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朝焼色の悪魔-第2部-  作者: 黒木 燐
第2章 指南
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4.テロと生物兵器

 荘厳で重厚な回廊を、三人の男が足早に歩いていた。彼らは、一際荘厳さの際立つ部屋の扉の前に並んだ。扉の両側に立った、親衛隊らしき二人が彼らを見るとサッと姿勢を正した。彼らの中で一番格上らしい50代の男が言った。

「長兄さまはおられるか? こちらに来ておいでのはずだが」

「はい。ですが、ただいまは瞑想の間に入っておられます」

 二人の「衛兵」は異口同音で答えた。

「瞑想の間か。厄介な場所に入っておられるな。あそこは、一切の電波が遮断されておる」

「広間の前で待つしかないでしょう」

 彼の息子らしき男が言った。

「そうだな、では、そちらに向かうとしよう」

 三人は、「衛兵」に背を向けるとその場を後にした。「衛兵」たちは、一糸乱れずに敬礼をし、また元の微動だにしない姿勢に戻った。

(ふん、双子でもないのに、相変わらず気味の悪い連中だ。まるでロボットだな)男は、密かに思った。(彼のお付きの連中はみんなこんな感じだ。まるで意思と言うものが感じられん)

 彼らは、瞑想の間の前室である読書の間で教主を待った。ここでは、信者達が静かに本を読んでいたが、圧倒的に若い女性信者が多く、華やかな雰囲気が漂っていた。

 蔵書は、宗教がらみというより、自然科学的なものが多かった。中でも、戦争や民族紛争、飢餓、環境破壊や絶滅動物等に関するような、現代の環境を危ぶむようなものが多数を占めていた。宗教関連の本もあったが、この教団の教義に関する本はもちろん、聖書や経典のみならず、新興宗教からカルトに至るまで、さまざまな本がストックしてあった。

 信者達は、物音もさせずに熱心に読書をしている。三人は居心地悪そうに黙ってソファに座り教主を待っていた。 


 しかし、彼らが思ったより待たずに瞑想の間の扉が開いた。中から、信者の中でも上級クラスなのだろう、白い、ゆったりとした衣服を身にまとった30代の美しい女性が姿を現し、静かな笑みを浮かべながら言った。

「お会いになられるそうです。お入りください」

 三人は、ぞろぞろと中に入って行った。

 瞑想の間は、かなり広く高い天井は半球のドーム型をしていた。全体が深いブルー系統の色に統一され、壁面と天井は淡く青い光を放ち、透明なブルーの材質のモザイクで幾何学模様が描かれていた。窓は全くなく、瞑想中であったために照明が落とされたままになっており、そのため青く薄暗い室内は深海を思わせた。

 部屋の中央に台座があり大型の椅子が設置され、椅子の上には3mほどの高さの天蓋があり、そこからやはりブルーの薄いカーテンが降りて周囲を囲っていた。三人は、台座の前でひざまずき、声のかかるのを待った。

「よくいらっしゃいました。冨野川ふのかわ教館長」

 カーテンの中で椅子に座った人影は、そういうと立ち上がり姿を現した。彼は台座の階段をゆっくりと下りると、冨野川たちの方に近づき、彼らの目の前に立った。冨野川たちは深く頭を下げた。こうべを垂れたまま、冨野川が言った。

「長兄さまには今日も美しい碧玉のご加護を……」

「冨野川さん」教主は、厳かな笑みを浮かべて言った。「堅苦しいご挨拶は抜きにしましょう」

「貴重な瞑想のお時間をお邪魔いたしまして、誠に申し訳ございません」

「いいえ、大事な情報を持って急いで来られたのでしょう? そんなあなた方にお会いするのは私の務めです」

 教主は笑みを浮かべたまま言った。

「ははっ、ありがたきお言葉……」

 そういうと三人はいっそう深く頭を下げた。

「さあ、頭をお上げください。そして楽な姿勢になられて……。どうぞ、お話をお聞かせください」

 そう言われて、三人はようやく頭を上げた。しかし、跪いた姿勢は崩さずに、富野川は口を開いた。

「は、先ほど入った情報によりますと、秋山美千代から感染した森田健二の遺体が先ほど発見されたそうです」

「森田健二……、ああ、あの第二のばら撒き屋候補の男ですね。彼であることは間違いないのですか」

「はい、彼をマークさせていた信者が、彼が熱に浮かされて夢遊状態で山奥まで行き、自動車事故に遭い死亡した一部始終を目撃しています。彼を轢いた者は罪を逃れようと、遺体を草むらに遺棄して逃げたということです」

