メルヘンのまちからの刺客
【陽菜】
顔を洗ってトイレから出てきた林は、もとの座席に腰掛けた。顔を豪快にジャブジャブと洗ってきたようで髪も濡れている。彼は皆の方に向かって悠々と片手を上げた。
「胃の中のものを全部吐きだしたらずいぶん楽になりましたよ。いやもう元気ハツラツです。ご心配なく皆さん。林は復活しました!ありがとうありがとう」
西田は不機嫌そうな顔をしている。
「まったく汚い話を……。私、カレー食べてる最中なんでやめてくれます?」
○○○
夜9時を過ぎた頃、喫茶『米騒動』に新たなる客が入店してドアベルをカランカランと鳴らした。入ってきたのは長い黒髪の女性客である。陽菜はトレーを抱えたまま彼女に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「ああ陽菜ちゃん。お母さんお元気?今日から貴方はお仕事だけど頑張ってね」
「……え?」
陽菜は客の顔を見たのだが、彼女は知り合いではない。何故に初対面の人物が自分の名を知っているのか不思議で首を傾げる。新客はそのことには触れず、そのままカウンター席に座った。
「小矢部からは遠かったわマスター。高速使わないと1時間半もかかるんですよ。疲れたんで、さっそくコーヒーお願いしますね」
「いらっしゃい夢路さん。こんな時間に来るなんて珍しいね」
夢路という客もまた喫茶『米騒動』の常連客らしい。見たところ年齢は40代の後半といったところだろうか。林がテーブル席からにこやかな笑顔でこの新客に会釈すると、彼女は顔を少し歪めた。
「げっ。林さんもいたんだ」
「ちょっとなんですか!私いつも、いるじゃないですか」
陽菜はまたまた中村に小声で尋ねてみることにした。
「あの……中村さん。今の方は……?」
「あの人は夢路さんっていう人やちゃ。まあ結構、不思議な人なが。言い方を変えるとエキセントリックとも言うわね」
「なぜ私のことを知ってたんでしょうか?」
「さあ……謎の多い人やから……。なんのせ小矢部からここまで通ってくるぐらいやし」
「へえ!小矢部って、もう県境じゃないですか」
小矢部というフレーズにピンときた林。ここが陽菜との会話のチャンスとばかりに張り切って立ち上がった。
「ゴホンッ。そうそう陽菜ちゃん。小矢部市のことを教えてあげようか?あそこは石川県に近いんだけど……」
しかし陽菜と中村は背後から話しかけてきたオッサンの存在に全く気づかない……。
「なんで私を知ってるんだろう」と思わず顎に手をあてて考え込みだした陽菜の背中を、中村がポンポンと叩いた。
「そんな心配せんと。後で夢路さん本人に聞いてみられよ。陽菜ちゃんがここでアルバイトはじめたことを、お母さんが伝えたのかもしれんねか」
「そうですね!そうします」
全力でスルーされてしまった林は、そのまま2人の隣にいた西田の傍によって話しかけた。
「小矢部市って知ってます……西田さん?」
「なんで俺に聞いてんですか!?知ってるよ」
あまりに悲惨だったので西田は、林を指差しながら陽菜達の会話に割って入る。
「ちょっと……おふたりさん。林さんが話したいことがあるそうなんで聞いてやってください。どうせショウもない話なんでしょうけど」
「はい?」
クルリと回って林の方を向いた陽菜。すると林は渋い柄のネクタイを直し、妙に改まって小矢部市についての話をはじめた。
「あの陽菜ちゃん。『メルヘンの街おやべ』知ってる?」
「めるへん……ですか?」
首を傾げてキョトンとした表情で林の顔をみつめる陽菜。彼女には心なしかオッサンの顔がトマトに見えていた……。だがはじめてマトモに陽菜と会話することになったオッサンは、そんなことなど露知らず。動物園のキリンを見つめる子供のように……無垢な表情の陽菜に見つめられてマックスハイテンション。そして彼なりに死ぬほど気合を入れて小矢部について語り始めた。
「あのね、あのね。小矢部市ってなんでかメルヘンを推してんのさ。例えばメルヘン米とかメルヘン建築とか、ついでに木曽義仲なんかをアピールしてるんだね。ある意味でメルヘンという概念の新境地だろう?まあでも最近はアウトレットができてちょっと様相が変わってきた……」
しかし夢路が両手の手のひらで突然バンッとカウンター席を叩き、立ち上がった。彼女は林にグイグイ詰め寄ると、すぐさまそのネクタイを掴んだ。
「え!何すんの夢路さん」
「お前、今ちょっと小矢部市をバカにしただろ!いやかなり馬鹿にしたな」
「違う違う!いや私はただ事実を陽菜ちゃんに伝えたくてですね……。メルヘン米やメルヘン建築は重要な情報だと思うんですよね」
「いいや、その後だよ!『なんで県外人の木曽義仲をフィーチャーしてるんだ小矢部市は』って馬鹿にしただろ。そんな波長を感じたぞ。『倶利伽羅峠の戦い』を知らんのか貴様」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!」
なぜか喧嘩の原因となってしまった陽菜は、慌てて両手を突き出して仲介に入る。
「あのっ。私ちゃんと分かってますから!お二人とも落ち着いてください」
しかしお構いなしに夢路は林をヘッドロックしはじめた。
「貴様は死ね!」
「ちょっとっ。夢路さん何すんのぉぉ」
四十路男女の見たこともない醜い喧嘩を前にしてハラハラする陽菜をよそに、西田はさきほどの復讐とばかりに夢路の意見に同調した。
「林さんは絶対バカにしてますね〜。県庁所在地の奢りを感じますよ」
すると隣にいた中村はその太い両腕で西田の背を押し、2人の方向にグイグイと押し出す。
「いいからっ!西田さん。アンタ喧嘩を止めてこられま」
「ちょっ!勘弁してくださいよ。夢路さんがああなっちゃうとマスター以外には手がつけられないんだからっ」
だが中村の力に押し負けて夢路の前に出されてしまった西田。するといきなり夢路が全力でブン回してきた椅子のクッションで後頭部を殴られてしまった。
「ぐぁっ」
「西田さん邪魔ぁぁぁぁ!どいて」
そのまま西田はすぐに撤退してしまい、全く頼りにならない。しまいにヒートアップした夢路は女子プロレスラーのように、椅子を掴んで持ち上げる。どうやら椅子で林を殴るつもりらしい。
「きゃぁっ」
陽菜は思わず顔を手で覆った。さすがにいつも笑顔のマスターの顔もこわばっている。
「あの〜夢路さん。店が壊れちゃうんだけど……」
マスターの一言で我に返った夢路は、息を切らして持ち上げていた椅子をそっと降ろす。
「はっ!私としたことが……」
乱れた背広をなおしながら林は起き上がり、反論する。
「いや貴方いつもこうですよ!」
「申し訳ない。実に申し訳ない」
夢路は全員に向かって頭を下げる。こうしてあっさりと米騒動に平穏が戻った……。