表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝焼色の悪魔-第2部-  作者: 黒木 燐
第5章 告知
31/39

1.碧珠善心教会

 20XX年6月16日(日)


 由利子は床についたまま、まんじりとも出来ずにいた。

 今日は久しぶりに早めに寝たはずだった。ここ数日色々ありすぎて、特に二晩立て続けに起きた事件で寝不足、眠りたいのは山々だった。ギルフォードたちからも早く寝るように釘を刺されていた。にもかかわらず、床についてから一睡も出来ない。今日……正確には昨日だが……、多美山の死によって、この疫病の恐ろしさを目の当たりにし、その光景が脳裏から消えず、目を閉じるのも辛い状態に陥っていた。時に死に顔すら鮮明に記憶する……、人の顔を忘れないという彼女の能力は、時にこういう場合厄介なのである。漠然とした恐怖を感じ灯りを消すことが出来ず、目を閉じれば多美山が死んだことの悲しみと、その死に様の恐怖が交互に襲ってくる。

(いかん、このままじゃ一睡も出来ない)

 由利子は、むっくりと起き上がると、ベッドサイドのティッシュケースに手を伸ばし、涙を拭いてから鼻をかんだ。涙と鼻水で溺れそうになっていたが、これで少しスッキリして、改めて横になった。気分が変わったところで頭の中も切り替え、由利子はセンターから出てからのことを思い出すことにした。


 マンションの部屋の前までは、葛西が送り届けてくれた。気を利かせたジュリアスが、二人で行くように勧めたのである。

「でゃ~じょ~ぶ、おれらは車の中でえー子で待っとるでよ。じゃあ、由利子、またな」

 ジュリアスは、助手席の窓から人好きのする笑顔で手を振りながら言った。由利子も笑顔で答えた。

「ええ、今日はありがとう。お疲れ様。……そうそう、待ってる間、ちゃんと人目をはばかってね」

「あははは……」

 ジュリアスが笑って誤魔化した。横でギルフォードがバツの悪そうな顔をしている。しかし、いまいち意味のわかっていない葛西は曖昧な笑顔を浮かべ、

「じゃ、由利子さん、行きましょう」

 と、マンションに向かって歩き出した。

 道すがら、葛西がボソリと言った。

「僕、こんなに辛いとは正直思いませんでした……」

 由利子はそっと彼の方を見た。

「アレクの様子から、覚悟はしていたつもりなんです。でも、いざとなったら認めたくなくて……。そしたら、今度は何かしていないと居られなくなって……、結果、みんなに迷惑をかけたんだって思うと、恥ずかしいです」

 由利子は出来るだけ優しい声で言った。

「気にしなさんな。大好きな人の死を目前にして、冷静でいられるヤツなんかそうそういやしないよ。それにちゃんと収穫があったやろ?」

「そう言ってもらえると、少しは気が楽です」

 葛西は悲しい目をして笑った。

「僕、小さい時に父を亡くしましたが、小さすぎて死と言うものの悲しさは感じてなかったと思います。父不在の寂しさはありましたけどね。祖父母は双方ともまだ全然元気だし、それに、動物も飼ったことがなかったので、実際に身近に死を経験したのは……、初めてで……。ホントに多美さん、居なくなっちゃったんですね。もう会えないですよね……。死に顔も見たのに、あんなに泣いたのに、今は全然ピンと来ないんですよ。明日センターに行ったら、まだあの病室に多美さんが居るような……・。なのに、胸のどこかにぽっかり穴が開いたようで、とても悲しくて寂しくて……、寒いんです」

 そういうと、葛西は深いため息をついた。由利子は2・3歩早めに歩くと立ち止まって葛西の前に立ち、ちょっとだけ微笑んで言った。

「大好きな人が亡くなったんやから心に穴が空いたって当然やろ? でもね、いつかその穴にはその人とのいろんな思い出が、ギュウって詰まって埋まっていくんだよ」

「心に空いた穴を思い出が埋める……?」

「そう、どんどん埋まっていくよ。そりゃあ、思いだした時に悲しくて寂しいのは一緒だろうけど、身を切るような寒さは、いつかなくなると思うよ」

「そうでしょうか……」

「そうだよ。多美山さんは亡くなったけど、葛西君の思い出の中ではずっと一緒に生きてるんだ。葛西君が生きている限りず~~~~っと」

「ずっと……」

「少しの間しかお会いできなかったけど、私も多美山さんのことはずっと忘れないよ。アレクだってそうだと思う。祐一君たちもセンターのスタッフの人たちも。でも、思い出の数は葛西君がダントツだよね」