「そうですか、残念でしたね。彼にはもう少しがんばって欲しかったところですが」

「今のところ潜伏期が平均して短く、発症後も研究段階より病状の進行が早いようですので」

「そうですか。さて、遥音先生、いらっしゃいますね」

「ここに」

 教主が何者かに声をかけると、台座の後ろの方から女が返事をした。冨野川は、ぎょっとした。人のいる気配などなかったからだ。しかし、声のしたほうをよく見ると、カーテンの陰に女の姿があった。

「そのあたりの改良点についてどう思われますか」

「潜伏期間は、人によりまちまちです。現在は比較的感染の進行の早い人たちが発症していますが、いまだ潜伏期間の人も多くいるはずです。それに、蟲たちも順調に数を増やしていると思われます。私は、もうしばらく様子を見るべきだと考えます。新たに改良ウイルスを撒くリスクは避けるべきです」

「なるほど。先生には、このままで充分だという自信がおありなのですね。たのもしい限りです」

 教主はそういうと、かすかに口元を歪めた。しかしそれは一瞬のことだったので、誰もそれに気がついた者はいない。涼子を除いては。涼子は心の中で身震いしたが、表面は全く動じずに答えた。

「お褒めにあずかり嬉しゅうございます。が、慢心せず、引き続き真摯に研究を続ける所存でございます……」

「お任せいたしましょう。さて……」そう言うと、教主は冨野川たちの方を見て言った。「教館長。その森田某の遺体はどの様に発見されたのでしょうか」

「はい、我々が採りこんだ警官からの報告ですが、草むらに遺棄されたままの遺体を、散歩中の飼い犬が発見したということです」

「警察では、彼の身元は割り出しているのですか」

「いえ、おそらくすぐにはわかりますまい。彼をマークしていた我々と違いますし、遺体の損傷も激しい。なにせ、二日近く野ざらし状態だったので、充分蟲たちのにえになってくれましたから」

「そうですか……。働かず学びもせず、大地を汚し資源をムダに消費するだけの愚か者が、やっと、大地のために役立とうとしている……。良いことです」

「はい、真に……」

 三人はうやうやしく答えた。その後、冨野川は若干間を置いて、教主に言った。

「ところで長兄さま、ここにおります河本が、甥の不始末についてお伺いしたいと申しておりますが……」

「さて、何のことでしょうか……」

 教主は、空とぼけた顔をして言った。

「申し訳ありません、長兄さま……」河本がいきなり床に頭を擦り付けて土下座しながら言った。「長兄さまのご意向に逆らって、我々が勝手に秋山美千代を捕獲し隔離しようとしたことは、勇み足だったと思っております。しかし、甥は……・」

「河本さん」教主は河本の言葉を遮って言った。「あなた方が秋山美千代の存在を恐れたというのは、わからないでもありません。しかし、その結果、美千代の暴走を招き、敵にむざむざとウイルス感染の経緯を教えるサンプルを与えることとなってしまったのです。現役の刑事が感染したとなれば、これからは相手も本気でかかってくるでしょう。シナリオに若干の狂いが生じ始めています」

「申し訳ありません」

 河本は、再度額を床に擦り付けた。

「私達は、なんとか息のある状態の甥を探し当て、(教団傘下の)善心会病院に入院させました。しかし、いつの間にかどこかに連れ去られてしまいました。今、甥がどこにいるか長兄さまがご存知なのではと……」

「彼の身体ですか……」

 教主は、一瞬冷やりとするような笑みを浮かべて言った。

「彼の身体は生きていますが、魂はすでにそこにありません。抜け殻は抜け殻としての使い道があります」

「まさか……」

 河本のみならず、冨野川父子までもが蒼白な顔をして涼子を見た。その彼らに向かって涼子は、表情も変えずに説明した。

「はい。脳死が確認された甥の河本泰一郎さんの身体は、私のラボでお預かりしています。貴重な御献体ですから、細部まで大事に使わせていただきますので、ご安心ください」

「そんな……」

 河本は、力が抜けそのまま床に突っ伏した状態になった。慌てて冨野川が彼を支え起こした。そんな河本に、教主は冷徹に質問をはじめた。

「河本さん、甥ごさんの身体は回収出来ましたが、彼の所有する自動車等が、警察の手に渡っています。それから、我が教団が浮上するようなことはありませんね」

「はい……」河本はヨロヨロと身体を起こすと言った。「ご……ご安心……ください。車には教団関係のものは一切乗せておりません。さらに、甥が我が教団に入信しているということは、彼の両親……すら……知らないことです。一般の信者と同じように、全て秘密裏に遂行されておりますゆえ」

