四話 君だけが知らない
ざん……ざざん……
波は規則的に寄せては返す。
陽は傾きつつあり、あたりは少し黄色く色づいている。波だって例外ではなく、うっすらと色を乗せている。さながら色あせた写真のよう。まるで現実味はなく、すでに終わってしまったいつかの光景を見ているみたいだ。
今日は結局、小鳥たちに朝食をあげられなかったなぁ、とぼんやりと考えながら、岩に当たって白く粟立つ水面を見ていた。
今頃、冷凍保存された博士の遺体は柩から取り出され、脳内の記憶をメモリーに移し替えているところか。人ひとりのメモリーは膨大だ。ちょっとやそっとの時間では終わらないだろう。
僕と博士二人だけの記憶もメモリーにコピーされる。それは二人だけの記憶が、二人のものでなくなることを意味する。いつか誰かが二人の思い出を不躾な眼差しで解析し、蹂躙するかもしれないのだ。それを思うと、苛立ちが腹の底から込み上げてくる。こんなにささくれ立ったのは生まれて以来、初めてだ。
心を持たないアンドロイドだったら、こんなに苛立ったりしなかったのに。少しだけ『感情』というものを恨めしく思う。
「フォート! ここにいたの?」
息を切らしたセシルの声。
振り向けば彼女は照れくさそうに笑った。
「運動不足でダメね。すぐ息が切れちゃう」
ふう、と大きくため息を吐いた彼女はゆっくり僕に歩み寄り、肩を並べるように隣に並んだ。
「海って綺麗なのね」
「ええ」
短いやり取りの後、僕らは黙って海を眺めていた。
いつもなら気怠い眠気を誘う波音も、今は僕の苛立ちを癒してはくれない。
どのくらいそうしていただろう?
彼女が唐突に口を開いた。
「カレン叔母さまはね、ずっと後悔していたの。あなたに心を与えたこと」
口元に寂しげな微笑をたたえながら、水平線の向こうを見通すように遠い目をした。
「残ると決めたのはいいけれど、孤独が怖かった。だから、あなたに人工知能を搭載した。自分のほうが早く死ぬと分かっていたのに。あなたが孤独の中で長く生きなければならないと分かっていたのに」
僕は先を促すように、沈黙を貫いた。
「それを叔母さまは後悔していたわ」
「……後悔なんてしなくていいのに」
何の感情も持たずに博士のそばにいられたら楽だったかもしれない。
でも、心がなかったら、彼女との思い出は思い出じゃなかっただろう。ただの記録として僕の脳に集積されるだけ。
それはあまりにも虚しいじゃないか。
「僕は幸せでした。博士と同じものを見て、笑いあって、そういうふうに過ごせて、とても――とても幸せでした」
「今は幸せじゃないの?」
「さぁ? どうなんでしょうね。僕はただ、博士との約束を守っていただけです。その約束ももう終わりましたが」
統轄者がこの地に戻って来た時点で、約束は終了している。
僕はこの先どうすべきかを知らないし、興味もない。
「私ね、叔母さまから頼まれていることがあるの。もしあなたが……」
「もし、僕が?」
「あなたが生きることに疲れてしまっていたら……。もし終わりたいと願うなら叶えてあげて、と」
それはなんて甘美な響きだろう。
僕は自殺ができないようにプログラムされている。だから、僕が死ぬ――完全停止状態になるには、誰かにコアを停止してもらわなければならない。
「ここのことを良く知っているあなたをいまの段階で失うのは、私たちにとって大きな損失だわ。でもね、あなたが終わりを望むなら、叶えてあげたいの」
ただし、あなたのメモリーはコピーさせてもらうけど、とすまなそうに眉尻を下げる彼女を、僕はまじまじと見つめた。
本当に彼女は叶えてくれるのだろうか?
