聖女信仰
翌朝、いつも通りの時間に馬房に行くと、エドが既にファレノプシスの世話を始めていた。
「おはよう、ごめん遅かった?」
「おい、何故来たんだ?」
エドの言葉の意味が解らず首をかしげる。
「ファレノプシスの世話も畑の世話もしなきゃ。礼拝はちゃんと行くよ」
ニールは、鐘九つの少し前に迎えに来ると言っていた。朝のルーティンワークをこなしても、時間に余裕はあるはずだ。
「お前聖女信仰の信徒だよな。安息日に働いてどうする」
結局昨日はきちんと聞けなかったが、安息日というのは日曜日みたいなものだろう。
ここ一ヶ月休むことなどなかったのに、急に言い出したエドに呆れる。
「エドは違うの?」
「俺は無神論者だ。神も聖女もいない」
百合とて信仰する宗教は無い。盆もクリスマスも正月も祝う、典型的な日本人だ。
だがこの世界において、聖女信仰が強いことは知っている。町での様子を見た限りでは、ほとんどの人が聖女を信仰していると感じれた。
それなのに、この世界で生まれ育ったエドは違うという。
「珍しいね、信徒じゃないなんて」
「泣いて縋って祈っても、助けてくれなかった。聖女など、神など居ないと俺は知っている」
言い切った言葉に込められた、何とも言えない湿度に百合は黙る。
悲しみのような、後悔のような負の感情につられて口を開く。
「じゃあ私も教会に行かない方が良い?」
「俺とお前は違う人間だ。行きたいのなら行けば良い」
エドはこれ以上話すことはなかった。
作業に集中してしまったので、百合も寝藁を片付け始めた。
時間ぴったりに表れたニールは、ニールでは無かった。
長い銀髪は、エドのように短く切られた茶髪になっていた。紫の目はこれまた明るい茶色に代わっている。
それだけじゃない。誰もが思わず息を飲む冷たい美貌は、柔らかな笑みを浮かべた嫌みの無い顔になっていた。
このまま町を歩いても誰も振り向かない、有体に言えば特徴のない顔になっていた。
「私の顔はこの国の人達には良く知られていましてね。町に出るには、こうして顔を変える必要があるのですよ」
何と声までも変わっていている。穏やかな話し方はいつも通りだが、何とも信じ難いものだ。
「服装は良いですね」
昨日、ニールは帰る前に服装の指示をしていた。
上も下も色は真っ白で、肌が見えないもの。長袖で、女性は膝下より長いスカート、男性は長ズボンを着用すること。これが礼拝へ向かう者のマナーだそうだ。
百合はニールから与えられたクローゼットの中に、おあつらえ向きのワンピースがあることに気づいた。
長袖で丈はくるぶしまであり、首元はU字だが、いやらしく大きく開いていない。
ウエストにリボンベルトを巻き付けることで、太って見えないように工夫されていた。
素材は麻でさらりと涼しく、今日のように暑い日でも着心地が良い。足元も白い低めのヒールを合わせた。
男性のニールは、コットンの長袖のシャツに、緩いズボンを合わせている。
白色であれば、素材等は関係ないようだ。
「では、向かいますか」
「じゃぁね、エド」
ニールは百合の手を取り、自分の腕を掴ませた。
「思い出の場所へ、私のふるさとへ――移動せよ」
木の床に茶色いドアが浮かび上がる。そのドアノブをニールはためらいもなく回した。
「ちょっと待ってこれって!」
直後、強い力で百合も扉の中に引きずり込まれる。
リビングには百合の悲鳴と、ソファーに座り本を読むエドだけが残された。
「おうぇえ、って高い!!!」
ビュウウ! と強い風に煽られて、固くつぶっていた目を開く。
その眼下にはアブ・フレイラ村の街並みが見えた。
だが人はペンよりも小さく、建物の屋根は自分の足元のはるか下だ。空の近さに、自分が今高い場所に立っていることを理解した。
と同時に本能的な恐怖が身体を駆け上がる。空間魔法の気持ち悪さなど、一瞬で吹き飛んでしまった。
「怖い怖い怖い!」
長いスカートを、強い風が巻き上げる。
何かにしがみつきたいが、屋根を支えるレンガの柱ぐらいしか見当たらない。それに掴まるには、もっと建物の端に寄ることになる。