「そうですか、安心しました。まだまだ、我々の名を浮上させる訳にはいきませんからね」

 そう言うと、教主は人好きのする笑顔を浮かべた。その顔を見ながら、涼子は再び肌が粟立つのを覚えた。教主の側近達は皆マインドコントロールを受けていた。しかし、涼子は別だ。マインドコントロールで彼女の頭脳が使い物にならなくなる可能性が高かったこともあるが、そんなもので征服するよりも、彼女を雁字搦めにして繋ぎ止めることの出来る理由があるのだ。

「河本さん……」

 教主は、今度は今までとはうって変わった辛そうな表情を浮かべて言った。

「甥ごさんは気の毒な事になりました。若干方向は違っていたとはいえ、教団の為を思ってやったことで命を落とすことになりました。私の力不足です。申し訳なく思います」

 そう言いながら、はらはらと涙を流す教主を見て、河本は再び額を床にすりつけながら言った。

「そんな、もったいのうございます」

「私を許してくださるのですか」

「許すだなんて、そんな畏れ多い……」

 河本はひれ伏したまま答えた。声が感動で震えている。

「河本さん、甥ごさんは無駄死にをするのではありません。彼の御尊体は、我が教団の崇高な計画のために尽くして下さるのです。この大地を守るために。さあ、河本さん」

 そう言いながら、教主は河本に手をさしのべ跪きながら彼の手を取った。河本は驚いて半身をおこした。教主は彼の肩にもそっと手を添えながら言った。

「河本さん、私たちの理想は同じです。共に、この世界を守るために戦いましょう」

「ああ、もったいのうございます」

 河本は、跪いたまま教主の両手にすがると、感動のあまり号泣しはじめた。冨野川親子を始め、信者達はその光景を見ながら涙していた。その様子を涼子は、ただひとり無表情で眺めていた。

 教主への報告終え、三人は部屋から出て行くべく立ち上がると、教主に向かって深く礼をした。河本は、冨野川親子に支えられるように歩いている。それは、甥を失った悲しみより、教主の言葉に感激したことが大きかった。その彼らを教主は慈愛に満ちた眼をして見ていたが、その後、涼子の方を向いて低い声で言った。うって変わった冷ややかな眼だった。

「遙音先生、もう一度確認したい。このまま様子を見ている状態で、本当に充分なのか」

「はい」涼子は答えた。

「少なくとも、秋山雅之の事故現場にいた人たちの一部や、森田健二を轢いた男性はまだ潜伏期にあります。そして、蟲に咬まれた男性も。秋山珠江の急激な病状の変化も、想定内です。おそらく、あの刑事も発症の経過を見るような余裕はないでしょう……」

「そうか。楽しみだな」

 そう言うと教主は楽しそうに笑った。涼子はその様子を、暗い眼で眺めていた。

  


「はい、早速質問です」

 由利子が手を挙げた。

「何でしょう?」

「今お話で出てきたものの他に、使われそうなものはありますか?」

「そうですね、CDCがカテゴリーAに挙げているもので重要なものを簡単に言いましょう。

 まず、ウイルスですが、有名なところではエボラとマールブルグですね。これはフィロウイルス科に属しています。フィロとはヒモという意味で、ウイルスなのに文字通りヒモのようなミミズのような姿をしています。その不気味な形状も、このウイルスが有名になる一因となりました。因みにあの有名なエボラウイルスの羊杖状の電子顕微鏡写真ですが、ひも状のウイルスがたまたまああいう形になっただけで、エボラウイルスはヒモが色々な形になるのと同じように、さまざまに形を変えます。ひも状と言えば、炭疽菌も増えると連なって、毛糸玉のようになります。サイズは全く違いますけどね。

 エボラウイルスはご存知の通り、数年前にパンデミック寸前まで感染が広がりました。なんとか抑え込みに成功したようですが、今も時折感染者が出ているようです。

 それと、アレナウイルス科に属するラッサ熱。これは、一度アフリカ帰りの日本人が感染していたことがありました。これらの出血熱のほかにクリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、そして天然痘と後に挙げるペストは、日本でも一番危険度の高い一類感染症に指定されています。ペスト以外は全部ウイルス疾患です。