「どうしてそこまで親切にしてくれるんですか? 僕は人じゃない。アンドロイドですよ?」
「それが叔母の最後の願いだからというのもあるけれど……。あなたがとても傷ついているように見えるから。――あ! 外見のことじゃないのよ!? あなたの心が」
自分の言葉が誤解を生むと思ったのか、彼女は慌てたように手をぶんぶん振った。
その慌てようが可愛らしく思えて、僕はくすりと笑った。それに安堵したのか、彼女も小さく微笑む。
彼女なら、本当に叶えてくれるかもしれない。そう、思えた。
「博士の記憶の移行が終わったら……。彼女の遺体はどうなるのですか?」
「そうね、彼女の脳はマスターメモリー扱いになるから、しばらくは今までと同じ。地下施設で冷凍保存することになるわ」
彼女が人らしく埋葬される日はまだ来ないようだ。
なら――
「彼女の隣にいて構いませんか?」
廃棄物として捨てられても、再利用のために分解されてもおかしくないこの身。酷い我が儘だと知りながら、言わずにはいられなかった。
「叔母様の?」
「ええ。彼女が役目を終えて埋葬されるその日まで。その後はどのような扱いを受けようとかまいません。だから、それまで、どうか」
「良いわよ」
あっさり承諾されてしまって、逆に驚いた。
「姫の眠りを守る忠実な騎士かぁ。いいなぁ、いいなぁ、そういうの! おとぎ話みたい!」
「は、はぁ……」
楽しげに笑う彼女。今にもくるくると踊り出しそうな勢いに呑まれながら、僕はどうしていいか分からなくてじっと彼女を見下ろした。
人の行動や感情が読めなくて戸惑うのは、本当に久しぶりの感覚だった。
でも、悪くはない。
最後に彼女とこうやって話ができて良かった。
まるで博士と話してるように、楽しい。
「叔母さまのデータ移行が完了するのは明日の朝だと思うの。それが過ぎたら機材も綺麗に片付けるから。そしたら……」
僕なんかに配慮しなくていいのに、彼女は気まずそうに語尾を濁した。
「ええ。よろしくお願いします」
これ以上はないと言うくらい凪いだ気持ちで頭を下げた。
「本当にそれでいいの? ねえ、フォート。あなたさえ良かったら私たちを助けてく……」
「申し訳ありませんが、博士のいない世界に興味はないんです」
彼女の言葉を遮って、僕は岬を後にした。
数歩歩いてから何気なく振り返ってみると、統轄者はもの言いたげな顔で僕を見つめていた。何の感慨もなくじっと見つめ返せば、彼女はいたたまれなくなったのか視線を逸らした。
赤い夕陽を背にたたずむ彼女の姿は博士に少し似ていたけれど、だからどうだと言うのだ。
心のどこかが軋んだ気がしたが、それを無視してまた歩き出した。
明日、長かった時がようやく止まる。その安堵が胸の中で大きく膨らんでいた。
「本当にこれでいいのね?」
統轄者は何度目になるか分からない問いを口にする。
「はい」
僕の答えも何度目か分からない。
「じゃあ、ここに横になって」
彼女の差し示す場所には、いつの間に運び込まれたのか手術台のようなものがあった。
僕は素直にそこへ横たわる。
すぐ横には博士の柩がある。残念ながらこの角度だと彼女の顔は見えないけれど、すぐ近くにいられると言う安堵が胸に広がった。
「じゃあ、始めるね」
胸を覆う人工皮膚を切り裂き、その下からコアを取り出し、スイッチを切る。それだけで終わる。
特に痛みを伴ったりしないのに、メスで皮膚を切り裂く彼女は痛そうな顔をした。それを不思議に思いながら僕はじっと彼女の顔を見つめていた。
やがて彼女の手に、人の心臓ほどのコアが乗った。
「さようなら、フォート。長い間ありがとう。お疲れ様」
「ありがとう、統轄者。あなたの配慮に心からの感謝を」
彼女は泣きそうに顔を歪めた。出会って一日しか経っていないと言うのに、どうして彼女はこんな顔をするのだろう。体の末端から機能が停止していく感覚に身を任せながら、そんなことを考えた。
「最後までそんな他人行儀な呼び方しないで」
泣き笑いの顔で彼女が言うから。僕は最後の力で口を開いた。
「ありがとう、セシル。さようなら」
急速に狭まる視界の中、セシルの目から透明な何かが僕の手に落ちたのが見えた。
――――そうして僕は、全機能を停止した。
統轄者・セシルは、フォートの機能を停止させるとすぐに、研究室へと戻って来た。
昨日、部屋に運び込まれたばかりの真新しい機材が中央に置かれている。すでに稼働は始まっており、かすかな駆動音が部屋に満ちていた。
「叔母さま、全て終わったわよ」
セシルが誰ともなく声をかけると、真っ暗だったモニターの一つが不意に像を結んだ。そこに映った中年女性の顔はそこはかとなくセシルと似ている。
「ありがとう、セシル。私は『叔母さま』ではなくて……」
「はい、はい。分かってるわ、マザー・カレン。箱舟から降りた人々を正しく導く母」
「カレン・C・バーロウの記憶と知識は確かに私の中にある。しかし、それは私のほんの一部に過ぎない」
抑揚の乏しいマザー・カレンの声に、セシルは小さくため息をついてかぶりを振った。
彼女の中にはもう叔母らしい感情はないのか、と。
「ねぇ、叔母……じゃなくて、マザー・カレン。本当にこれで良かったの? カレン叔母さまがあなたに組み込まれ、ベースとなることを知らずに彼は逝ったわ。もし、こうなることを知っていたら、彼は違う選択をしたのではないの?」
「あれは充分に働いてくれた。もう休んでも良いころだろう。それに、私はカレンではない。これから先の時代を生きさせるのは酷というもの」
マザー・カレンの言うことを否定することは出来なかった。
セシルは両手の拳にぎゅっと力を込めて、唇を噛んだ。
自分は統轄者だ、こんなことで心を揺らしてはいけない、と己を叱咤しながら。
これで良かったんだ、間違っていない、と己に言い聞かせながら。
次回完結します。