二話 ロサ・ルゴサ
清々しい夏の朝はあっという間に終わる。
あとは昼に向けて気温はどんどん上がり、照り付ける太陽が大地を焼く。
でも、空調の効いた室内にいるとあまり暑いと言う実感はわかない。窓の外の風景を眺めながら何となく贅沢な気分になった。
僕の目の前、壁一面にたくさんのモニターがはめ込まれている。
そのうちの一つを覗き込んだ。
世界中に設置されている観測ポイントから三十分ごとに送られてくる情報をもとに算出された世界の天気。
それに一通り目を通したあと、画面を切り替える。
旧日本国、関東地方。人が地球に住んでいたころは千葉県南房総市と言われていた地域。それが今いる場所。
「今日の天気は……っと」
晴れ。午後に夕立が来るかもしれないけれど短時間で止むだろう。最高気温は二十八度。
記録と比較してみれば、今の関東地方の気温は二十世紀初頭と同じぐらいのようだ。
「ん。良好、良好」
モニターを世界の天気に切り替えて、他のモニターにもざっと目を通す。各地の地熱や大気、海水の値も異常なし。全て正常。
これを一日三回チェックするのが日課で、あとは自由に過ごす。
こんな生活を僕は何年してきただろう。初めは博士と一緒に。その後は僕ひとりで。
空の向こうに飛び立った幾隻もの『箱舟』が人類を連れて戻ってくるその日か、もしくは交代者が現れるまで、僕のこの生活は続いて行く。
寂しいと思うことはあるけれど、それは博士がいないからであって、特に孤独は感じない。
ここには箱舟に取り残された動物たちがたくさん住んでいて、彼らは僕の友だちだ。
「さてさて。このボタン押したら朝の日課、おーわりっと」
いつもの通りにキーボードを操作して、最後にエンターキーを押す。
「送り始めてもうそろそろ一か月かぁ。今日こそ、このメッセージが届くといいんだけれど」
今頃、『箱舟』の人たちはどんな夢を見ているのだろう。
それとも夢さえみないほど深い眠りの底にいるのだろうか。
僕は窓の外、青く澄んだ空を見上げた。その向こうにあるはずの『箱舟』は見えない。
『箱舟』との通信が途絶えて久しい。
計器の故障なのか、あるいは全滅してしまったのか。
だから、いま送ったメッセージも届くかどうか分からない。
けれど、僕は送り続けている。
『地球の浄化は成功した』と。
『もう戻って来ても大丈夫だ』と。
いつか届くと信じて。
昔、地球は死の星になりかけた。
空も大地も海も化学物質で汚染され、生態系は崩れ、天変地異が相次ぎ、人はようやく自己の過ちを知った。
ちょっとやそっとの方法では壊れかけた地球を治せないと知った時、人は『箱舟計画』と呼ばれる計画を発動して地球を脱出したのだ。
火星とほぼ同じくらいの距離に『箱舟』と呼ばれるスペースコロニーを建設し、人々はその中でコールドスリープにつく。そうして眠りながら地球が再生する日を待つのだ。
地球に残ったのは、研究と観察のため在留を希望した一部の研究者と、彼らに付き合うと決めた助手たちだけ。
僕のマスター、カレン・C・バーロウ博士も地球に残った変わり者のひとりだ。
『箱舟』へ地球の状態を報告する義務を請け負うかわりに、『箱舟』からは定期的に支援物資が届く手はずになっていた。
なにせ地球に物資を保存していたら、いつ天変地異でそれがダメになるか分からなかったから。
しかし、その定期便すら届かなくなってしばらく経つ。
幸いなことに、定期便が届かなくても何とかなる程度には地球が元気になってきている。なので、今のところ食料や肥料、燃料に困ってはいない。
『箱舟』で何が起こっていたのか、そして現在進行形で何が起こっているのか分からないけれど、あっちが上手くいかないように、こっちでも色々あった。