 それから、将来の使用危険度の高いカテゴリーCにランクされているのにハンタウイルスというのがあります。これもまた731部隊が目をつけて研究していたものです。

 1960年頃、何故か大阪の一部で流行した記録もあります。これは、主にセズジネズミという可愛らしいネズミが媒介するウイルスですが、大阪の例ではドブネズミが感染源になっていたようです。もともとアジアにあった風土病の出血熱で、主に腎臓をやられます。

 しかし、アメリカで先住民のナバホ族に拡がったものは、変わり種で感染者に肺炎をおこさせました。ハンタウイルス肺症候群といいます。このハンタウイルスには、シンノムブレという名前がつきました。「誰も知らない」と言う意味です。普通は、発生した土地の名を付けるのですが、激しい反対が起きたので、命名者が気を利かせてそう言う名にしたのです。因みにマールブルグはドイツの地名です。そこにあるワクチン製造工場で発生したのです。ワクチンに使う腎臓を提供するアフリカ産ミドリザルが未知のウイルスに感染していて起きた、バイオハザードでした。

 エボラは発生地の近くを流れる川の名前からつけられました。本来ならウイルスが猛威をふるった旧ザイールのヤンブクという町の名が付けられるのですが、命名者があまりにもむごいヤンブクの惨状に心を痛めてそれを避けたのです。

 カテゴリーAにランクされている細菌で、炭疽菌と同じくらい生物兵器として使用頻度が高そうなのが、野兎やと病です。野兎のうさぎと書いて『やと』と読みますが、その名の通り野ウサギに潜む細菌で、これも安定した菌ですので、エアロゾルにして撒くことが出来ます。

 それから重要なものとして、ペストが挙げられます。中世に黒死病と怖れられた疫病です。まあ、あの時猛威をふるったのは、もちろん公衆衛生上の問題もあったでしょうが、宗教的理由で猫を殺しすぎたというのも原因の一つという説もあります。日本では、猫を殺すと7代祟ると言いますよね」

「ホントにもう、よくご存じで」と由利子は言った。「あの頃は本当に嫌な時代だと思いますね。猫にとっても女性にとっても。ところで何故猫?」

「ペストの宿主はノミですが、それを媒介するのがネズミなのです。ネズミを捕獲していた猫を殺し尽くしたためにネズミが増え、ネズミにペストが蔓延した結果であるという見解です(※)」

「なるほど、ここでも宗教が感染症を広げる役割をしたわけですね」と、これは葛西。

「そうです。まあ、イエスさまが生きていたら、猫が悪魔の使いだから殺せなんてことは、言わなかったでしょうけどね。もちろん魔女狩りも。全て宗教の名を借りた、人間の欲望が招いたことです。因みにペスト菌にも有効な抗生物質がありますが、抗生物質の乱用による耐性菌も出てきています。これは、結核菌にも言えることです。もし、意図的にそのような菌株あるいは遺伝子操作で抗生物質に耐性をつけた菌株を撒かれた場合、対処が困難になります。地域的には中世の再来のようになるかもしれません」

 そこで、葛西がそっと手を挙げた。

「ジュン、なんでしょう?」

「エボラウイルスには、O教団の教祖も興味を持っていたって聞きましたが……」

「ええ、わざわざ部下にアフリカまでウイルスを探しに行かせたといいますね。しかし、アレはまだ宿主がコウモリらしいとしかわかっていませんし、当時はそれすらも確定ではなかったですから、ウイルスをゲットしようがなかったでしょうね。よかったよかった」

「まったくだわ! あんなキチ○イ集団があんな危険なウイルスを持つなんて、文字通りキ○ガイに刃物だわ」

 由利子は眉間に皺を寄せながら、厳しい口調で言ったが、はっとして続けた。

「ひょっとして、今回のテロはそれを手に入れたO教団の残党が……?」

「それはないでしょう。今のところ彼らにはそんな力は無いと思います。それに、同じグループに同じ犯罪を起こさせるほど日本の警察も甘くないでしょうし、エボラやマールブルグなら、調べればすぐにわかります。

 少なくとも、今回のウイルスは、既存のウイルスには合致しませんでした。旧ソ連がエボラだったかマールブルグだったかを、遺伝子操作して強力に兵器化したものに成功しているという話もありますが、それが実在し彼らが手に入れたと仮定しても、それでも同じ種類のウイルスですから、調べればどちらかの抗体反応があるはずです。その仮定はありえません。それに、彼らは炭疽菌やボツリヌス毒素の失敗で、生物兵器を扱う難しさがわかっているはずですから」

