019×追いかけたその先に
「待ってください!」
声高々に叫びながら、背を向けている日影を追走する。
逃走スピードはかなり速い。
いや、こちらが遅いのか。
体力を極限にまで削られているせいで、脇腹が猛烈に痛い。意識が霞がかったみたいに朦朧とする。じくじくと、まるで火傷のように痛む腹の横を抑えたまま、前傾姿勢で走行しているが、両脚が縺れそうになる。直線に足を突き出すことすらままらならない。
「あっ」
憶測していた通り、前方に転んでしまう。
石とか段差とか、足を引っ掛けるものはなにもなかった。ただ純粋に、疲労のピークを迎えてしまったらしい。直前の騎士団長との戦いの疲労だけではない。桐咲との野試合の披露が色濃く残っている。
転ける直前に地面をついた両手の皮がズル剥けていて、ジワリと血が滲んでくる。
ぐぐぐ、と首に力を入れて顔を上向きにして、立ち上がろうとする。だが、ガクガクと脚が震えて、膝立ちすらできない。出産さればかりの仔牛のような様子は、傍から見ればほとんどギャグの状態だろう。だが、痙攣した脚に力が全く入らない。
日影を見失うわけにはいかない。
どうしてだろう。
もしもみすみす日影をこのまま行かせてしまったら、もう二度と『騎士の饗宴』という舞台で、戦うことができないような……そんな予感がするのだ。
遁走している彼女は今どんな心情なのか、知る由もない。目が合っただけなのに、居心地悪そうに身を翻した。コンタクトを取ることを拒んでいることは百も承知だ。
でも我流と騎士団長との戦いを見てくれていた。
騎士団長の頼みといっても、『騎士の饗宴』に興味がなければ決着まで見届けるわけがない。
義理で来たとしても。
争い事や戦いが嫌いならば目を逸らして、すぐに帰路につくはずだ。ということはつもり、まだ彼女にも騎士としての自覚があるってことだ。
それが自分でも分かっているから、事実を突きつけられる前に走り出したのではないのか。なかったことにしようとしているのではないか。
そんなこと、絶対にさせない。
まともに走れないほど乳酸が溜まっているのだから、このままヒンヤリしていて気持ちのいい地面に倒れふしたままの方が楽だ。そして、日を改めて会えばいい。
……なんて、悠長なことは言ってられない。
我流は思慮深いほうではいえない。
どれだけ饒舌に思いの丈を語っても、言葉巧みに煙に巻かれるのがオチだ。それだけ、日影が頭の回転が速いのは戦っていても分かる。人生の経験値。年上だからもあるのか、普段の会話も華麗にあしらわれている。
だから、今。
騎士団長と戦って、何かを掴めた気がするこの瞬間。そして、日影がその瞬間を目撃した今、動き出さなきゃ。心が揺れ動いているこの時だからこそ、届く想いがあるような気がするのだ。
小難しい理屈なんてない。
ただそう思ったから走っただけだった。
追いつこうとした。
この手が届きそうな気がした。
だけど、体が言うことを聞いてくれない。
どうしてこんなに脆弱なのか。こんな時こそ、火事場の馬鹿力が発揮される時なんじゃないのか。
だけど、目の前が真っ暗になる。
そんな都合よくいくわけもなかった。全身に抗えない倦怠感が押し寄せてきて、もう意識を保つことすら難しくなる。
もう、無理だ。
そう確信した時に、
「大丈夫?」
スッ、と手を差し伸べられる。
無様に這いつくばっていた我流は、数秒間呆然としていた。
業を煮やしたのか、日影はカブを引っこ抜くみたいに我流の腕を引っ張る。
引っ張る勢いがつきすぎて、日影の体に急接近したが慌ててバランスをとる。蹈鞴を踏んで、今度は逆に海老のように背を反らせる形になった。が、日影の服の裾を掴んで、ようやくおさまりがついた。
日影の髪の毛が、頬に触れるぐらいの近さ。
だが、今はどうでもいい。
彼女に支えられている。
これなら仮に倒れたとしても、今は日影が柱のように立ってくれているお陰で、安心して体重を預けられることができる。
我流は、服の裾を掴んだ手を放さない。
逃がさないように。
そしてそれ以上の意味があるように。
日影が本気で拒絶していならば、すぐに振りほどけるように力は加減してある。数秒黙視して待っていた。
でも、彼女は腕を引こうとはしなかった。
もうこっちが諦めないことを悟って引かないのかは分からないけれど、やっぱり……ちょっと嬉しかった。
「なんで……逃げたんですか?」
「君がこれから言うことを想像できたからかな……」
悲しそうに顔を俯せる。
それは拒絶の線を引かれた証。
でも、構わず一歩踏み込む。
「俺と『騎士の饗宴』の試合をやってもらえませんか?」
「……やっぱり、ね」
日影は突き放すように、言葉だけで拒絶する。
「私は試合なんてしたくないの。お願いだから聞き分けて」
「分からないですよ。じゃあ、だったら、どうして俺と『騎士の饗宴』で戦ってるんですか? 矛盾してますよね」
「ただの気の迷いだったのかな。どうせエントリーしたところで、私の試合を受ける騎士なんていないと思ったから。そしたら、まさか私のことを知らない騎士が試合を引き受けるなんて……想像できるはずなかっただけ」
「だったら、さっきの騎士団長との試合はどうして?」
「それは……グリフがどうしてもって電話で懇願してきたから……。どんな内容であれ、あれ以来全然接触してこなかったんだもん。それを……電話越しにあんな必死に拝み倒されたら、無碍にできないでしょ?」
あれ以来っていうのは、騎士団長と日影が試合をした時か。
二人はそれ以来、決裂してしまったのだ。
騎士団長は結局教えてくれなかった。
ここで日影が教えてくれるとも思えない。
知り得ない情報では、日影のことを語れない。もしかしたら、ここに駆けつけるべきなのは騎士団長なのかもしれない。彼ならば、もっと日影のことを語れて、もっと彼女のことをわかってやれる。
そして、彼女を戦わせることができる。
そんな泣き言を言っても、栓なきこと。
でも、騎士団長が知らず、我流が知っている情報はあるのだ。
その眼で見て。
確信した事実がある。
「違う。そんなの、そんなのは全部嘘っぱちですよ。あんなに『騎士の饗宴』を楽しんでいた人が、戦いたくないんて」
「私が……楽しんでいた?」
どうやら、自分では気がついていなかったみたいだ。
「俺はあなたを指定して『騎士の饗宴』にエントリーしておきます。戦う期日は明日。もしも今日までに承諾されなかったら、その時はあなたと戦うのは諦めます」
二の句を継げないように、踵を返す。
「俺は日影を信じて待ってます」