そろりとつま先を伸ばしてしまうが、こんなに風が強ければどうしても落ちる姿を想像してしまう。無理だ、怖すぎる。
慌ててニールの腕をきつく握った。
「おや、熊手に乗って逃げるぐらいですから、高いところは平気だと思っていました」
いけしゃぁしゃぁと笑うニールを睨みつける。
その背後には巨大な鐘があった。
「鐘……そうか、教会にあったのね」
町中にその音を響き渡らせる鐘は、百合がすっぽりと隠れる程大きく、年季が入っていた。
「そろそろ礼拝が始まりますよ」
ニールが開いた地上へ向かう扉の向こうには、石の階段があった。
急な上に長い螺旋階段をぐるぐる回らされると、忘れていた酔いがぶり返しそうだ。
ざらざらとした質感の壁に手を付きながら、無心で下る。
階段塔を下りきり建物の正面に回ると、今度こそ教会の姿が見えた。ぞろぞろと歩く白い服装の人間達に紛れて椅子に座り、礼拝の開始を待った。
大きな教会であった。
レンガ造りの教会だが、中は木の温かみであふれていた。茶色の床で、それよりも濃いこげ茶色の長椅子が沢山並べられていた。
薔薇窓には素朴な色合いのステンドグラスがあり、夏の朝の強い日差しを取り込んでいた。
壇上の奥には、聖女像がある。
王宮のものほど大きくも豪奢でもないが、同じように大理石でできている。花を抱えた聖女は優しく笑みを浮かべていた。
やがて鐘が九つ鳴り、真っ白で裾の長いカソックのような服を着た男が壇上に登った。
髪は白く顔には皺があるのに、ピンと伸びた背筋が彼を老人と呼ばせない雰囲気がある。
シン、と静まり返った教会に神父の声が響く。
教えを説くのにふさわしく、説得力のある声だった。沢山の人々が目を閉じて、縋るように神父の声に聞き入っている。
ちらりと隣のニールを見ると、そこまで熱心ではなさそうだった。静かに聞いているが、どこか聞き流しているようにも見える。
話に聞き入っているとあっという間に礼拝は終わった。
帰宅する人の流れに乗って退出しようと思った時だった。
「もし、そこのお嬢さん」
声を掛けられたのは自分の事だと気づき、思わず振り返る。
「何か悩んでいるようだ。懺悔室へどうぞ」
微笑みを浮かべた彼は、有無を言わさず迫力で百合を引き留める。
戸惑う百合を訝し気に見ていた人たちも「大丈夫ですよ」と神父が声を掛ければ、一人一人と居なくな った。やがて広い教会に立っているのは三人だけになった。
「彼女は良いのです」
神父にそう告げたニールは、杖で自分の身体を叩き、変身を解いた。背中に流れる銀髪が、ステンドグラスの色に染まった。
ニールの本当の姿を見ても、表情に変化は無かった。二人は顔見知りのようだ。
「彼女からは魔力を感じます。何者ですかな?」
「聖女だ」
神父が目を見開く。ぽかんと口も開けたまま、もう一度聞き直す。
「今何とおっしゃりましたか?」
「彼女が聖女だ。夏の初めに彼女は聖女召喚の儀にて呼び出された」
「何と……」
二の句が継げぬようだった。呆然とした表情で百合を見つめた後、胸に手を当てて膝をついた。
「王都で話題になっておりました。アブ・フレイラ村に来ていたとは……。
生きている内にお目にかかれるとは思ってもいませんでした。聖女様」
見上げたその目に今にも零れそうな涙が浮かんでいることに百合は困ってしまった。
祭られ崇められても、百合が何かをした訳ではない。
こんな――崇拝の目で見られていても反応に困る。
「聖女様自ら教えの場に来て下さるなんて……。聖女様、見ての通り魔力を持たない哀れな崇拝者は、こうして祈りを捧げています。滅びゆく我が国をお救い下さい」
「そんな事言われても……」
「貴女の血は、それが出来るはずなのです。お願いいたします」
床に額が付きそうな程、体を丸めて首を垂れる。
その小さな体をしばらく見つめ、百合は思ったことを口に出す。
「一つ質問なんですが」
神父と顔を合わせるために床に膝をつく。
「貴方は聖女に何を望みますか? オストラを魔法使いにする事ですか? それとも魔法使いの魔力を奪うことですか?」




