新米ウェイトレス参上
富山県の東部に滑川市という小さな市がある。その滑川市沿岸部の海の見える場所に風変わりな喫茶店があった。店の外観はオシャレな洋風スタイルで、一般的な喫茶店とさほど変わらないのだが、店の前の立て看板が異様なのである。
なにしろ看板には「米騒動」という歴史的事件の名が記されており、それが建物が醸し出す異国風味の雰囲気を全て打ち消している。しかし店のオーナーはそれで一向に構わない。何しろこの「米騒動」こそがこの喫茶店の誇るべき名前であるのだから。
この妙ちきりんな喫茶店にはいつも数人の常連客がたむろしていた。彼らは皆、富山県民ではあるものの、その出身地域は異なっている。富山市、立山町、上市町、魚津市、高岡市……など様々な地域に及ぶ。
郷土をこよなく愛する滑川市在住の喫茶店マスターのもとで、平均年齢ちょい高めな常連客は地元について語り合い、時に議論しあうのがこの店の定番なのであった。
そんな不思議な喫茶店の前に、不安そうな表情をした少女の自転車が止まった。リボンで横髪を纏め、学生服を身にまとう彼女はこの店の客ではない。今日から1ヶ月間、この店でウェイトレスをする藤井陽菜という名の高校生なのだ。出身はもちろん滑川市である。わけあってこの喫茶店で働くことになったのだ。自転車から降りた少女は「米騒動」と書かれた看板の傍まで来たものの、店内に入るのを躊躇している。店の前で意味もなくスカートの埃を払ってみたり、手鏡を見ながら前髪を直してみたりして無駄に時間を潰しているのである……。
『もうすぐ約束の時間になっちゃう。でもちょっとこの店は大丈夫なのかしら……。絶対におかしくない?』
彼女が不安になっている理由は、店内から聞こえてくるオッサン同士の言い争う声だ。中から
「黙れっ!遊園地もない富山市民のクセに。貴様らなんてメリーゴーランドの代わりにセントラムに乗って永遠に街中をぐるぐる回ってろ」
だの
「よく言いやがったな〜魚津市民がっ!蜃気楼なんて金にもならない観光資源を持ちやがって!出現が不意打ち過ぎて困るから、なんとかしろっ」
だのと言ったくだらない……そして独特な罵声が聞こえてくる。その怒声が外まで響く度に陽菜は思わず目をつぶってキュッと身をすくめてしまう。
「こわっ!本当にこんなところで私アルバイトしないといけないのかしら!今からでも遅くないわ。辞退しようかな……」
店の前に隠れていても仕方がないので、彼女は少しだけ扉を開けてドアの後ろに身を隠しながら恐る恐る中の様子を覗くことにした。まるで事件現場を目撃する家政婦のように……。するとあろうことか背広を着たサラリーマン同士が胸ぐらをつかみ合っているのが見える。
「ちょっとやだっ!あの人たち本気で喧嘩してるじゃない。大丈夫なのこの店!?」
陽菜は後ろを振り返って改めて看板を確認した。確かに看板には喫茶「米騒動」と書いてある。飲み屋でも賭博場でもない。何故に2人は喧嘩しているのか?その原因はまるで想像つかない。しかしどうやら互いの地元の名誉をかけて言い争っていることは想像できた。
他の客達が普通に談笑してる中、互いのネクタイを掴み合うオッサン2人はギリギリまで顔を近づけ合い相手を罵っている。
「だったらもう魚津なんて埋没林と一緒に埋没してろっ!海の底に沈め!」
「な……なんだと貴様!謝れ。俺じゃなくて全魚津市民に謝罪しろ」
「魚津市」とは富山県の東部に位置する市であり、「埋没林」とは魚津市の観光スポットの1つなのだ。
「嘘でしょ!なんなのこの喧嘩。小学生なのかしら、あの人たちは!」
と思わず叫んでしまった陽菜は「しまった!」と慌てて右手で唇を押さえる。幸い店内の誰も陽菜が覗いてることにまだ気づいていないようだ。
愛する地元を侮辱されたことに怒った長身のサラリーマンは、両手をグッと伸ばし中肉中背のアラフォーのサラリーマンの胸ぐらに掴み持ち上げている。彼らは互いの胸ぐらを掴み合っていたものの、リーチに優る魚津サラリーマンがこの勝負には優勢であったために、侮辱した側はあっさりと降伏した。
「こ……こらっ!そこそこ本気で引っ張るんじゃない。首が締まるってのっ。謝るからっ!全魚津市民の皆様ごめんなさい」
「いいや許さんぞ〜!アンタを埋没林と一緒に富山湾に沈めてやるっ」
