第11話「こんなときどういう顔をすればいいでしょう?」
展望室の回廊をぐるりと巡ったあと、俺たちは窓際のスツールに並んで座った。
俺は遠くに見える小倉山のジャンプ台ばかり見ている。視点を固定しておかないと、ますます気分が悪くなるからだ。
「きれいだね……」
右耳に羽菜さんのささやくような声が聞こえた。それでも俺はジャンプ台から目が離せない。
羽菜さんが身を寄せてくる気配がした。ふとももに乗せていた俺の手の下に、するりと彼女の手が潜りこんでくる。
細くてしなやかで、そして少しひんやりとした羽菜さんの手。
――うあっ……!
くすぐったくて背筋がぞくぞくとする。
「羽菜さん、あの……」
「きれいな夜景を見て、手を握る……。『恋人』ならべつにおかしくないよね……?」
横目で見た彼女の顔は、なんだか熱に浮かされたようにうっとりとしていて、目が潤んで夜景みたいにきらきらしていて、すごく艶やかだった。
ふだんの俺ならクラクラ来て、ぼうっと見つめてしまうところだ。しかしいまの俺にはそうできない事情があった。
――手を握られるのはまずい……!
「ふふ、駿太くん。さっきからすごく緊張してるよね?」
小悪魔のような笑みを浮かべる。
「手、すごく汗をかいてる……。顔には出ないけど、手には出るんだね」
――もうダメだ……!
ごまかしきれないと悟った俺は打ち明けた。
「すいません! 俺、高所恐怖症みたいです!」「お姉さんにドキドキしちゃっ――」
言葉が重なった。
「え?」
「ん?」
顔を見合わせる。
「高所……恐怖症?」
「みたいです」
「……え、ええ!? というか『みたいです』ってなに!?」
「俺も知らなかったんです。地元には三階以上の建物がないし……」
「田舎とは聞いてたけど、想像を絶するね……」
最初は三日目のカレーのせいかと考えたが、エレベーターを降りて窓ガラスの向こうに夜景が見えた瞬間、そうだとわかった。
「てっきり、緊張して口数が減ってるのかと思ったよ……」
『照れたところを見てみたい』と言っていた羽菜さんは、俺が緊張している(実際は具合が悪かっただけなんだけど)のを見て「してやったり」と思ったのだろう。どんどん上機嫌になっていったのはそういうことらしい。
「降りよう」
羽菜さんが立ちあがり、俺の手を引いた。
「すいません。せっかく来たのに……」
「なんもだよ。それより、どうして言わなかったの? 高所恐怖症はべつに恥ずかしいことじゃないよ?」
「そういうわけじゃなくて」
「じゃあなに?」
心配をかけた羽菜さんに、これ以上の隠しごとはできない。
「今日のデート、すごく楽しみにしていたので。中止になったら嫌だなって……」
その瞬間、羽菜さんは驚いたように俺の顔を見て、そのあと口を手で覆い隠し、うつむいてしまった。頬がほんのり赤くなっている。
ぼそぼそとつぶやく。
「わたしがドキドキしてどうするの……」
「え?」
「な、なんでもないっ」
羽菜さんはぴっと俺を指さした。
「ともかく! もう我慢しないで、つらかったらちゃんと言うこと。いい?」
「わかりました」
俺は思わず背筋を伸ばした。
「そんなことされても、わたしは全然うれしくないんだからね」
年上のお姉さんに軽く叱られ、どういうわけかにやつきそうになってしまった。俺はソフトMなのかもしれない。
「じゃあ、トイレに行ってきます」
「『じゃあ』って?」
「いや、我慢せずに言えと」
「そういうことじゃないんだけど……。行ってらっしゃい」
『まったくもう』とでも言いたげに苦笑する羽菜さん。俺は照れ笑いを返した。
そしてトイレに足を踏みいれた――その瞬間。
――……!?
目の前に広がった予想外の光景に、俺の身体は固まった。
「あ、あ……」
俺はじりじりと後ずさり、羽菜さんのもとへもどる。
あまりに早くもどってきた俺に、羽菜さんは怪訝な顔をした。
「なに? どうしたの?」
「あの……」
我慢はいけない。そう言われたから、俺はありのままを伝えた。
「トイレの壁が一面ガラスで、あまりの驚きに出るものが出なかったんですが……。こんなときどういう顔をすればいいでしょう?」
「ぶふぅ!」
羽菜さんは盛大に吹きだした。崩れ落ちるようにしゃがみこみ、肩をひくひくと痙攣させている。
「は、あ、あははは……! は、はあ、はあ……!」
堪えきれずに笑い声が漏れる。涙まで出てきたのか、指先で目元を拭った。
「お腹痛い……」
ひとしきり笑い、ようやく落ち着いた羽菜さんは言った。
「駿太くんって面白いね」
俺の話なんて聞いても面白くない。そう思っていたけど、ありのまま思ったことを口にしただけで、羽菜さんはこんなにも笑ってくれた。
いままで俺は身構えすぎていたのかもしれない。それを羽菜さんは教えてくれた。
地上にもどると体調不良はすっかり消え失せた。律儀なもので、そのとたんお腹がぐうと鳴る。
羽菜さんは「ぷっ」と吹きだした。
「そこのベーグルのお店に入ろうか?」
「あー……。すいません、できたら牛丼とかでもいいですか?」
「ベーグル嫌い?」
「いえ、食べたことないです」
「?」
「いえ、あの、さっきスムージーを飲んだじゃないですか」
「うん」
「そこへさらにベーグルなんて、田舎者の俺はこれ以上、都会的なお洒落を受けとめきれません」
「ぷふっ」
また吹きだす。
「なんか駿太くん、急に饒舌になったね」
自分でもちょっとテンションが高くなっているのを感じる。羽菜さんが笑ってくれるから、それが嬉しくて。
お店に向かう途中、俺は尋ねた。
「そういえばさっき言いかけてましたけど」
「なんだっけ?」
「『お姉さんにドキドキしちゃっ』とかなんとか。あれって――」
羽菜さんは前に回りこみ、俺の口元に人差し指を立てて睨めつける。でも恥ずかしそうに頬を赤らめているので全然迫力がない。
「それは言わなくていいの」
言わないほうがいいこともあるらしい。
――難しいな……。
そのあたりの綾は、羽菜さんとの恋愛シミュレーションで追い追い学んでいけたらと思う。




