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朝焼色の悪魔-第2部-  作者: 黒木 燐
第2章 指南
12/39

5.赤い暗雲

 電話を見ると、案の定美葉から着信とメールが入っていた。

「やっば~、やっぱり電話してきてる。話に夢中で気がつかなかった」

 由利子は急いで美葉に電話をした。

「もしもし、美葉? ゴメン、話に夢中になっとった。今、まだS島やけど……」

「ま~、いいわね~。私はたったひとり、事務所でパソコン相手よ」

「え? みんな帰っちゃったの? ひとりで大丈夫?」

「な~んてね、うそうそ。まだ半分くらい人が残ってるけん大丈夫よ。私もそろそろ帰ろうかと思ってたんだ」

「そっか。こっちは車だから、時間がはっきり言えないけど、どうする?」

「そうやね、先に行っとこうか?」

「先に行くって、ひとりでウロウロして大丈夫なん?」

 その時、ギルフォードが口を挟んだ。

「ダメですよ、アブナイです。サヤさんにお願いしましょうか? 頼りになりますよ。ついでにサヤさんも一緒にごはんしましょう。早速電話してみますね」

「アレクの秘書の紗弥さんって人にお迎えを頼んでみるって」

 由利子は美葉に伝えた。美葉は驚いて言った。

「ええ? いいの? 会社H駅方面だけど、大学から遠いんじゃない?」

「っていうか、もう電話しよぉよ」

「早っ!」

 二人が驚いているうちに、ギルフォードはさっさと話を進めていた。

「ユリコ、サヤさんがミハの特徴を教えてくれって言ってます」

「あ、はい。……え~っと、小柄です。150cmくらい。で、童顔でちまちましてて可愛いですね。髪は……えっと、肩くらいでちょっとだけ茶色に染めてます。それから、え~っと……」

「ユリコは人の顔を忘れないわりに、説明が下手ですねえ」

 ギルフォードは紗弥に由利子の言うとおりをそのまま伝えていたが、途中でつい思っていたことを口に出してしまった。葛西がそれを聞いて吹き出した。由利子は葛西をちらりと見て言った。

「外野、うるさい。……あ、そうそう、小柄だけど胸がでかいです」

「ちょっとお、要らんこと言わんでもええやろ」

 電話の向こうで美葉が焦って言った。ギルフォードは、思い出したように、ポンと手を叩いた。

「ああ、けっこうグラマーでしたよね。昔風に言えば、トランジスタ・グラマーってヤツですね。いや、興味深いです。友達ってのは、やっぱりお互いを補うようなタイプを選ぶんでしょうかねえ。サヤさんのもササヤカだけど、ユリコはさらにペッタンコで。あ、安心してください。僕はペッタンコの方が好きですから。いや、改めて見ると、ホントにペッタンコおうっ!……蹴りましたね、ユリコ」