いい加減に見かねた客の1人が2人の間に割って止めに入っていく。勇敢な彼女は高岡市在住のオバサンであり、背は大きくないものの男2人を引き離すに十分の迫力を持った体格をしていた。
「ちょっと落ち着つかれまっ!西田さん」
力士のようなパワーを誇る彼女の張り手でドシドシと横っ腹を押されて、怒れる魚津在住サラリーマンは相手から手を離し、そのままバツが悪そうにカウンター席についた。彼は脇腹を押さえてさすりながら不満を呟いた。
「いっつ!ちょっと不意に張り手をかまさないでくださいよ中村さん!貴方の本気なんだから」
「ごめんねぇ。西田さんが本気で林さんを富山湾に沈めそうだったからつい」
「あんなの美しい富山湾に沈めるわけないじゃないですか……。いたたた」
もっとバツが悪かったのは、あっさり謝罪に追い込まれた中肉中背の富山市在住サラリーマンである。彼は乱れたスーツを直し、髪をポリポリと掻きながら、テーブル席に戻った。
「いや~参った。蜃気楼のことで西田さんがあんなに怒るとは思わなかったな。魚津市民の心は分からん」
揉める客達をよそに店のマスターである佐藤淳二は、カウンターの中で平然とコップを拭いていた。中曽根元総理のような髪型をしている彼は、口元に白ひげを蓄え老眼鏡をかけた60代の男性である。店の名前を「米騒動」などという不穏なものにするぐらい郷土愛に溢れている男だ。
陽菜は店のドアから離れて、今度は窓の横に立った。そして窓に背を向けながらしゃがみ込み、時々ちらっと振り返って店内の様子を伺った。まるでスパイのように。しかしながら真夏のこの時期は夕方でも蒸し暑い。ハンカチを取り出し、首元の汗を拭いながら中に入るべきか迷っていた……。
「どうしよう……。変なところに来ちゃったよ。マスターは優しそうなお爺さんだったのに」
彼女はマスターの動じない態度が不思議でならない。
『マスターはなんであんなに落ち着いてるのかしら?あのオジサンたち危なくない?』
陽菜の心配をよそに、彼は微笑みを浮かべながら渋い声でゆっくりと語りはじめる。
「まあまあ、2人の喧嘩なんていつものことじゃないの中村さん。しかし林さんの他市に勝負を挑むスタイル。僕は嫌いじゃないな」
マスターの懐の深さは常連客達にとっては魅力の一つである。しかし……窓越しに中の様子を伺っていた陽菜は彼の発言に首を傾げざるを得なかった。
「どういうこと?意味がよく分かんない……。マスターってこんな人だっけ?」
右の拳を顎にをあてて考えてみたがさっぱり理解ができない。
もちろんマスターがこの件で富山市民の林に肩入れするのは、西田にも面白くない。彼はマスターがさし出したコーヒーを飲みながら、ついついくだらない文句を言ってしまう。
「県庁所在地には甘いなあマスターは……。お子さんが富山市民だからって、林さんに肩入れしなくてもいいですよ」
「それは誤解だよ西田さん。私は県全体を平等に見てるつもりだよ」
林はテーブル席から拍手を送った。
「いよっ!さすがマスター」
西田はため息を一つつくと、カウンターを中指でトントンとイラだたしそうに叩く。
「そもそも『米騒動』だって魚津が発祥の地と言われてるのに……。寺内内閣を総辞職に追い込んだのは魚津市民の力なんですよ。富山市民じゃない」
林はお冷をグビッと飲むと、テーブルにドンと置いた。
「なんちゅう自慢だ」
しかしこれ以上、西田と言い争っていても不毛である。そこで富山市在住の林はカウンターの方に体を向けて、どうでもいい疑問を常連客達にぶつけることにした。
「しっかし皆さんは揃いも揃ってプレ金なんですなあ。ある意味で東京より先端的ですねここは」
常連客達はいっせいに反論する。
「アンタもそうやろっ!3時半からこの店に来とんねか。早すぎるわ」
ここぞとばかりに西田はマスターに訴える。
「マスター!林さんはカレー1皿だけで2時間も粘ってるんですよね。営業妨害ですから追い出したらいいんじゃないですか?もう出入り禁止にしちゃって」
「はははは。まあまあ。皆さん、落ち着いて」
とりあえず喧嘩が収まったのを見届けた後で、少女はそうっとしゃがんで窓の下に隠れた。
「ふうっ。やっと収まったかな。本当に変な人たち……」
そして彼女は胸に手を当てて深呼吸をする。この中には想像もしてなかったヘンテコな大人の富山ワールドが店内で広がっているらしい。かつてあの輪の中に自分の母親も加わっていたのだと思うと、不思議な気持ちになる。少女は夕暮れの空をふと見上げた。
