「隣人」(夏のホラー2016投稿作品)
かなり昔の話だ。
僕の住んでいたアパートはどこか変だった。
いや、アパート、と言うより、僕の隣の部屋が。
駅まで7分で1LDK家賃4万9千円、優良物件だと思ったが、しばらく暮らしてみて家賃の安い理由はこの隣の住人が原因なのではないかと思い始めた。
なんと言うか・・・とにかく部屋から出てこないのだ。
僕だって大学が休みの日には一日中部屋に籠ることもある。ゲームや本に夢中になる事もあるし、どちらかと言えば引きこもり気質な方だった。
だけどお腹がすけば買い出しに行くし、トイレにだってシャワーを浴びにだって、とにかく生きていく為に必要な事は普通にしている。
だけどお隣さんは少し変わっているようだ。
まだ一度も会った事がないので、どんな人かもわからないけど、とにかく変わっている。
たぶん、男。
中年か・・・老人、これはカンだけど。
僕がお隣さんに興味を持ち始めたのは、ここに引っ越して来てからひと月あまりが経ってからだった。
その日、ハマっているゲームのガチャでお目当てのキャラを引き、僕は部屋の中で思わず大声を出してしまった。
その瞬間、
ドン!
隣の部屋からかなり強く壁を叩かれた。
築30年、安普請の木造アパートは実家とは訳が違った。
隣の部屋とは本当に壁一枚しか隔てるものが無かったのだとその時知った。今までも何か色々聞かれていたのではと考えると頬が熱くなった。
すみません、と大きめの声で謝り、スマホにイヤホンを刺した。
そして悪い事をしたなぁ、と思うと同時に、ちょっとだけ腹が立った。何も言わずに壁をドンはないだろう。自分だって音を立てる事もあるだろうに。
僕はそうっと壁に近づくと、耳をつけて隣の音を聞いてやる事にしたのだ。
ひんやりした壁に耳をつけ、向こう側を伺う。なんかスパイにでもなった気分だった。
少しドキドキしながら耳をそばだてて音を拾うと・・・
なんの音もしなかった。
あれ?寝てるのかな?こんな真昼間から・・・さっきは起こされて不機嫌になったのかな?
と、思ってすぐつまらなくなり、耳を離そうとした時
ゴト
と音がした。
何か硬いものか落ちたようだった。
しばらくして今度は
ズリ
と聞こえてきた。
石のような・・・金属のような音。
人の声やテレビの音は聞こえない。ただまたしばらくするとズリ、と聞こえるだけだ。
なんか不思議な気もしたが、5〜6回も聞いていると飽きてきて、それ以上は聞くのをやめた。
変わった人が住んでるんだなぁ、とそのときは思っただけだった。
だけどその日をきっかけに、それは始まった。
その翌日から音が聞こえてくるようになったのだ。
特に聞き耳を立てているわけでは無いのに、この安普請のアパートは深夜隣の音が丸聞こえになるらしい。
寝ているときに聞こえてきた音で全身の毛が逆立った。
ズリ
何か重たいものを引きずっているような音。
ズリ
しかも少しずつ。僕の部屋の壁に近づいている。
そう考え出すと背筋がゾワゾワした。
ズリ
僕は布団を頭までかぶり何も聞こえないと自分に言い聞かせた。
ズリ
その音は朝まで続いた。
……………
音は毎晩聞こえてきた。恐らくは昼間も音は続いている。しかし昼間の喧騒で音が目立たないだけのようだ。一日中部屋の中で何かを引きずっている。
それが夜になり、静かになると僕の部屋まで響いてくるのだ。
もしかしたら今までもしていたのかも知れない。けど一度気づいてしまったらもう聞こえない頃に戻る事なんて出来なかった。
しかも僕の部屋に近づいてきているような、だんだん音が大きくなるような気がしている。
ある程度近づいて来るとまた遠くから始まる。