「さっき蹴ったお返しよ、この、セクハラオヤジ! 人が気にしていることを、よくも3回もペッタンコって言ってくれたね!」

「電話の向こうからも、どやされました」

 ギルフォードは、苦笑いをして言った。葛西があ~あという顔をして見ている。

「だいたい、あなたにペッタンコが好きって言われても嬉しくねーよ。そもそもあなたイテ! また蹴ったね」

「余計なことは言わないでくださいね」

「あーのーねー!」

 例の如くにっこり笑って言うギルフォードに、由利子が再び突っかかろうとした。机下の攻防が始まりそうになったので、葛西が心配して声をかけた。

「あのぉ、由利子さん、お友だちほったらかしでは……」

「わ~~~、忘れてた」

 由利子は急いで電話に戻った。

 結局、ギルフォードの提案どおり、紗弥が美葉の会社まで迎えに行くことになった。

「さて、だいぶ日が落ちてきましたね。空も赤くなってきましたよ。……そろそろ片付けましょうか」

 そういうと、ギルフォードはテキパキと片付け始めた。由利子と葛西もそれぞれ持って来た物を片付ける。

「じゃ、僕はまた車を持ってきますから、ちょっと待っててくださいね」

 ギルフォードはそういうと、走って行った。浜辺にはまた二人が残された。

「元気やねえ、アレクは。駆け足で駐車場までいったよ」

「そうですねえ。でも……。あの、由利子さん」

「何?」

「……なんか、いつの間にかケンカ出来るほどアレクと仲が良くなってたんですね」

「な~に~、それ」

 由利子は笑い出した。

「そういえばそうだわ。あんな変な外人のオッサンとテーブルの下で蹴り合いしてたなんて、なんか可笑しい」

「見ててうらやましいです」

「何言ってんの。アレクと私なんて、男同士みたいなもんだよ、きっと。ぺったんこだし」

「意外と根に持つんですね」

「そりゃあ、持つだろ。それより、6月ともなれば、日が長いなあ。なかなか日が沈まない」

「まあ、夏至も近いですからね。でも、だいぶ夕焼けらしくなってきました」

「うん。まだ赤みは少ないけど、綺麗だねえ」

「ええ。それに、雲の間から光のカーテンが降りてますね。まるで西洋の宗教画です」

「そういえば、理科の授業で習ったわね。何現象だっけ?」

「チンダル現象です」

「変な名前よね」

「発見者の名前ですよ」

「そうだったね。他にもコロイドとかブラウン運動とか」

「懐かしいですね」

 二人は、その後静かに金色に輝く海を眺めていた。心地よい波音の中、ゆったりとした時間が流れ、さっきギルフォードからバイオテロの話を聞いたばかりなのに、世界中が平和そのもののように錯覚してしまう。現実は、世界中のあちこちで今も戦争や紛争があっており、あまつさえ自分らの身の回りにもただならない危険が迫ってきているはずなのに……。

 浜辺に二人きりで立っていると思うと、今度は由利子の方が気恥ずかしくなってきて言った。

「昨日、天気が悪かったので心配してたんだけど、いい天気に恵まれて良かった……」

「てるてる坊主を作ったかいがありました」

「え? てるてる坊主?」

 想像以上に緊張感のない言葉が返ってきたので、由利子は気の抜けたような声で聞き返した。

「作ったの? 葛西君が?」

「変ですか?」

「う……うん。ちょっと変かも。……あ、じゃあ、晴れたから銀の鈴をつけてあげないと」

「ああ、そんな歌詞がありましたね」

 その時、車の音が聞こえてきた。ギルフォードが戻って来たらしい。二人が迎えると、ギルフォードはバンから降りて言った。

「さあ、荷物を積んで帰りましょう」


 帰りの道路は、通勤時間の影響もあって、けっこう混んでいた。その間、空は朱の色がだんだん濃く変化し、見事な夕焼け空になった。

「ジュン、本格的な夕焼けです。街中の夕焼けもそれなりに綺麗ですね」

 ギルフォードが信号待ちの間、空を眺めながら言った。

「そうですね。夕日にビルが映えてとても綺麗だ。そういえば、あまりこういう風に空を見たことがなかったなあ……。でも、周囲が赤く見えたという発症者には、夕焼けでもない時にこういう風に見えるのでしょうか?」

「まあ、実際にどう見えてるかってのはわからないでしょう。今だって、君やユリコや僕が、それぞれ同じ光景を同じように見ているかは疑問でしょう。脳がどう判断しているのかなんて、誰にもわかりません。ただ、赤く見えているらしいということしか」

「どっちにしても、あまり気持ちの良いもんじゃないよね、自分だけ周囲が赤く見えるって考えたら」

 由利子が、眉を寄せながら言った。

「まったくです。……ところで、サヤさんは無事にミハを連れて行ってるでしょうか」

「特に連絡が無いから、大丈夫でしょ」

「そうですか。正直に言うと、僕はミハみたいなタイプは基本苦手なんですが、彼女に対してはそんな風に思えないんです。不思議な人ですね」

「うふふ……」

 由利子が急に意味深に笑った。

「さすがのアレクも見た目の可愛さに、若干騙されてましたね。ああ見えて彼女、合気道有段者なんですよ。だから、私なんかより随分強いんです。ホントは護衛も要らないかもしれない」