その時、マスターは店の時計を見て呟いていた。
「そろそろ5時46分か。もうすぐ店に来てもいい頃なんだけどな。どうしたんだろう」
この言葉に陽菜はハッとした。慌てて左手にはめた腕時計を確認する。
「もう1分過ぎてる!行かなくちゃ!」
彼女は慌てて立ち上がる……。一方、店内のテーブル席ではカレーを頬張っていた林がマスターに尋ねていた。
「どしたんですかマスター。なんか嬉しそうですね」
「いや、今日からね。アルバイトを雇うことにしたんだ。でもってその子は高校生なんだよね。それも女の子で……」
「高校生ですか!?こんな変な店にそんな若い子が?いいのマスター?」
「こんな店って。うちは変な店じゃないでしょ。それにね。皆さんも彼女に会ったら驚くと思うんだな。それが僕が今から楽しみなんだな〜」
常連客達にはマスターがニコニコと笑ってる理由がイマイチ分からないのであった……。
○○○
陽菜はドアのレバーを握って覚悟を決める。まるでお化け屋敷に入るように目を瞑って……。
「えいっ」
午後5時47分。カランカランとドアベルを鳴らし、リュックを背負った陽菜が店内に入た。
「ああ、いらっしゃい。待ってたよ〜」
店の中に入ってきた陽菜にマスターは手招きをする。突然の新参者に喫茶店内はざわつきはじめた。何しろこの中高年だらけのディープな喫茶店に、部活終わりの女子高生が入ってくることなど富山湾にダイオウイカが現れることよりもずっと珍しいことだからだ。
陽菜は恐る恐るカウンターの中に足を踏み入れる。呆気に取られていた常連客達はようやく先程のマスターの話を思い出した。
「マスター。この娘が……?」
「皆さん、紹介しますよ。8月いっぱいまでこの店のお手伝いをしてくれることになった藤井陽菜さんです」
常連客達の呆然としてる様子に少し戸惑いながら、陽菜は彼らにペコリと頭を下げた。
「よ……よろしくお願いします!」
目一杯微笑んだつもりだったが、表情は恐ろしくぎこちなく固まっていた……。逆に常連客の林はテンションが上がっている。
「ははは。なんか店内の平均年齢がぐっと下がりましたね〜。女性の平均年齢に至っては53歳でしたもんね。今日は」
「それ私の年齢やねかっ!やっぱりこの人は富山湾に沈められるべきやったわ」
「あだっ!顔に張り手って中村さん!」
高岡在住のオバサンこと中村は林の顔に張り手をいれつつ、突然入ってきた学生服姿の少女に知ってる人物の面影を感じていた。
「しかしまぁ〜随分と笑顔の固い子やわね〜。ところでマスター。この子って、もしかしてあの人の……」
マスターは人差し指を口にあてた。
「しっ。他の人達はまだ分かってないから。皆さんまだ分からない?」
客の一人ひとりに確認するも、皆キョトンとした顔で首をひねるだけだった。恐る恐る林は尋ねる。
「もしかしてマスターの……愛人ですか」
「そんなわけがないやろっ!」
見かねた中村は少女の正体を明かしてやることにした。
「だからこの子の名前は藤井やぜっ!前までよくココに来とった藤井さんておったやろ!?あの人の娘さんやねか」
実は藤井陽菜の母親は、この店の常連客だったのである。気づかれなかったことに微妙な思いを抱きつつ……。少しはにかみながら陽菜は自己紹介を始めた。
「はじめまして。藤井涼子の娘の陽菜です。皆様には母がお世話になっていたそうで……」
ようやく合点がいった常連客達なのであった。
「あ……ああ。あ〜!滑川至上主義者の藤井さんか。そ……そういえば娘さんがいるって言ってましたね。もちろん分かってましたよ僕は。なんで分からないかなあ西田さんは」
林は立ち上がって、笑顔で西田の肩をポンッと強めに叩いた。
「この子も一度だけ店に来たことがありましたね。あん時はまだ小学生だったなあ。言われてみればお母さんそっくり。そんなことも忘れたんですか林さんは」
西田は林の肩を同じ強さで叩き返した。
「あはは……」
陽菜は困ったような、それでいてオッサン達には眩しすぎるほど……幼くて無邪気な笑顔を浮かべている……。
こうして藤井陽菜は、喫茶米騒動での初めてのアルバイトをすることになった。ウェイトレスの格好になった彼女は、この中高年だらけの異空間でホタルイカのようにキラキラと輝くことであろう。