「思い出……。沢山あります、たくさん……」

 葛西はそうつぶやくと、また両目に涙がうっすらと浮かんできた。

「どした? また泣きそう?」

「いえ、大丈夫です。それに、今思い出した分で、すこし穴が埋まったような気がします」

 葛西は涙目のまま笑いながら言った。由利子はニッと笑い、胸をドンと叩いて言った。

「泣きたくなったらいつでもこの胸を貸すよ。大胸筋でよかったら」

「頼もしい……っていうか、根に持つなあ……」

 葛西は少し困ったように笑うと、ハンカチを取り出し眼鏡を外して涙を拭いた。次いで、涙で曇った眼鏡を拭きながら言った。

「不便だなあ。またコンタクトに戻そうかな」

「だめ! 葛西君はメガネの方がいい!」

「え?」

 葛西が嬉しそうに聞き返した。

「いやその……、まあ、いいじゃん。さっ、こんなトコで沈没してないで、早く帰ろっと」

 由利子は若干顔が赤くなるのを誤魔化して、さっさと歩き始めた。


「やだな。私って眼鏡萌えだったのかな? そういえば、アレクもワイルドヴァージョンより教授眼鏡ヴァージョンのほうが好きかも……って、うひゃあ~」

由利子は意外な自分を発見して、なんだか恥ずかしくなって布団にもぐった。今まで横で寝ていたにゃにゃ子がそれを見て身体を大儀そうに起こし、のそのそと布団の山を登ると香箱を組んで寝た。その後にはるさめが負けじと続いて乗ってきた。

「だぁぁぁあああ~、重い! さらに暑~い!!」

由利子は布団を跳ね除けて起きた。二匹の猫は足元の方に転げ落ちてひっくり返ったまま、ニャアと文句を言った。

「おまえらは、いいよなあ……」

由利子は二匹を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。あまりにも強く抱きしめたために、猫たちは苦しくなったのか、じたばた暴れた。それに構わず、由利子は彼女らを抱きしめたままうつむいてじっとしていた。生き物の暖かさが伝わったせいで、収まっていた涙が復活したようだった。二・三度嗚咽をもらすと、とうとう由利子は猫を抱いたまま声を上げて泣き出した。

 泣きつかれていつの間にか寝てしまったのだろう。はっと気が付くと既に夜が明けており、外では小鳥たちが鳴いている。由利子は身を起こすとぼうっとした表情で周囲を見た。猫たちはすでに布団の端に移動しており、暑いからか2匹とも仲良く上向け、いわゆるヘソ天で緩み切って寝ている。

由利子は目覚ましに顔を洗おうと洗面所に行った。鏡に映るバサバサの髪と泣いたために腫れた目をした自分を見てため息をつきつぶやいた。

「うわ、みっともねぇ。こんなじゃ多美山さんに呆れられてしまうな」

 由利子は両頬を叩いて気合を入れると、蛇口をひねって手で水をバシャバシャと顔に浴びせた。

 


 ギルフォードは連日の事件のせいで滞っていた仕事を片付けるために、早めに研究室に入っていた。ジュリアスが別件で出かけるので、一緒にマンションを出たということもある。

 しばらくすると、紗弥がやってきた。ギルフォードは少し驚いて言った。

「サヤさん、来たんですか。今日は日曜だからゆっくり休んでいればいいのに。今日は僕以外誰も来ないですし」

「いえ、そうはいきませんわ。それに、教授一人だといつ脱線するかわかりませんもの。……一人って、あら? そういえばジュリアスは?」

「ジュンと一緒に昆虫採集ですよ。例の川で」

「昆虫採集? 教授とではなく葛西さんとですか?」

「ウイルス・ハンターの重要な仕事の一環です。あの虫の巨大化したやつを探すんだそうですよ」

「まあ……。じゃあ、確かに教授は同席できませんわね」

 紗弥は、納得して言った。

「まあ、そういうことです。さて、ちゃっちゃと今日中に片付けてしまいましょうかね」

 ギルフォードが再び作業に戻って一時間ほど経ったころ、彼の携帯電話に着信が入り例の笑い声のワルツが研究室に響いた。

「ああ、タカヤナギ先生からです。このぶんじゃ、このやりかけの仕事がライフワークになりそうです」

 ギルフォードは電話を手に取りながら、肩をすくめて言った。

 高柳の電話は、昨夜のカルト教団におこった悲劇についてだった。すっかり怖気づいた信者たちが、夜明けになってからようやく警察に連絡し、発覚したのである。

「この教団ってのが、昨日連絡したサワムラ・アンナ関係のヤツなんですね」

「そういうことだ。連中が墓に向かったのも、警察と保健所から遺体の調査依頼があり、それを阻止しようと集合したらしい。だが墓から音がしたので、爺さんが生き返ったと勘違いして喜んで掘り返したということだ」