「ええ? そうなんですか、なるほど。ユミ・カ〇ルですね」

「また、妙なことを知ってるんだから」

「で、何か訳ありなんですか?」

 由利子は、一瞬躊躇した後答えた。

「あのコ、子供の頃誘拐されかかったんです。運よく逃げ出せたけど。で、お父さんが護身のために習わせたんです。でも、美葉はそれが気に入っちゃって、とうとう有段者に……」

 由利子の説明を受けて、ギルフォードは若干こわばったような表情を浮かべて言った。

「そうですか……。彼女も誘拐されたことが……」

「彼女『も』?」

 由利子は、ギルフォードの言葉の細部を聞き逃さなかった。葛西も気になったらしい。由利子の後に続いて質問した。

「知り合いの方とかに、誘拐被害者がいるんですか?」

「ええ、まあ……。彼はけっこう悲惨な目に遭ったみたいですが」

「そうですか。気の毒に……。美葉の場合は未遂……でしたけど、かなり怖い経験だったようです。犯人は、子供を何人も暴行した非道いヤツでした。当時は幼い被害者たちのことを考慮して、あまり表沙汰にはなりませんでしたが。美葉がもし誘拐されていたかと思うと……」

「ゾッとしますね」

 ギルフォードは、厳しい表情で言った。

「だけど、どんなに強くても、隙を見せるとやられてしまいます。ですから、けっして油断してはいけません。これは、テロ対策と同じです」

「そうですね」

 由利子が答えると、ギルフォードが不安げな表情をして言った。

「それに、ひとつ気にかかることがあるんです」

「え?」

「長沼間さんが、ミハの張り込みから外されたそうです。住民からの苦情だそうですが、僕は、通報だったんじゃないかと思ってますけれども」

「怪しい男がうろついているってですか? まあ、あの悪役商会ヅラでは仕方がないですね。よく見たらいい男なのだけど」

「今は、あの時に居た若い男と、ルーキーの警官が張り込みにあたっているそうです」

「う~~~ん、確かにそれじゃ心配ですね、でも……」

 由利子は自分に言い聞かすように言った。

「大丈夫ですよね。彼らだってプロなんだもん。ね、葛西君」

「え? は、はい。そりゃあ、大丈夫じゃないと困ります」

 葛西は自分に振られると思っていなかったので、焦って答えた。

「ところで、何のお話ですか?」

「あ、そうか、葛西君の知らない話だったわね。そもそも葛西君は美葉に会ったことないんだし」

 話が見えていない葛西に、由利子が経緯を説明した。

 夕闇が迫る頃、彼らはようやく目的地に着いた。ギルフォードは二人を居酒屋の前で降ろすと、例によって駐車場に車を止めに行った。二人はギルフォードを見送ると、古びた居酒屋に入っていった。


 黄昏のC川は、ジョギングや犬を散歩させる人たちと入れ変わりに、若者達が河川敷に集まり、騒ぎ始めていた。車道橋には、自動車がやや渋滞気味で、時折改造バイクが耳障りな騒音を立てながら走り去っていく。その橋台の下の「住居」で、「主」の男が仰向けに倒れていた。

 男は、全身出血しているらしく、皮膚が全体的に黒ずみ、目や鼻からは血を流していた。さらに、彼の右腕と額から右頬にかけて、酷い発疹が広がっていた。彼は全身を襲う痛みに、弱弱しい呻き声をあげていた。しかし、その赤い目は、橋脚の隙間を怯えながら見つめていた。そこには、何か生き物がいるらしく、いくつかのうごめく影とチロチロと光る目のようなものが見える。

(あいつら、おれが死ぬとを待っとぉとか……)

