいた。
普段は真一文字にきつく閉じられた唇はやわらかく弧を描き、吊り上がっている空色の目が、懐かし気に少し垂れている。
「……俺の母親もこんな香りが好きだった。花瓶に美しく活けられた薔薇は苦手で、野に咲く花を摘んで歩くような人だった」
ぱちり、と百合が目を瞬かせると、その瞬間にいつもの仏頂面に戻っていた。
「え、エドもどう? 枕に振ると良く寝れると思うよ」
「あぁ少し貰えるか」
こくこくと頷く。
俯いて作業に集中するふりをして顔を隠した。
不愛想で仏頂面だが、細い顎や綺麗な鼻筋はすごく整っている。
見たことのないイケメンの笑顔に、百合は顔が赤くなるのを感じていた。
「エドのお母さんってどんな人だったの?」
だが、その言葉を聞いた瞬間、空気が凍った。
「……自殺した。俺は後妻に殺されかけて八年前にここに逃げてきた」
それだけ言ってエドは静かに部屋を去った。
百合は呆然とした表情でその背中を見送る。
ぼこり、と熱された水が耐えきれず大きな音を立てた。