「でも音の主はおジイさんではなかったと」

「まあ、そういうことだね」

「で、食われたのはおジイさんの方だけだったということですか?」

 ギルフォードは念を押して訊いた。

「そうらしい。警察が隣の孫の墓も掘り返してみたが、まあ、死後数日経ってたんでそれなりに傷んではいたが、食害された形跡はなかったそうだ」

「偶然じゃなさそうですね。両者の遺体の処置のされ方の違いかもしれません。それが解明出来れば、遺体をあの虫たちから保護する方法がわかるでしょう。で、遺体は?」

「教祖を含めて3体、センターの方に移送中だ」

「感染してないだろうとは言え、一晩感染遺体と同衾していた教祖の遺体もというのは、当然の処置でしょうけど、信者達が抵抗したんじゃないですか?」

「同衾って、君……」高柳は少し笑って言った。「まあ、確かに信者からかなりの抵抗はあったらしいがね」

「自分らがほっぽっといて、何をか言わんやですよ」

「ま、そこら辺、妙な罪悪感とかあるのかもしれんな。いずれにしろ、教祖を失った新興宗教の末路は知れているだろうがね」

「で、信者たちの感染は?」

「遺体には直接触れていないらしいし、蟲に咬まれた人も居ないようなので、とりあえず自宅で様子をみてもらって、発熱等異常が現れた場合保健所に連絡するということで手を打った」

「手を打った?」

 ギルフォードは苦笑して言った。

「蟲がウロウロしていたかもしれない墓土を素手で触っているんです。出来たら全員隔離して様子を見たいくらいですが」

「それが一番安全な措置なのはわかるが、物理的にも人権的にも経済的にも無理だ。それに、あそこに居た二百人近い信者を収容すれば、それだけでここのキャパシティを凌駕しかねんだろう。下手をすると、肝心な発症者が受け入れられなくなるぞ。幸い、今のところ発症者とのなんらかの接触と、蟲の咬み傷以外からの感染はないようだからね」

「それはまだ、症例が少ないからでしょう?」

「もちろんだが、これが現状での限界だよ。まあ沢村杏奈のように、潜在する感染死者が他に何人いるか考えると悩ましい話だが」

「今日、知事からの公表があれば、またこの状況が変わるかも知れないですね」

「そういえば、知事がそれに関して、また君に頼みたいことがあるらしいぞ」

「何ですか、それは」

「秋山信之さん……雅之君をはじめ、家族をこのウイルス感染で三人失った人だね、彼に会って今日の公表について説明して欲しいとか言ってたな。まあ、君には正式に連絡が入るだろうが」

「僕は苦情処理係ですか……?」

 ギルフォードはゲンナリして言った。

「この場合はお客様窓口……いや、お客様アピーザー(appeaser)かな?」

「どっかの化粧品会社のテレアポみたいな訳のわからん名称を勝手につけないでください」

 ギルフォードが読点無しで一気にまくしたてた。高柳は自分のジョークが通じたせいか、なんとなく嬉しそうに言った。

「ま、そういうことだ。君も忙しいだろうが、この件に関わってしまったからには腹を括ってな。じゃ」

「腹はかなり前からくくってますケドね。今から過労死の心配をしたほうがいいかもしれ……」

 ギルフォードはげっそりした様子で言ったが、彼が言い終わらないうちに電話が切れた。

「くっそ~~~、相変わらず箸にも棒にも引っかからないオッサンですよ」

 ギルフォードは自分の電話に向かって言うと、再び肩をすくめ、それをGパンのポケットに収めた。

「ま、さすが歴戦の医師、立ち直りが早いのは尊敬に値しますケド」

「立ち直りって、あの方が落ち込んでいらしたのですか?」

「ええ。さすが昨日はショックだったらしくて、全くオヤジギャグの類が出なかったですからね」

「まあ、そうだったんですの」

「程度の差はあっても、昨日はあの場所にいた誰もがショックを受けたんじゃないかな……。サヤさん、君だってそうでしょ? ま、それはともかく、知事から野暮用が入るまでに、出来るだけ作業を先に進めておきましょう」