 男は絶望と恐怖の中、何故こんなことになったのかを考えていた。

 先月、ホームレス仲間がC川に落ちて溺死した。男は、あの夜に聞いた水音が知り合いが川に落ちた音だったいうことを、新聞で読んで初めて知り、ゾッとした。

 その数日後の夜、男は灯油ランプの明かりの下、酒を飲みながら拾った新聞を読んでいた。それは、彼にとって至福の時間だった。新聞は、彼が世の中の情報を知る数少ない手段だった。数社の新聞を毎日隅々まで読む彼は、そのあたりで騒いでいる若者達よりよほど世界情勢に詳しかった。

 その彼のまったりとした時は、いきなり壊されてしまった。外からなにか黒いじゅうたんのようなものが侵入してきたのだ。それは大量の虫だった。男は驚いて飛び起きたが、右手と顔面の一部に、そいつらがぶち当たった。男は怯えながら部屋の隅でその尋常ならぬ大群を見ていた。ここは彼らに占拠されてしまうのか?

 しかし、男の心配は当たらなかった。彼らは単にそこを通路にしただけで、すぐに彼の「住居」は平和を取り戻した。男は、恐る恐る自分の寝場所に戻った。放置した酒は倒されずにいたが、中になんだかいろんなものが浮いていた。虫の正体はわかっていたのでさすがに気持ち悪くて、もったいないと思ったが酒は捨て、仕方がないので寝ることにした。

 それから2・3日して、右手と顔面に湿疹のような発疹が出始めた。痛くもかゆくもなかったが、却ってそれが気持ち悪い。しかし、病院に行く余裕が彼にはなかった。

 それからまた数日して、今度は眼の奥が痛み始めた。さらに明るいものが眩しくて見れなくなり、彼は日中外に出ることが出来なくなった。そして発熱。発疹はいくつかが集まって膿を持ち傷みを伴うようになった。高熱ののせいか、体中の関節が痛んだ。寝ていても、身の置き所のない苦痛。その病状はインフルエンザによく似ていた。日にちが経っても悪化する一方で、その後、間断のない吐き気と腹痛までが襲ってくるようになったのである。

 そして今、彼はほとんど身動きできない状態にあった。発疹が出始めてから約2週間が経っていた。


 多美山は、珍しく早い時間から床についていた。

 彼が隔離されてから、丸3日経っていた。今まで何十年も刑事として忙しい日々を送っていた彼にとって、この隔離生活は、かなり苦痛であった。そろそろ読書にも飽き、葛西の持ってきたテレビを点けて何か見るものはないかとチャンネルを変え確認すると、民法の特番で、歴史もののドキュメントをやっていた。それで、それを見ることにし、テレビをサイドテーブルに置き、ベッドに座った。しばらくはそんな感じでテレビを見ていたのだが、なんとなくだるさを感じてテレビを消しベッドに横になった。