不思議な音だった。しかしそれ以上に不気味で不安にさせる音だった。
そしてさらにおかしな事に気がついた。
その何かを引きずるような音以外何も聞こえないのだ。
住人は何日も部屋から出てこない。
僕の知る限り買い出しに行く様子もないし、誰かが食べ物を届けている様子も無い。水道も使わないしトイレも風呂も当然の如く使わない。
まるで誰もいないようだった。
ただ最初の壁を叩かれたのと、毎晩聞こえてくる何かを引きずるような音。それだけが隣に「何かがいる」事の証明になっていた。
「おはようございます。」
ある朝、僕は廊下ですれ違ったおばあさんに目を腫らしたまま挨拶をした。あの音のする部屋を挟んで反対側、201号室に住むおばあさんだ。
「ああ、おはようさん。」
ずいぶんと腰の曲がったおばあさんは僕を見ると嬉しそうに笑った。たまに会って挨拶をする程度だが、ここの住人は皆にこやかで明るい。
それだけに隣の不気味さが際立った。
出かけようとしていたおばあさんと一緒に階段を降りて、アパートから少し離れた所で僕はこの不安を切り出した。
つまり、隣の人の事を。
変な音がする事、何日も部屋から出てこない事。
あのアパートに何年も住んでいる人なら何かを知っているかも知れない。
おばあさんはその話を聞くと「知らないねぇ。」と言って笑った。いつものにこやかな笑顔が一瞬ニタリとした粘着質の様相を見せ、僕は背筋がゾッとした。
「隣はもう何十年も誰も住んでいないよ。」
おばあさんは妙に明るく笑いながらそう言った。
ズリ
音は毎日聞こえてくる。
何年も誰も住んでいないなんて嘘だ。
最初は僕の部屋に近づいてくるような印象があったが、それは勘違いだった。
近づいたり、遠ざかったり、ただ単にウロウロしているようにも聞こえる。
それとも、何かを探しているような・・・
僕は想像をしていた。
重たい足枷を付けられた囚人の姿。
あり得ないはずなのに、何故かその事を考えると背筋がゾワゾワした。
あまり眠れなくなった。
とにかく音が気になって起きてしまう。
大学の講義中が一番よく眠れる。
ズリ
なんとかしなきゃ、そう思った。
……………
コンコン
ある日僕は思い切って隣の部屋をノックした。
「誰か居ますか?」
おかしな質問だと自分でも思ったが仕方ない。おばあさんの言う通り誰もいないのなら誰もいないという証拠が欲しかった。
誰もいないのならあの音もきっと気のせいだ。
そう自分に言い聞かせることが出来る。
音が・・・しなくなった。
あれだけ聞こえ続けていた何かを引きずるような音が、ピタリとやんだ。
誰か出てくるとかと思ったけど、それからしばらく待ってもなんの音もしない。いや、なんの気配もしない。
ゴト
と、思った瞬間音がした。何かが落ちる音。
しかもドアのすぐ向こうだ。
誰か居る。間違いない。
「あの、すみません、隣の部屋のものですけど。」
僕は努めて明るくそう呼びかけた。
「誰かいらっしゃいますか?」
トン
ドアが内側から叩かれた。
間違いなく中に誰か居る。
けど言葉は無い。返事はそのノック一回だけだ。
僕は膨れ上がる不安に背中を押されるように、古臭いドアノブに手をかけた。
少し動いた。鍵はかかってなかった。
ここを開ければ誰かが居る。
心臓の音が聞こえそうだ。ゴクリと鳴った喉の音がうるさいくらい。
カチリ
ドアノブがゆっくりと回った。
「開けちゃいかん!」
「わあっ!」
突然の一言で僕は文字通り飛び上がった。
横を向くとおばあさんがそれこそ鬼のような形相でこちらを睨みつけていた。その顔にまた驚く。あれだけ普段優しいおばあさんがこんなに怒るなんて。
そしてその瞬間
ドン!!
