魔薬調合師として一番大切なこと
鐘が八回鳴ったら、の意味はすぐに解った。
この家には時計が無い。その代わりに町の中心にある鐘で時間を管理していた。
八回という数字とこの日の高さから見て、だいたいたい朝八時ごろを指しているのだろう。
二人は一階の研究室の大きな机の前に並んで立っていた。
「作ってもらうのは傷薬だ。塗り薬で、主に切り傷の治療に使われる。血が止まった患部に塗ると皮膚が再生し、たちまちに治る。昨日お前が使った薬だ」
百合は昨日エドに塗ってもらった薬を思い出す。
濃い緑色で粘度が高く、鼻につくような刺激臭があった。
「俺がこの薬を初めて作ったのは十歳、この本を読んで作った。十歳の子供に出来ることなら、お前にも出来るだろう」
差し出されたのは一冊の分厚い教本だった。
黒革の表紙に『疾患を治す百の魔薬』と箔押しされている。端は少しほつれていて、開き癖がついている。よく使い込んでいるのが一目でわかった。
パラパラと捲ると羊皮紙で綴られていた。高級そうな本だ。
指定されたページを開くと『切り傷――消毒、皮膚再生』と書かれていた。
「材料は全てここにある。時間は半鐘以内。初め」
エドは机の上にあった砂時計をクルリとひっくり返した。
「そんな、教えて貰っても無いのに出来るワケ無い!」と言い返したかったが、仰ぎ見たエドの顔があまりにも冷たく怖かったので、口を噤んだ。
仕方なく百合は本を読む。
「えーっと浦黄の粉3掬いをすりこぎで細かく擦り、更に揉んだ実葛を加えしばらく擦り合わせる。豚油は、鍋に入れ青い火で弱く煮る。火から下ろして、冷めない内に粉を入れ左回りに三十回なぞる。その後、働き蟻の足六本を蜘蛛の糸で纏めたものを入れ、しばらく置き上澄みを取る。……はぁ?」
素直な感想が口から出た。書いてあることが何一つわからない。
「ちょっと待って、こんなの出来ない」
「自分は出来ないくせに、誰だって作れると言ったのか?」
「そういう馬鹿にした意味じゃなくて……簡単にできるんじゃないか、って思っただけで……」
「作り方は書いてあるだろう?」
百合の発言にエドは相当気分が悪かったらしい。言葉に棘がある。
「魔法の使えない出来損ないのオストラでも作れるものは、簡単だと思ったか?」
ハッ、と百合は息を飲む。
先ほど自分は何を考えていた。魔法を使えば簡単に出来ると思っていた。
自分は魔女で聖女なのだから、簡単に出来ると。
「病院で言ったよな、魔薬は言い方を変えれば劇薬だって。
作り方を間違ったものを患者に渡したらどうなると思う?
薬は使い方によっては人間を殺すんだよ。人の命を軽く扱う奴が作るな」
薬は使い方を誤れば毒になる。当たり前の常識を、思いつかなかった。
自分が手順を間違えれば、人の命を奪うかもしれない。そんな覚悟を持っていなかった。
魔女だ聖女だと煽てられて、調子に乗っていた。
エドが助けてくれなければ死んでいたくせに、優しい人に頼ってばかりのくせに、だ。
黙り込んでしまった百合に、追い打ちの言葉が飛ぶ。
「お前薬師向いてないよ」
百合は俯いた。
机の上にある本には、沢山の書き込みがされている。教本を塗りつぶして上から文字を書いて、空いた所は少しも無いぐらいだ。
これは「命を救うこと」を学び続けたエドの、努力の結晶なのだ。
「……何も分かってないのにふざけたことを言いました。ごめんなさい」
震える唇で頭を下げた。
しばらく沈黙が流れた。
奥歯を噛みしめる百合の顔を見て、反省したと判断したエドは大きくため息をつく。
「魔薬の調合は繊細だ。少しの失敗が致命傷になる。ミスをするな、気を抜くな。
人の命を預かっているということを、絶対に忘れるな」
「はい」
エドの言葉を胸に刻む。
どれだけ時間がかかるかは分からない。
でも、誰かの痛み、苦しみを、辛さを救えるような、完璧なものを作ろう。
病に真摯に立ち向かっている、魔薬調合師エドの弟子として。
「俺が作るから隣で見てろ」
「はい」
ノートと紙を手に持ち、百合はエドの手つきを見逃さないよう注視した。
結論から言おう。魔薬の調合は驚くほど難しかった。
一番簡単な、と言っていた傷薬さえ、信じられないほど細かな作業だった。
文章で書けばわずか三行ほどの工程だが、どれもこれも注釈が必要なぐらい厳密な作業だった。楽天家で大雑把な百合には、はっきり言って向いていない。
だがエドの説明は丁寧だった。
素人にもわかりやすい様に、毎回手を止めてしっかりと説明してくれた。
「初めから出来るとは思っていない。今日は雰囲気だけ見ておけ」
なら初めからやらせるなよ……と思い切り顔に書いてあった百合に「お前があまりにも舐めた態度を取るからだ」と言い放った。
出来上がった薬をガラス瓶へ移しながら、百合は再び「本当にすいませんでした」と頭を下げた。