 それを聞いて、由利子が怪訝そうな顔をして言った。

「そんな面倒くさいものを、どうしてテロリストは使おうと考えるのかしら?」

「いい質問です、ユリコ。病原体を兵器に使うというのは、アイディアとしてはユニークですが、生物兵器は兵器としてはデメリットが多い不完全な兵器なんです」

「不完全?」

「そうです。まず、これは()()()()()()()()()()でもありますが、病気は密かに拡がりますから効果がすぐにはわからない。さっき出たマンガでは、ウイルスを浴びた人が、その瞬間血を吹き出して即死するシーンがありますが、実は生物兵器ではそれはあり得ません。感染症には潜伏期間がありますし、それに、その場で死んでしまった場合は病気を拡散させることが出来ませんよね。って、フィクションの世界にちょっと野暮なこと言ってしまいました。でも、あれは僕も大好きなマンガなんですよ。

 さて、効果がすぐにわからないと言うことは、それが成功か失敗かがすぐにはわからないと言うことです。ですから、失敗した場合、すぐに次の手段を講じると言うことが難しいのです。

 そして、これが一番の問題点ですが、ブーメラン効果です。これは、どこかの野党が与党を攻撃するたびに食らっていましたが、まあ、似たようなことです。例えミサイルや爆弾で遠くを攻撃したとしても、風向きや、感染症の広がり具合によっては、攻撃した方にも被害が拡がる可能性があるのです。また、その病気がもし、パンデミック……世界的流行ですね、を引き起こした場合、戦争の勝ち負けなど関係なく、世界が壊滅的な状況になりかねない。さっき言った耐性菌や、エボラなどを強化した遺伝子操作ウイルスの場合、特にそういう危惧があります。

 しかし、生物化学兵器は、貧者の核兵器と言われているように、低いコストで核兵器に匹敵する威力を持ちうる兵器です。ですから、経済的に厳しい国でも持つことができますね。ところが、生物兵器の開発に積極的だったアメリカですが、1969年にニクソン大統領が攻撃用生物兵器の開発中止声明を出しました」

「アメリカがですか? 意外ですね」

「案外、裏があったりしてね」

 葛西は素直に驚いたが、由利子は若干穿った見解を口にした。

「スルドイですね」

 ギルフォードは由利子を見てにっと笑って言うと続けた。

「これは、ベトナム戦争での枯葉剤使用に対するダーティーなイメージを払拭しようとする意図もありますが、その真意は、それよりも、『貧者の核兵器』といわれる生物兵器を多くの国が持つことを良しとしなかったからです。

 十分な核兵器を持つアメリカ合衆国にとって、不完全な兵器である生物兵器を持つメリットはあまりないことに気がつきました。しかし、自国だけが中止したところで、核に匹敵するレベルの兵器を多くの国が持ってしまうと、当然アメリカの軍事力との差が縮まってしまいます。攻撃用生物兵器開発中止声明の後、アメリカが中心となって、1972年に生物兵器禁止条約がまとめられ、炭疽菌の時にも言いましたが1975年にこの条約が発効されました。しかし米ソを中心として72カ国が調印したにもかかわらず、アメリカを信用していなかったソ連は、その後も鉄のカーテンのなかで大々的な研究開発を続けてきたのです」

「だけど、そのソ連が崩壊して、その生物兵器のノウハウや病原体が他国に流出したということでしたね」

「そうです。そして、そこから今度はテロリストの方に流れていった可能性もあるのです」

「国家自体がテロリストレベルの国もありますよね。」

「そうです。そして、9.11のテロや、その後頻発する自爆テロからもわかるように、死ぬことを恐れない連中にとっては、自分が感染することも、ブーメラン効果も意に介さないでしょう。ですからテロに使う場合、安価で手に入る、あるいは製造できる生物兵器は、実に都合がよいのです。さらに、種類によっては土壌や身近な生き物から得ることも出来ます。安価で核兵器並みの恐怖を世界にもたらすことが出来るのです。まさにテロにうってつけだと思いませんか?

