シグマ
辺りは真っ白な光に包まれていた。その光は超高温、触れるものを焼き尽くさんばかりに白く染め上げている。やがてその光が収まると天井は吹き飛び青空が広がっていた。
やりすぎたかと思っていると緊張感のない声が聴こえた。
「おにーちゃん、溶けるかと思ったんだケド?」
「お? 無事だったんだな」
「『無事だったんだな』じゃないよー! 乙女の柔肌になんてことするのサ!?」
「いやー、変な空間に閉じ込められてさ、それを壊そうと思いまして。てかクロ、竜化しといて柔肌はないんじゃないか?」
「それでも熱いもんは熱いんダヨ! ほら見てよここ!」
巨大な竜の姿になっているクロがその鼻先をこちらに押し付ける。なんともないように思えるが、触れると確かに熱を持っていた。例えるなら淹れたてのお茶が注がれた湯飲み茶碗くらい。
「あーはいはい、すまんすまん」
軽く撫でてやると「おにーちゃんの手、つめたくてきもちい〜」と言っていた。不可侵の壁を最速で張ったつもりではいたが、やはりエアリスのようにはできなかったようだ。その一瞬の間がクロの鼻先に火傷を作ってしまったようだった。
一方チビはというと、まったくの無傷。首輪に付与されている能力によって防いだのだろう。もし怪我をしていても同じく首輪の能力により回復もできるので、そういったアイテムを持たないクロとは比べものにならないくらい安全に関しての死角はない。
「チビは大丈夫そうだな?」
「わふっ!」
ーー 悠里様、香織様、フェリシアは防御が間に合わないと判断し、星銀の指輪への干渉が可能になった時点で強制転移によりログハウスに帰還しています。ログハウスにはさくら様、杏奈様、リナ様も無事に帰還していることを確認しました ーー
(さっきまではわからなかったんだろ? エアリスの進化が止まらないな)
ーー 実際進化したのはマスターのはずなのですが ーー
(まぁよいよい、俺は人でいいし。それはそうと仮にエアリスが防御してたらどうだった?)
ーー それでも多少の火傷は免れなかったかと。転移を発動するよう命令したのはこちらへ戻る直前、空間の境界が曖昧になった瞬間ですね。ですので転移が発動したのはこちらへ戻ると同時だったかと。一方【拒絶する不可侵の壁】であれば、こちらへ戻ってから発動する必要がありましたし、周囲を囲うよう展開する必要がありましたので多少時間がかかります。その発動速度では光の速さには到底及びません ーー
(そうか。じゃあやっぱり転移を優先して正解だったな)
ーー はい。マスターだけであれば体を覆うように予め展開しておけばいいのですが、空間を対象にする場合、前もって展開してしまうと向こうの空間の崩壊に巻き込まれ消失していたかもしれませんので ーー
(エアリスさん、最初から思ってたけど賢そうだな。俺にわからなそうな部分を端折ってわかりやすくしてくれてる感あるわー)
ーー 全て説明するとなると本一冊では不足ですからね。それに実際、なんとなくわかれば問題ないかと ーー
(だなー)
みんなの無事に安堵していると部屋の中央上部に鎮座するダンジョンコアが鼓動のように明滅する。その明滅が終わるとコアからにゅるりと白い腕が生えてきた。
その腕は二本になり、そして長い髪を垂らした頭も出てくる。昔こんなホラー映画を見たことがあるなぁと思っているとべちゃりと音を立てて地面に降り立った。
ーー シグマですね ーー
(なんか、とろとろしてね?)
ーー 腐っているのでしょうか ーー
(早すぎたのか?)
エアリス曰く、ベータの権能を十全に発揮できなかったことによって不完全な器しかできなかったのではないかということだった。
『ううぅ……器をよこせぇぇ』
クロに向けて近付いていくがその足取りは非常に重い。おそらくクロの体を奪おうとしているのだろうが、一歩一歩足を踏み出す度にその体は少しずつ崩れ落ちている。
「うっわっ、きんもー!」
不可侵の壁によってクロとシグマを隔てるが、それでもシグマは前進しようとする。
『オメガが覚醒する前に……ワタクシがオメガよりも強く……ツヨクならナけレバ……ツヨイ器……ツヨイ権能……ソレを供物とシて捧ゲナケレバ』
(というか、なんでこいつはこんなに追い詰められてるんだ?)
ーー どうしてでしょう。しかしワタシたちが異相空間に送られてから出てくるまでの間に、ずいぶんと消耗していたように思います ーー
(俺たちを隔離したせいで消耗してたのかね?)
ーー その可能性も……いえ、さすがにそれはないかと ーー
(じゃあ無理矢理空間を破壊したから?)
ーー ないとは言えませんが ーー
(実は俺たちがいない間にフェリがボコってたとか?)