 ギルフォードは、そういうとすぐにパソコンに向かいキーボードをせわしく打ち始め、紗弥はお茶を淹れるために席を立った。

 


 さて、こちらはC川河川敷の葛西・ジュリアスの昆虫採集組である。彼らはNBC対策車で問題の河川敷に乗り込んだ。

 二人は荷物を一式抱えると、河川敷から堤防に駆け上がり、死んだホームレス、仮称Eの住居跡に立った。住居はすでに綺麗に取り払われ、強い消毒薬のにおいが漂っている。もっともNBC防護服を着ている彼らには、関係ない話ではあるが。

「う~ん、綺麗に草も刈り取られていますね」

 葛西が周囲を見回しながら言った。

「そうだなも、これじゃ罠を仕掛けるには向かにゃあがね。場所を変えたほうが良さそうだわ」

「とりあえず、橋脚の隅に1個だけ仕掛けておきましょう」

 葛西はそういいながら、荷物の中から元ネズミ駆除用だったメガローチ・ホイホイ(ジュリアス命名)を取り出した。組み立てながら葛西は言った。

「こんなものでアレが掛かるんでしょうか?」

「これはもともとゴキブリ駆除用に作られたものの応用だろ? それにたっぷりと誘因剤をつけとるから、近くにおればおびき寄せられてくるはずだて」

「誘引剤ってなんですか?」

 葛西は何となく嫌な答えを予想しながら訊いた。

「そりゃ、おみゃあ、アレは感染者の遺体の匂いに引き寄せられるんだろ、ほたら、答えは決まっとるがね」

「うへえ、気持ち悪い……!」

 葛西はつい、捕獲器を取り落としそうになった。

「匂いの元は、ちゃんとガンマ線照射で無毒化してあるから安全だがね」

「そりゃそうですよね」

 葛西は納得しながら、捕獲器を所定の場所に置いた。その時、警察無線に呼ばれ、葛西は急いで応答した。

「え? ゴキブリの集団死現場? それは、F市内の河川敷で見られたのと同じものですか? ……わかりました、すぐに行きます」

 葛西は無線を切ると、ジュリアスに伝えた。

「僕らと一緒に来た消毒班が、蟲が集団死しているのを見つけたそうです」

「よっしゃ、早く行こまい。ついでにその付近にも捕獲器を仕掛けるでよ」

 二人は急いで荷物を抱えると、車の方に走った。


 昨日、葛西が署に帰ると、土曜の夜にも関わらず捜査一課の全員が出てきていて彼を待っていた。葛西が部屋に入ると、みんなが声をかけてきた。

「お疲れさん」

「葛西、大丈夫か? 気を落とすなよ」

「元気だせよ」

 皆一様に何となく赤い目をしていた。多美山の机には、すでに花が飾ってあった。それを見て、またうるっとなりながら葛西は答えた。

「みんな、ありがとうございます。あの、多美さん、頑張ったけど……。短いけど凄まじい闘病でした。すみません、僕、まだこれ以上……」

 葛西は、ぺこりと礼をして自分の席に着こうとした時、鈴木が戻ってきて葛西を姿を見つけるや言った。

「あ、葛西君、大変だったところ申し訳ないけど、ちょっと署長室に来てくれないか?」

 葛西が訝しく思いながら、鈴木と共に署長室に入ると、署長の樺島が立ち上がって葛西を迎えた。葛西はその前に立つと敬礼して言った。

「ただいま帰りました。色々勝手に動いてしまって申し訳ありません」

「まあ、本来なら減俸ものだが、事態が事態だけに特例として大目に見よう。それより、重篤な感染症と言うことで、多美山主任のことを君だけに任せる結果となってしまった。負担をかけてすまなかったな」

「いえ……。多美山さんと僕はコンビを組んでましたから、当然のことです」

 葛西は目を伏せながら言った。

「多美山君が亡くなったなんて、私もまだ信じられないんだよ。それもこんなに早く……。結局見舞いにも行けず、その上遺体にも対面できないということを知って、私も少なからずショックを受けているんだよ……。ところで、申し訳ないが……」