今までに無いくらい強くドアが内側から叩かれた。
「こっちゃこい!」
おばあさんは僕の手を引っ張って逃げるように自分の部屋に連れて行った。
そして熱いお茶を淹れると、「飲め。」と促した。
僕はもう何が起こっているのか理解もできなくて、ただ言われるままに出されたお茶をすすった。
一口飲むと不思議なくらい、心臓の鼓動が収まった。
緑茶の香りに僕が平静を取り戻して一息つく姿を見ると、おばあさんはふうー、と長い息を吐いてやっと笑顔を見せた。
「危ない所だった。あの部屋は開けちゃいかん。」
訳が分からずキョトンとしている僕に、おばあさんはゆっくりと語った。
「あの部屋はもう何十年も誰も住んでいないよ。
けどね、どのくらい前からかは忘れたが何かが住み着いている。それが何かはわからん、毎日ただウロウロとしているね。
私は“あれ”が出口を探しているんだと思ってるよ。たまにあんたみたいに魅入られてフラフラとドアを開けようとする者が出るからね。
“あれ”は自分では外に出られないんだろうね。
“あれ”が何なのかはわからないけど、よくないものだという事はわかる。外に出しちゃダメだという事はわかる。
だからあんたを止めたのさ。」
……………
それから僕はひと月もかけずに引っ越しをした。
信じられない思いだった。
僕は霊感なんて無いとそれまで思って生きていたし、毎晩聞いていたあの音が、霊(?)が出していたなんて。
しかも僕が“あれ”に既に魅入られているなんて。
話の最後におばあさんは僕の身体中に粗塩をふりかけた。気休め、だそうだ。
あそこに居てはいけない。
その思いで必死になって不動産屋を回って次の部屋を探した。
――― あれからもう何年も経つ。
仕事のついでにあのアパートの前を通った事があったが、その時はもう跡形もなく取り壊されていた。
真相は誰にもわからない。
でも時々不思議になる。あれは本当に心霊現象だったのだろうか。
無事に社会人になれて毎日数字と追いかけっこしていると、どんどん考え方がドライになってきて、心霊現象とか不可思議なものを信じられなくなっていく。
そしてあらためて思うのだ。
あれは本当に心霊現象だったのだろうか、と。
想像する。
“あれ”は本当は監禁事件だったのかも知れない、と。
目と舌を潰されて声も出せないようにされた人が、囚人のように足枷を付けられて部屋の中に飼い殺しにされている姿を。
ドアも窓も内側から塞がれ、開かなくなっている薄暗い部屋を。
手の指を潰され、または切断されて逃げられなくされた哀れな姿を。
僕の声が聞こえ、なけなしの力を振り絞って壁を叩いた必死な姿を。
もちろん監禁説にも無理がある事はわかっている。
しかし心霊現象説も少し納得のいかない部分があるのだ。
壁を叩く音、何かを引きずる音は確かに現実のものだ。幽霊らしさなんて逆にどこにも無い。
思えばおばあさんの言い回しも挙動もわざとらしいし、おばあさんがいつも大事に持っていたお孫さんの写真、あの古ぼけた写真に写っている人達は何処に居たのだろうか?
第一大家さんや不動産屋だってそんな何十年も空き部屋を放置するなんてあるだろうか。
真相はもう誰にもわからない。
そして僕はたまに空き地を見に来る。
空き地になったアパート跡には雑草が生い茂り、もう面影すら無くなっていた。
帰り際、せめてあの“ズリ”という音でも聞こえないかと期待したけど、そんな心霊現象は都合よく起こってくれなかった。
僕は今でもなんとも言えないモヤモヤと胸糞悪さを抱えて生きている。
もちろんあれから一度も心霊現象なんて出会ったことは無い。そう、元々霊感なんて無いのだから。
あの出来事はなんだったのか。
それを知る機会はもう、二度と訪れなかった。