「多美山さん、こんばんは~」

 園山看護師が定期検温にやって来たが、多美山が寝ていることに気がついて言った。

「多美山さん? 寝ていらしゃいますか?」

 その声に多美山は目を覚まし、身を起こした。

「あ、すんまっせん、園山さん。寝てしまいましたな」

「ご気分はどうですか?」

「たいして変わりないと思うとですが、何となくだるいですな……」

「だるい……?」

 園山は、少し緊張した表情で言った。

「とりあえず、検温しましょう」

 園山は体温計を取り出しセットすると多美山に渡した。


 由利子と葛西は、待ち合わせ場所の居酒屋に入っていった。カウンターのところまで行くと、中に居る店の主人と目が合った。

「大将、こんばんは~」

「おっ、篠原さん、らっしゃい。久しぶりですなあ。お連れさんたち、いらしてますよ」

 主人の言葉に、カウンター席に座っている美葉と紗弥が振り向いた。

「あ、由利ちゃん。思ったより早かったねえ」

 美葉は立ち上がって由利子を迎えた。

「あれ? アレクは?」

「車を置きに行ったよ。二人とも、待たせてごめんなさいね。美葉、彼がK……」

「あ、僕、K市にある会社に勤めてます、葛西といいます」

 それを聞いて、ちょっと不思議そうな顔で美葉が言った。

「多田美葉です。はじめまして。由利ちゃんとは小学校の時からのお付き合いなんですよ」

「まあ、腐れ縁ってヤツですけどね」

 由利子が笑いながら言った。美葉は、二席空けて座り、紗弥との間に由利子と葛西を座らせた。

「アレクが来たら、真ん中に座らせようね」

 と、美葉が笑いながら言った。葛西は座るとすぐに、小声で言った。

「すみません。警察官とか言ったら周りから敬遠されちゃうんで、普通は会社員って言ってるんです」

「それって、職業詐称じゃないの?」

「みんなそうみたいですよ。仕事内容によっては身分を明かせないこともあるし。まあ、嘘も方便って言うじゃないですか」

「そういえばそうやね」

 由利子は納得した。その時、入り口の戸が開いてギルフォードが入って来た。思いがけず、大きなガイジンが入って来たので、客も店の主人も驚いた。

「スミマセン、お待たせしました」

 ギルフォードはそう言いながら、まっすぐに由利子たちの座っているカウンターにやって来た。由利子はアレクを真ん中に座らせた。これで、カウンターから見ると、右から紗弥・葛西・ギルフォード・由利子・美葉と並んだ。

「あ、大将、紹介しますね。えっと、アレクサンダー・ギルフォードさん、彼はQ大で教授をされてます。

「こんにちは。はじめまして」

 ギルフォードが挨拶をすると、主人は恐縮しつつ答えた。

「こちらこそ、これからご贔屓に」

「で、ひとり置いて、向こうの綺麗な女性は紗弥さんと言って教授の秘書さんです」

 紗弥は紹介されると、にっこり笑って一礼した。店の主人も釣られて笑顔になりながら「よろしく」と言った。

「そして、この頼りなさそうなのが、会社員の葛西君」

「あの~、僕だけ説明が情けないんですけど……」

 と言いながら、立ち上がって一礼をする。

「けっこう頼りになりますよ」

 とギルフォードが横からフォローした。

「そうそう! 男の値打ちはいざと言う時ですたい。がんばりんしゃい、兄さん」

 主人は、葛西にそう声をかけると、ギルフォードに向かって言った。

「それにしても、先生の日本語は上手かですなあ」

「先生は止めてください。アレクって呼んでくださいね」

 例によっての決まり文句に、紗弥を除く三人が笑った。

「あ、注文しなきゃ」

 由利子が気がついて言った。

「とりあえず、3人とも生ビールでいいかしら?」

「あ、僕はウーロン茶か緑茶にしてください」

 こう言ったのは、意外にもギルフォードだった。

「え? 飲まないの? あ、車だから?」

「いえ、実は僕、下戸なんです」

「えええ~?」

 これまた紗弥を除く3人が驚いて言った。

「珍しいですね。外国の方はみんなアルコールに強いとばかり思ってましたが」

 葛西が言うと、ギルフォードは笑いながら答えた。

「日本人に酒豪がいるように、白人にも下戸はいます。特に、母方の祖母がネイティヴアメリカンの血を引いているので、僕にそれが遺伝したようです。家族で下戸は僕だけですし」