 また、すぐに効果が現れないと言うことは、実行犯が病原体を散々ばら撒いた後から悠々と逃げることが出来るということです。騒ぎは十分な距離まで逃げおおせた頃に起きるので、犯人達はその成果を、安全圏でお茶でも飲みながら、テレビやネットで悠々と見ることも出来るのです」

「なんか、だんだん腹が立ってきちゃった」

 由利子が言った。

「何で、そんなことが平気で考えられるの? 平気で実行できるの?」

「確信犯と言うものはそういうものですよ、ユリコ。人間は自分が正しいと思ったら、どんな残酷なことでも出来る生き物ですから。戦争なんてみんなそうでしょ」

「確かにそうだけど……」

「でも!」

 と葛西が口を挟んだ。

「テロに関しては、何故そのようなことが起きるのか、原因を考え、その元を正していけば、ゼロにはならないでしょうけど、減らすことは出来るんじゃないでしょうか」

「まさにそうです、ジュン。どこかの国のように、軍事力に任せて叩くだけでは減らせないのは確かです。むしろ、憎しみを増長させ、テロを増やすことになりかねません」

「すでに、そうなっているような気がするな……」

 と、由利子がつぶやいた。

「そうですね。ベルリンの壁が壊されてソ連が崩壊して冷戦が終わり、これからは平和な世界が来るかも知れないと、一瞬期待はしましたが、現実はそんなものじゃなかった。むしろ二大対立の構図が無くなった分、世界の力関係がわかりにくくなってしまった。そして、その構図はそのままイスラムとそれに敵対する宗教と言う形にシフトしました。それにロシアや中国の民族紛争などが加わって、もうぐちゃぐちゃです」

「そういえば、さっき葛西君がテロには起きる原因があるって言ってましたが、今回の事件にも何か原因とか思想とかがあるんでしょうか」

「もちろんあるでしょう。しかし、今は何もわかりません。それがわかれば、対処の方法がわかるかもしれませんね」

「今度のウイルスが、パンデミックを起こす可能性はあるんですか?」

 と、今度は葛西が尋ねる。

「感染力自体は弱くないようですが、今のところ、空気感染はしていないようですし、眼や粘膜・傷口からウイルスが直接入らない限り、感染は難しいと思われます。ですから、爆発的に世界中に広がると言うことはないと思いますが……。ただ、気になるのは……」

「遺体を食べたゴキブリのことですね」

「そうですが……」

 ギルフォードは、ものすごく不愉快な顔をして言った。

「スミマセン、ユリコ。それ、ストレートに言うの、止めてくださいませんか?」

「了解。アレクの弱点っての、忘れてました。で、あれが……」

「あの、『あれ』っていうのも、アレクと被るからやめてください。せめてムシとかGとか」

「いちいちうるさいわね。で、そのGがウイルスを広げる可能性はあるんですか」

「それが、マサユキ君のお祖母さんについていたGは、河原で大量に死んでいました。しかし、その数は把握してませんから、生き延びた個体がある可能性も否定できません」

「はっきりしないなあ」

「あの、由利子さん、それはしかたありませんよ。まだあまりにもデータが少なすぎるんですから」

 と、葛西がギルフォードをフォローした。

「そういうことです。これからすべきことは、ウイルス拡散の範囲とその阻止、病原体の特定と治療方法、事態についての広報とパニックの防止です」

「病原体の特定はどうするの? 確か、日本では調べる設備が使えないって……」

「エボラ流行でレヴェル4の実験室は使えるようになっているのですが、やはり、今回の新種ウイルスに関しては正体不明のため反対派が根強いようで、なかなか……。でも、マサユキ君とおばあさんからいただいた献体を、CDCに送っているはずです。そろそろ届いている頃ではないでしょうか」

「そうですか。それなりに手配はされているんですね」

「まあ、そのくらいは当然でしょう。本当は自分の国でやるべきなのでしょうけど……」

「そうですねえ……。だけど」

 と、由利子は周りの景色を見回しながら言った。

「とても、そんな疫病が身近に迫って来ているなんて思えない……」

「そうですね……。とても平和で美しい風景です」

 ギルフォードが相槌を打った。葛西はそんな二人に向かって言った。

「みんなでがんばって守りましょう。僕らの街をウイルスから」

 二人は頷いた。日はすっかり傾いて、潮もだいぶ満ちてきた。海辺のせいか、この時期にしては風が少し肌寒い。

「ああ、もう6時を過ぎてしまいましたね」

 ギルフォードが時計を見ながら言った。

「お話が面白かったので、時間の過ぎるのが早かったからですね!」

「ああっ! 忘れてた! 美葉に今夜の待ち合わせとか連絡しないと!」

「オ~!いけませんね。早く電話してあげてクダサイ。今頃電話の前で首長竜になってますよ」

 由利子は焦って携帯電話を取り出した。


※参考:猫とペスト

 ただし、本格的な魔女狩りは17世紀以降で、中世の黒死病蔓延とは時代が異なるようだ。


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