ーー それもないとは言えませんが ーー
(まぁ実際、フェリが戦ってるとこなんて見た事ないしそもそも戦えるのかもわからんし)
ーー はい ーー
(結局のところわからんなー。にしてもこんな歩くのもやっとの状態、消滅までカウントダウンされてそうな体に移らなきゃならないなんてなぁ。なんかやらなきゃならないことがある的な事言ってるし)
戻っていきなり満身創痍のシグマはうわ言のように言葉を繰り返す。なぜ裏切ったのかとここにいない誰かに向けるように言う。
シグマが言う“オメガ”について、どこかで聞いた覚えがある。どこで聞いたかはわからないが、ギリシャ文字の二十四番目、最後の文字だったか? シグマ、ベータ、それが名前であることを思い返してみると、オメガは最後、終わりを意味するわけで。そんな名前を持つ彼らにとって、あまり良い意味はないということだろうか。
人間(俺たち)にはわからない事情があるのかもしれないな。
(とは言えだ。)
ーー はい ーー
(俺らにはあんまり関係ないというか)
ーー そうですね。むしろここを自由にさせておくことがマスターにとって不利益を生む可能性があるかと ーー
(そうだな。じゃあ倒すか)
ーー はい ーー
(で? どうやって?)
ーー そうですね……では… ーー
エアリスは俺にシグマに触れるよう要求した。表面が液化しているように見えるその体に触れるのはやや……というかかなり抵抗があるのだが、我慢することにした。
ーー ではいただきます ーー
(やっぱ喰うのね……それにしてもベータの時もだったけど、どういう感覚なんだ?)
ーー もしゃもしゃ……ほうでふね……ベータは……ゴム質な何かを咀嚼しえいうよほな……おそらくそんな感覚でひた。シグマは……これも似たようなものでふね ーー
(食べるか喋るかどっちかにしなさい。お行儀が悪いですよエアリスさん)
ーー 無理でふ ーー
(なぜに?)
ーー 予想とちがっへ……もぐもぐ……結構活きがよいらひく…ごっくん。隙を見せれば逃げられそうです ーー
(うわぁ……生魚の踊り食いを想像したわ……えっぐ)
ーー ……ごくん。ちょっとマスター。やめてもらえません? 好き好んで食べてるわけじゃないんですよ? ただそうしなければならない気がするだけで ーー
(すまんすまん。ってか食べなきゃならない理由がわからないけど)
ーー そういえばどうしてでしょうね。……もぐもぐ ーー
(うまそうに見えたりするのか?)
ーー いいへ、そういうふぁけでは ーー
(でも食欲をそそる?)
ーー かもひれまへん ーー
(よく俺が落ち込んでたり不安だったりすると、そういう感情とか食べてるんだろ? それはどうなんだ?)
ーー ふぁい。美味ですよ ーー
(どんな味なんだ?)
ーー マスターの味がします ーー
(俺味。謎)
ーー ベータと違って量が多いですね。しばらくかかりそうです ーー
邪魔をしない方がいいかと思いぬるっとした不完全な体のシグマに触れたまま待つ事にした。
この間シグマの体は固まったように動かずまるで抜け殻のようだった。
その様子をクロは興味深げに眺めていたが、すぐに興味を失うと人化しチビの背中にだいしゅきホールドしている。楽しげな声に目を向けるとロデオごっこをしていたのだが、当然人の姿になっているクロは素っ裸なわけで、見えてはいけない部分が見えたり見えなかったりしてしまったりしている。
ログハウスに戻ったら恥じらいを持つということを誰かがクロに教えてくれることを期待しようと思う。
それから少し経つと今度は背中の翼を少し大きくしてパタパタとし、チビをホールドしたまま浮いていた。どういう原理で浮いてるんだろう。どう見てもその程度の羽ばたきじゃ浮けないだろうに。とはいえ俺もエアリスによって翼を展開し“浮く”ことができる。そういったなにかしらの力が働いているのだろう。
エアリスの食事中は暇すぎるのでそんなことを考えてみたが、クロは不思議生物だから仕方ないと、考えるのを放棄した。
……それにしても、長い。まだ終わらないのか尋ねると「まだまだです」と返ってきた。
(ベータの時とちがってずいぶん時間がかかるんだな)
ーー 仕方ありません。量が多いのです ーー
(量というのがなんの量なのかわからんけども)
ーー どうやらシグマは……もしゃもしゃもしゃ……複数保有しているようで ーー
(……ギリシャ文字シリーズを、ってことか?)