 樺島は、一旦そこで言葉を切ると、続けた。

「明日の日曜なんだが、君に新型ウイルス対策室出向に先駆けての初仕事だ。C川河川敷の遺体の見つかった付近で、媒介昆虫であるゴキブリの捕獲作業をして欲しいという辞令が来ているんだ。アメリカの専門家の先生が請け負って下さったんでその護衛も兼ねてだが」

「アメリカからの専門家……? ああ、ジュリアス・キング先生のことですね」

 葛西はすぐに理解して答えた。

「もうお会いしたのかね」

「はい。今日、感対センターの方でお会いしました」

「心身共に疲れているだろう所を、申し訳ないのだけれど、ことが重要なだけに、少しでも早く少しでも多く犯人や病原体の正体についての手がかりを得なければならないんだ」

「了解しました。明日から媒介昆虫捕獲作業に取り掛かります。多美山巡査部長の仇を打つためにも!!」


(そう、これは多美さんの無念をかけた戦いだ) 

 葛西は現場に向かいながら思った。

 連絡のあった場所付近に着くと、葛西とジュリアスはすぐに車を降り、現場に向かった。そこには防護服の警官が三人、その場所を囲うように立っていた。二人は走ってその場所に向かったが、予想をはるかに超えた凄まじさに、言葉を失って一瞬唖然として立ち止まった。それらは、河川敷の草むらの中にあり、ぱっと見は誰かが草むらでゴミを燃やした跡のように見えた。、葛西は無意識に手でマスク越しに口の辺りを覆った

「これが……、調書に書いてあった……、うぷ」

「こんなよ~け虫が死んどるのは、初めて見てまったよ。でらおでれぇ~た、さすがにキモイわ」

 と言いながらも、場慣れしたジュリアスはさっさと荷物から採集用のビンを取り出し始めた。

「葛西、とにかくこの中からサンプルとして数匹採取しよまい」

「え? ……あ、はいっ」

 葛西は一瞬怯んだが、すぐにジュリアスに従った。

「CDCにいる、おれの兄貴にも送りたいから、多めに採取してちょうよ」

「うひゃあ、これはキッツイなあ……」

 葛西は、目の前の黒光りする小山を見ながら早くも戦意喪失しそうになった。

 


 窪田華恵は、とある講演会の会場にいた。友人から、良い話が聞けるから、是非にと何度か誘いがあったのだが、なんとなく胡散臭そうだったので断っていた。しかし昨日、いそいそと家を出て行く夫を見、日ごろの鬱憤が爆発しそうになった。それで、半ば自暴自棄気味になっていたせいか、今回はあっさりと誘いに乗ってしまったのである。

 講演会は、県営の複合施設のイベントホールで開催されていた。実際、会場に入ってみると明るくて講演を聴きに来ている大勢の人たちも至って普通で、胡散臭さなど微塵も感じなかった。ただ、圧倒的に女性が多いのが気になった。横に座った友人が言った。

「あのね、この講演会の先生はね、『碧珠善心教会』というところの教主様なんだ」

「え? やっぱり宗教やったと?」

「ええ、まあそうなんやけど、そこら辺の妙なカルトとは全っ然違うとよ。お話がすごく良いし、何より教主様がね、若くてイケメンでかっこよくて、それにすっごくお優しい方でね」

「教主が若くてイケメンだから、そこら辺の宗教と違うって言っとぉみたいやね」

 華恵はここに来たことを、早くも後悔していた。しかし、宗教関係なら変に席を立つのは拙いかもしれない。それで華恵は、とりあえず講演を聴くことにした。イケメンの教主とやらを見てみたいという興味もあった。

 しばらくすると、司会の女性が簡単な挨拶をし、教主の名を呼んだ。その瞬間割れるような拍手が起こり、教主が姿を現した。華恵の座っている位置からは、長身の背格好はわかったが遠くて生ではよく顔が見えなかった。しかし、スクリーンに映し出された顔を見ると、確かに目立って美男なのがわかった。表情も豊かで何より色気があり、しかも、その話し方は的確でわかりやすかった。彼は言った。

「私は『碧珠善心教会』という宗教法人を主催しています。『碧珠』とは青い球体である地球を意味します。善い心を持って地球と共存するということが教義の要です。ああ、ご安心下さい。宗教関係の勧誘等は一切いたしませんから」

 そう言うと、教主は笑った。

「今日は、みなさんに訴えたい事を聞いていただくため、ここにまいりました」

 内容は、教主の説明にあったとおり、最近流行のエコに関係するものが主だった。それから転じて、人生に関する機微や色々な因縁話、特に、自分の業は結局自分に帰ってくるので、日ごろから精進に勤めようという、いかにも宗教家らしい話もあった。

