三話 統轄者
今朝の予報通り、午後は少しだけ雨が降った。
十六時ごろから雷鳴が聞こえはじめ、あっと言う間に降り出した雨は十七時すぎには上がった。
黒雲はちぎれて消え、そのかわりに赤い夕陽が姿を現した。
葉や花に雨の雫をまとった植物たちは、夕陽にその身をキラキラと光らせている。
ああ、もうすぐ一日が過ぎる。
寂しいような、安堵するような不思議な気持ち。
濡れた道をたどって、家から少し離れた岬へと足を運んだ。
ごつごつした黒い岩ばかりのそこは、朝陽も夕陽も見られるという珍しい場所。
むかし、博士の姿が見えない時は、真っ先にここを探しに来たものだ。
赤い夕陽に消え入りそうで、絶対に消えたりしない細い背中。逆光の中の黒いシルエットは、僕が見た光景の中で一番綺麗なもの。どんなに美しい夕焼けも朝焼けも、花も、鳥も、空も、あのシルエットには及ばないだろう。
当時の僕は彼女のその姿を見ても、何も思ったりしなかった。そこにそうあるのが当たり前すぎて、失うなんて思いつきもしなかったのだ。
なのに今は……あのとき彼女が何を考えていたのか、感じていたのか、それを知りたくて仕方がない。
もうどんなにあがいてもその答えは見つからないと言うのに。
かつて彼女のお気に入りだった場所は、いまや僕のお気に入りの場所。
博士を懐かしんで朝陽を眺め、彼女の心を知ろうとしなかった後悔を込めて夕陽を眺める。
波の音を聞きながら飽くことなく眺めているうちに、空は赤から紫へどんどん変わっていった。そして藍色になる頃、僕は後ろ髪を引かれつつ踵を返した。
遠くに我が家の明かりが見える。
家に帰れば寝るだけだし、明るくなれば目覚めて、今日と大して変わらない明日を生きる。
それなりに単調で、それなりに忙しく、それなりに満ち足りた日々。
ああ、でも。
一か月前から『箱舟』へ送り始めたメッセージ。あれが届いてしまったら。この日々は終わる。そうして僕の使命も終わる。ようやく解放される。
さて、僕はどっちを望んでいるのだろう。
この穏やかな日々と、終焉と。
僕は飽くことを知らないから今の生活も楽しいけれど、でも最近は少し疲れてきてしまった。うまく動かなくなってしまった右のひざ。定期便が届かなくなったために、治すことさえできない。そうやって少しずつ体が不自由になっていったら? しまいには動けなくなり、博士との約束だって守れなくなるだろう。
『お願い、フォート。私のかわりに、地球を見守って』
死の床、苦しい息の下から、そう願った彼女に、僕は一も二もなく頷いて見せた。あの約束を守るためだけに、僕はここにいると言うのに。果たせないなら、僕の存在する意味なんてない。
だから、はやく統轄者たちが『箱舟』から降りてくればいいと思う。僕が役立たずになる前に。
でも僕は彼らを待ち焦がれる反面、この日々の終焉を恐れてもいる。
統轄者が降りてきたら、すべてが変わってしまう。僕と博士の築いた世界もすべて過去になってしまう。そうして最初からの約束通り、地下に冷凍保存している博士の遺体を彼らに渡さねばならない。たとえ亡骸といえど、彼女と引き離されてしまうのは嫌だった。出来ることなら、僕はずっと彼女の墓守でありたい。
ああ、本当に。僕はどっちを望んでいるのだろう。
自分の心だと言うのに、よく分からない。感情と言うのは本当に不思議なものだ。
ビィー! ビィー! ビィー!
けたたましい警告音に、眠りを破かれた。
こんなことはしばらくなかったことで、僕は慌ててベットから飛び降りた。靴を履くのももどかしく、パジャマのまま一階へ走り降りた。
研究室への短い道すがら、どこかで大規模な地震か噴火でも起きたんだろうか、でも昨日はそんな兆候なかったし、などと考えを巡らせていた。
部屋に飛び込むなり、壁一面のモニターに視線を走らせる。
警告音を発しているのはどれだ?