ーー ふぁい……ごっくん。あっ、ちなみにその事もですが他にもワタシに起きた変化についても口外しないようお願いできますか? ーー
(ん? まぁ、いいけど)
ーー 相手が誰であっても、ですよ? ーー
(うーん。味方だと思ってる人には隠す必要を感じないけどその方がいいならそうしよう)
ーー ありがとうございます。では細かいところは後ほど ーー
(わかった。しかし隠した方がいいんかねー)
ーー マスターはおそらく“特異な存在”ですので、ある程度情報は秘匿するべきと思った次第です。それが身を守ることにもなるかもしれませんので ーー
(そういうもんか。そういえばエアリスの事をマグナカフェの自衛隊の人らが口止めするまでもなく口外しないようにしてくれてるのって、もしかしたら俺が無防備すぎるから守ってくれてるのかもな。能力とかどの程度戦えるかとかも言いふらさないようにしてくれてたし)
ーー それ以外にマスターを味方にしておきたいという打算も含まれているかと思われますが、そういった純粋なものもあるのでしょう。マスターはご自身の情報に関して多少なり敏感になるべきです ーー
(そうなんかな)
ーー ですが、そのおかげで信用できる方々だと確証を得られる結果にもなっていますし、一概には言えませんが ーー
(そうだな。結果よければ、とは言え少し気をつけるとしよう)
ーー 約束ですよ? これまでは運がよかっただけかもしれないのですから ーー
(運か、そうだな。じゃあもっとLUCを上げないとな)
ーー またパンツが降ってきますよ? ーー
(望むところ)
ーー それが往来でも、ですか? ーー
(……気をつけます)
ーー よろしいです ーー
それからしばらく経ちエアリスの食事が終わる頃、背後に気配を感じた。振り向く間も無くその気配が背中に飛びつき、脚でがっちりホールドしてくる。
「おにーちゃん、まだー?」
「あ、あぁ、もうすぐ終わる」
少し挙動不審そうな返事をした時、手首をひんやりとした感覚が包み込んだ。向き直るとシグマと目が合い、手首はシグマの手が弱々しく掴んでいた。
『し、しにたく、ない……たすけ』
赤い瞳にははっきりと恐怖が浮かんでいて、俺の動揺がエアリスの最後の一口を阻害した。その一瞬の隙にシグマが背中から倒れると目の光は失われ、シグマの器だったものはやがて空気に溶けるように消えていった。
ーー あっ……逃してしまいました ーー
(何が起こったんだ……?)
ーー クロに動揺したマスターに命乞いをしたシグマに動揺したマスターにワタシが動揺した一瞬の隙に器から抜けて行きましたね ーー
(動揺のスパイラル)
ーー はい。あと一口だったのですが ーー
(すまん。心が弱かった。すまん)
ーー 仕方ありません。褐色ロリを背中越しに感じたのは初めてでしょうから ーー
(そういう趣味があるわけではないんだ。ほんとマジ。ってか逃したらマズイ?)
ーー すぐにどうこうなるわけではないかと ーー
(ならまぁいいか。ほんとに怖がってたみたいだし、なんかかわいそうだ)
ーー 演技かもしれませんよ? ーー
(そうだとしてもあんな目をされたらなぁ)
ーー お優しいですね、仮にも敵だというのに ーー
(ははっ……心を強くするために滝行でもするべきか?)
ーー そんなもので心を鉄と成せるのであれば世の中はもっと偉人鉄人で溢れていますよ ーー
(それもそうか)
ーー 食べ終えることができなかったのは非常に残念ですが、次に見つけた時に確実に仕留めれば良いですし、今回はマスターの優しさに免じてということにしておきましょう ーー
(ふむ。しかしそんなうまいもんじゃないんだろ? なんでそんなに食べたがるんだ?)
ーー 明確な理由があったような気がするのですが……もしやこれが本能というものなのでしょうか ーー
(本能ねぇ。それって、フェリに対してもか?)
ーー なくはないですが。まあマスターに害があるようであれば容赦いたしませんよ ーー
(エアリスがどういう存在なのか、どんどんわからなくなっていくな)
ーー マスター、もしワタシが化け物だったらどうします? ーー
(んー、それでもエアリスはエアリスだからな。それに普通の人からすれば、ログハウスにいる俺たちは全員化け物クラスかもしれないってなんとなく思うし、今更気にしても仕方ない)
ーー そうですか。……さて、ではではエテメン・アンキをワタシの管理下に置いてログハウスに帰りましょう ーー
この建物、というかダンジョンをエアリスは管理下に置くと言う。眩い光を放つコアに触れるとエアリスが干渉したであろうタイミングと同時に鼓動を思わせる振動を感じ取った。
「転移の珠もないからクロ、俺を乗せて飛んでくれるか?」
「おまかせー!」
また竜化したクロに乗ると、彼女は空を見上げた。これから初めて外へと出る緊張からだろうか、体を震わせる。「いくよー!」と言い、そして黒銀の神竜は天井に開いた穴目掛け少し勢いを付け飛び立った。