人のいなくなった地球で生活すると言うのは予想以上に困難を極めるもので、あちこちに散らばって好き好きに研究していた学者たちからの連絡は次第に途絶えはじめ、とうとう誰からも連絡が来ないようになってしまった。
バーロウ博士がそうであるように、他のみんなも命を落としてしまったのだろう。
幾人かは助手としてアンドロイドを使っていたけれど、そのアンドロイドからも何の連絡もない。みんな、自分の主人と運命を共にしたのだろうか。それとも、主の命にしたがってひた向きに何かを遂行しているのだろうか。
地球上でいま二足歩行をする者は僕だけかもしれないと思うと、寂しいと言うのとは少し違う不思議な心持ちになる。
『箱舟』の眠りを守るのは、統轄者と呼ばれる、選ばれた人々。
彼らは交代でコールドスリープから目覚め、『箱舟』の管理にあたっているはずだ。
地球からの信号が届けば、彼らのうちの数名が先遣隊として地球の様子を見に来る。そして、住める環境になったと分かれば、人々を目覚めさせる手はずになっているのだ。
「早くおいで、統轄者さんたち。ここには澄んだ海も、美味しい空気も、美しい花も、沢山たくさんあるよ」
空の彼方へ向かって呟いて、僕は部屋を出た。
今日は急いでやらなきゃいけないことがある。
リビングに飾っている博士の写真、そのとなりに生けておいたロサ・ルゴサの花が萎れてしまったのだ。
だから新しく摘んでこないと。
博士は赤い花が好きだった。
夏のこの時期はロサ・ルゴサが。
もう少し涼しくなったらリコリス・ラジアータ。
冬になればカメリア・サザンカ。
四季折々の赤い花を抱いて微笑む彼女の姿はいまも鮮明に思い出せる。
彼女との思い出はどれも鮮やかで、色あせることはない。
いつだったか、遠い昔に交わした会話さえ、一言一句間違わずに思い出せる。
「ねぇ、フォート。なんで私が日本を研究の拠点に選んだか分かる?」
「僕には分かりかねる質問です」
「もう! つれないんだからあ! 何でもいいから思いついたものを言ってみて。ね? ね?」
しつこく食い下がってくる彼女にそそのかされるように導き出した答えは……
「なにか日本特有の植物や動物について研究したいからでは?」
至極真面目な答えだった。それを聞いた彼女は指でバツを作りながら笑った。
「残念でした。不正解! 私がここを選んだのはね……」
「選んだのは?」
「四季がはっきりしてて、いろんな花が咲く場所だからよ。綺麗な花を見ていると癒されるでしょう?」
「癒される……。そうなんでしょうか……?」
花で心が癒されるなんて思ってもいなかった当時の僕は不思議そうに首をかしげながら答えたものだ。
「ええ、そうよ。――それにね。私、この目で見てみたいのよ。おじいさまがいつも言っていた日本の四季を」
「日本の、四季。四季とは……」
おうむ返ししながら、頭の中で『四季』とは何だったかと考える。
「あらやだ。そんな難しい顔して考えこまないで、フォート。いつかこの身で感じられるわよ。楽しみね」
彼女は僕の背中をバンバン叩きながら笑い声を上げ、僕は容赦ない彼女の力に目を白黒させて――。
時が戻ることは決してないけれど、もし一度だけ時を戻せるのなら、あの時がいい。
……なんてね。
今日は少し感傷的になっているみたいだ。益体もない思いが後から後から湧いて出る。
僕はかぶりをふって堂々巡りになりそうな思考を頭から追い出した。
物置から剪定ばさみを取り出して、玄関を開ける。
「ちょっと出かけてくるね! すぐ戻るから」
振り向いて写真の中の博士に声をかけた。
プリントは少し色あせてきているけれど、相変わらず彼女は柔和な顔で笑っている。
そろそろ新しくプリントアウトしなおさないといけないかな、なんて考えながら僕は家を後にした。
彼女の好きだったロサ・ルゴサを採りに。
ロサ・ルゴサ=ハマナス
リコリス・ラジアータ=彼岸花
カメリア・サザンカ=山茶花