 その話の途中で、教主は思い出したように会場に向かって言った。

「ああ、この中に重い悩みを抱えられた方がおられますね」

 教主はいきなり席を立つと客席の方に降りてきた。会場からきゃあ~という歓声が上がった。教主はまっすぐ華恵のほうに向かって来て、彼女の前で立ち止まった。華恵は驚いて椅子から半立ちになった。

「ああ、あなたですね。とても悲しい波動を感じました。何かお悩みがあるのではないですか?」

 華恵は驚いて言った。

「え? いえ、そんな恐れ多い……」

 華恵は否定したが語尾が震えた。

「お名前は?」

 教主に聞かれ、華恵は機械的に答えようとしたが、教主がそれを止めた。

「ああ、ちょっと待って……、言わないでください。……わかりました。はなえさん……窪田……華恵さんですね」

 華恵は、初対面にも関わらず名前を完璧に当てられて仰天した。会場もざわめいたがそれらを全く気にせずに、教主は彼女の手を取って目を瞑った。

「ああ、ご主人ですね。あなたを悩ませ悲しませているのは」

 華恵はさらに驚いて教主の顔を見た。会場は一瞬どよめいたが、すぐに水を打ったように静かになった。驚愕も度を越せば静寂を呼ぶものらしい。華恵は教主の顔を真正面から見てドキッとした。スクリーンで見たよりはるかに美しい男でしかも若い。どう見ても30から30代半ばである。

「ああ、ご主人は昨日から出かけられていて、そのせいでまたあなたは悲しい思いをしているんですね」

 華恵は驚きを通り越して、無思考状態に陥っていた。

「お可愛そうに。ご主人はあなたにも心があることをお忘れでいらっしゃるようだ。よく今まで耐えてこられましたね」

 教主は両手でそっと華恵の両手を包むように持って言った。華恵の頬に一筋の涙が伝った。

「華恵さん、人の行いは、それが良いことでも悪いことでも結局自分に還って来ます。良いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが。あなたのご主人もいつか身をもってそれを知るでしょう。華恵さん、あなたは良い道を歩んでください。そうすれば、きっと幸せになれます」

「教主さま……」

「教主と呼ぶのはお止めください。全ての我が信徒の父である教祖の教えを広める、全ての信徒の方々の兄として、長兄とお呼びください」

 教主はそういうと、華恵に優しく微笑みかけると立ち上がり、静かに演台に戻って行った。その背に会場から惜しみない拍手と歓声が送られた。信徒も一般参加者も関係なく感動した証であった。教主は演台に戻ると、再び慈愛に満ちた微笑を湛えながら会場を見渡した。拍手と歓声は途切れることなく続いていた。

 


 その頃、華恵の夫は身をもってそれを体験中であった。

 昨夜飲んだアスピリンが効いたのか、朝起きた時は、昨日の頭痛も消え、比較的すっきり目覚めることが出来た。今日の観光は万全だ、午後から予定していた歌恋と二人水入らずのゴルフも予定通り行えそうだ、そう思っていたのだが、それが楽観的且つ希望的観測だったことがわかってきた。昼に近づくと、頭痛がまた襲ってきたのである。急いでアスピリンを飲んだがこんどは全く効かず、ついに全身の関節までが疼き始めたのだ。歌恋がそれに気付いて心配そうに言った。

「栄太郎さん、やっぱり体調が良くないんでしょ? 病院を探して診てもらいましょうよ」

「いや、大丈夫だよ、これくらいのこと」

 窪田は、平気そうに笑って言ったが、その時うっかり雲間からの日差しを見てしまい、眼の奥に激しい痛みが走った。

「……~!!」

 窪田は声にならない声を上げ両目を覆い、観光中のハーブ園の通路に座り込みうずくまった。

「栄太郎さんっ、どうしたの?!」

 歌恋が驚いてそばに座り窪田の身体を支えた。窪田の発症は確実なものとなっていたが、彼らのそばを心配そうに、或いは好奇の目で見ながら通る沢山の観光客たちは、当然の事ながら、そこにうずくまっている男が致死性のウイルスに冒されているとは夢にも思っていなかった。にも関わらず、どうしてよいかわからず半泣きの歌恋に、助けの手を差し伸べようとする者は無情にも現れそうになかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