「え~、本当? それ」と半信半疑のまま、由利子は注文した。「じゃ、大将、生ビール2杯とウーロン茶一杯ね」

「へえ、アレクの旦那、下戸には見えないけどねえ」

 そういいながら、主人はビールを注ぎ始めた。

「アレクの旦那?」ギルフォードは、ちょっと困ったように言った。「なんか、時代劇みたいですねえ……」

 とりあえず、飲み物が揃ったので、5人は乾杯をした。


「ところでサヤさんは車で来たんですか?」

 ギルフォードは、しばらくして思い出したように訊いた。

「あ、如月君が送ってくださいましたわ」

「へえ、あのシブチンのキサラギ君が? その上ミハまで拾って運んでくれたんですか? よく承知してくれましたねえ。彼の自宅と正反対じゃないですか」

「ええ、最初は嫌がっていましたけど、あの事をバラしますよ、と言ったら、二つ返事で引き受けてくださいましたわ」

「で、あのこととは何だったんですか?」

「さあ。何だったんでしょう?」

「ハッタリですか。こういう人ですよ」

 ギルフォードは肩をすくめて言った。その時、ギルフォードの電話に着信が入った。

「あ、電話です。ちょっとかけて来ますね」

 ギルフォードは、電話を耳に当てつつ小走りで店の外に出て行った。しばらくして、ギルフォードが深刻な顔をして帰ってきた。

「ジュン、タミヤマさんが発熱されたそうです」

「ええ? 多美さんが!?」

「すみません、みなさん。僕は帰らねばならなくなりました。ジュンはどうしますか?」

「僕も行きます!」

 葛西は居ても立ってもいられない様子で言った。

「では、私もご一緒しますわ」

 と紗弥が言った。

「アレクの旦那、もうお帰りですか?」

「すみません。急に野暮用が入ってしまって。とりあえずの清算、いいですか?」

 ギルフォードは、清算を済ませながら主人に言った。

「大将、お料理美味しかったです。魚介類も新鮮で良かったです。今度また、ゆっくり来ますね」

 ギルフォードは清算を済ませると、心配そうな顔の由利子と訳のわかっていない顔の美葉に向かって言った。

「二人とも、良いお店を紹介してくれてありがとう。君たちはゆっくりして帰ってください。じゃ、行きますね」

 ギルフォードは、そういうと急いで店を出て行った。

「美葉、ごめん。ちょっと待ってて」

 と、言い残すと、由利子はギルフォードの後を追った。店を出たところで由利子はギルフォードを呼び止めた。

「待って、アレク!」

「ユリコ。追ってくると思ってましたよ」

「多美山さん……まさか……?」

「わかりません。抗ウイルス剤は試していたんで、副作用かもしれませんし。それよりユリコ、必ずミハはタクシーで送り届けてください。ユリコもそのままタクシーで帰るように。これ、タクシー代の足しにしてください」

 ギルフォードは由利子に5千円ほど手渡した。

「いいえ、大丈夫です。タクシー代くらいありますよ」

「受け取ってください。僕は君らを家まで送り届けるつもりでしたから、その代わりです。いいですね、無事に家に帰るまでが遠足ですよ。じゃ」

 ギルフォードは手を振ると、足早に去って行った。

「由利子さん、今日は楽しかったです。また行きましょうね。今度は紗弥さんも一緒に」

「ごきげんよう、由利子さん」

 葛西と紗弥も口々に言うと、ギルフォードの後に続いた。

「うん、私も楽しかったよ。気をつけてね」

 由利子は彼らの後姿に声をかけた。そしてそのまま、彼らの姿が人ごみに紛れて見えなくなるまで、名残惜しそうに見送っていた。

 

 男は胸の辺りにざわつきを感じて目を覚ました。いつの間にか意識を失っていたらしい。苦痛に耐えて、なんとか上半身を起こし、胸に居る何かを確認しようとした。彼の目に映ったのは、とある昆虫……。しかし、大きさは成虫だがその姿はどう見てもまだ翅のない幼虫だった。男はゾッとして、とっさにまだ自由の利く左手でそれを払った。そのまま男は力尽き身を横たえた。周囲を確認すると、弱い灯油ランプの明かりにいくつかの黒い影がチラチラしていた。男は再び意識を失ったが、右目のあたりにざわつきを感じて目を開けた。

 そこで、彼は信じがたいものを文字通り目の当たりにした。右目にあの蟲がとまっており、ランプの明かりを反射したそいつのキラキラした複眼をぼんやりと確認した。

「ひ、ひいっ……」

 男はかすれた悲鳴を上げると、再び左手でそれを払おうとした。しかし、他の蟲がその手に飛びついてきたため、男は手を振ってそれを剥がそうとした。男の注意がそれた隙に、顔面の蟲が男の眼窩に潜り込んだ。男のかすれた絶叫が辺りに響いた。しかし、すでに夜は更け、その悲鳴は橋を通る自動車の音と闇に紛れ、誰にも気づかれることはなかった。

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