「え……?」
意外なモニターの画面に『CAUTION』の赤字が点滅している。驚いた僕は鼻がくっつきそうなほど、モニターに顔を近づけた。
「これ、誤作動じゃない……よね?」
レーダーに何かが映っている。慌てて窓から見上げてみたけれど、肉眼ではまだ何も見えない。
けたたましくなる警告音のスイッチを切って、モニターをレーダーからカメラに切り替えてみる。レーダーに飛行物体が映ったあたりを何度か拡大してみてようやく、銀色に光る機体をとらえた。
と、同時に、通信機のランプが点滅した。
慌てて通信を許可すると、酷いノイズが部屋中に響き渡った。僕は顔をしかめつつ、ノイズの向こうから何か聞こえはしないかと、苦労して耳を澄ませた。
『N17……せよ……こちら…………先遣………………着陸許可……』
――N17、応答せよ。こちら『箱舟』よりの先遣隊。着陸許可願う……途切れ途切れの言葉から察するに、おおかたこんな感じのことを言っているのだろう。N17と言うのは、バーロウ博士の研究施設……つまりこの家に割り振られたナンバーのことだ。
「こちら、N17。聞こえますか? 着陸を許可します。ルートはそのまま、誘導に従って着陸してください」
同じ言葉を何度か繰り返してから沈黙すれば、ノイズの向こうから小さく『了解』と聞こえた。
「とうとう来た」
僕はわざと声に出した。湧き上がる緊張と高揚に、指先を一度ぎゅっと握った。
ああ、そうだ。とうとう来たんだ。
僕は拳を解いて、一番はしにあるパネルに指を伸ばした。ここしばらくは定期点検以外触ったことのないそれを操作して、家から少し離れた空き地――定期便だった無人宇宙船の離発着場だったんだけれど、使われなくなって久しいから草が生い茂っている――の誘導灯を着けた。常時点灯させていないのは、エネルギーに限りがあるからだ。
離発着場を囲むように点灯した誘導灯、その中心からは真っ赤なレーザーが一本空に延びる。光を宇宙船がキャッチし、それをガイドにして降りてくるはずだ。
操作を完了させてから、僕は家の外へ出た。
爽やかな朝の空気、突き抜けるような青空。はるか上空に、星のように瞬く点がひとつあった。
餌の時間と勘違いした小鳥たちが寄って来た。
「ごめんね、おチビちゃんたち。今日の朝ごはんはもうちょっと後でね。早く逃げないと宇宙船の風に吹き飛ばされてしまうよ」
定期便よりは少し大きいけれど、僕が予想していたほどには大きくない。正直に言えば、すこし拍子抜けだ。
離発着場からはだいぶ離れているけれど、巻き上がる熱風が庭の木々や草を揺らし、家の窓をガタガタと震わせた。
僕は腕で顔を庇いながら、風が止むのを待った。
しばらくして、銀の船体の一部が空いた。ぽっかり空いた扉の向こうは、暗く沈んでよく見えない。
明るい夏の日差しに銀の船体が光る。自然が支配した地球で唯一それだけが異質に見えた。そしてぽっかり空いた口のようなドアの向こうからは、地球を塗り替える何かがトロリと流れ出している気がした。
ああ、そうか。僕は緊張しているんじゃない。
これは恐怖しているんだ。
喉の奥、頭の隅、体のそこかしこでぐるぐるとまわっていた得体のしれない不安の正体を、僕はようやく理解した。
そして、自分の感情すら理解できないほど混乱し、慌てていたのかと思うと苦笑いが浮かんだ。
全く馬鹿馬鹿しい事態だ。
笑ったのが功を奏したのか、僕は少し穏やかになった心持ちで、タラップを降りてくる人々を見つめることが出来た。
船から出てきたのは三人、小柄な女性が一人と、大柄な男性が二人。女性の後ろに、男性二人が付き従うように寄り添っている。それを見る限り、彼らのリーダーは小柄な女性のようだ。
彼女たちが僕に歩み寄るのと同時に、僕も彼女たちに歩み寄る。
距離が狭まり、彼女の顔がはっきり見えてくると、僕は懐かしい気持ちになった。
目が……とても似ているのだ。バーロウ博士に。
僕が呆然と彼女の顔を見つめる間、彼女は僕を痛ましげな目で見上げてくる。
なぜそんな顔を? と考える間もなく思い出した。
「あ……。すみません、こんな顔で。人工皮膚のストックがきれてしまって」
触れた自分の頬はごつごつと固く、日差しに熱せられたせいで少し熱い。サーモスタットは正常に動いているはずだけれど、金属部分が剥きだしだと、どうしても表面の温度は上がってしまう。
去年の秋、台風で壊れたところを補修していた時に、うっかり右目から頬にかけての人工皮膚を傷つけてしまったのだ。人工皮膚のストックは切れてしまっていたし、ここにいるのは動物たちだけで、彼らは僕の顔が変でも怖がったりはしない。だからそのままで構わないか、と思ったまま一年。すっかり自分の顔のことなんて忘れていた。
「一人でいると外見に無頓着になっていけませんね。不気味でしょう? 申し訳ありません。ちょっと待っていていただけますか、何か覆うものを……」
言い訳が口を突いて止まらない。人を相手に話すのは、本当に久しぶりだ。
「あ、いえ、大丈夫です。どうか、そのままで。あなたがフォート?」
呆気にとられたように僕の話を聞いていた女性が、初めて口を開いた。
「はい。僕がフォート・N・ウォールです」
「ようやく会えた! はじめまして。私はセシル。セシル・K・バーロウ。カレン・C・バーロウの姪です」
「姪……」
姪とは? 素早く内臓データを検索して納得する。
「初めまして、セシルさん。ようこそ、地球へ。――いや、違いますね。お帰りなさい」
「そんな他人行儀な呼び方はよしてよ。セシルでいいわ。あなたのことはカレン叔母さまから聞いているの!」
彼女は博士とよく似た顔で笑い、周りをぐるりと眺めては博士とよく似た目をキラキラと輝かせた。
「こんな綺麗な地球を見たの、初めて! だって私が生まれたころには青空なんてなかったもの」
踊り出しそうなほど、全身で喜色を浮かべる彼女と対照的に、男性二人は渋面を解かない。
よく似た顔、よく似た体型、目の奥に人にはない緑の光がうっすらと見えたことで、ようやく彼らも僕と同じアンドロイドなのだと理解した。
とすると、今回降り立った統轄者は彼女ひとり? 本当なら三人から五人の統轄者がくる手はずではなかったか?
訝しんだが『箱舟』のことは僕のあずかり知らぬこと。なにか理由があったからこうなったのだろう。僕が尋ねたって状況は何も変わりはしない。
「着いた早々で忙しないけど、叔母の――いいえ、バーロウ博士のところへ案内してくれる?」
「……了解しました」
どんなに嫌でも、僕は彼女の命令を拒むことはできない。そうプログラムされているから。
さぁ、これで僕は本当に博士とお別れだ。
最後に一目会いたかったけれど、統轄者からそれを許可する言葉はついに発せられなかった。