018×帰るべき場所
我流は滝のような汗をだくだくと流しながら、気息を吐き散らす。
フラフラと足元がおぼつかず、欄干を背にする。ガンガンと、脳みその中から乱暴にノックされているみたいに、頭痛が頻繁に起こる。そのせいで直立することもできず、ズルズルと背骨を滑らせて、冷たい金属に尻餅をつく。
傍らには騎士団長が仰向けになって、闇に染まりつつある大空を眺めている。
どれほどの時間戦っていたのか。
数分だったのか。
それとも数時間に及んだのか。
濃密な戦闘は、完全に体内時計を破壊してしまっていた。
それほどまでに、騎士団長との野試合は鮮烈なものだった。
高揚の余韻で、手が微かに震える。
戦う前は居心地が悪い場所だったこの橋も、愛着深いものになる。こうやってどんどん思い出が堆積していって、大切なものが増えていくのだろうか。
だとしたら。
初心者である我流でさえ、こんなにも充溢しているというならば。
騎士団長ほどの経験者ならば。
いったい、どれだけの充実感を味わってきたのだろう。そういえば、騎士団長の騎士歴について無頓着だった。
「……騎士団長は、いつから騎士を?」
「え?」
どうして、いきなりそんな質問? とたじろぐが、騎士団長はうーん、と唸りながら素早く切り替えてくれた。
「そうだねぇ。……僕は小学生の頃から始めていたよ。最初は他の騎士団に入団してたんだけどね。いつしか自分の騎士団を設立したいって気持ちが強くなってね。高校入学したのを機に、トリニティ騎士団を立ち上げたんだ」
「そう……だったんですか」
結構長い。
今騎士団長が高校三年生だから、逆算すると最低でも六年以上ということになる。我流が、今まで出会ってきた騎士は少ない。日影が騎士歴三年で、今まで聴いた中では最長だった。
そう考えると、騎士団長はかなり長い時間『騎士の饗宴』に心血を注いできたってことが分かった。
「うん。馬が合う同級生がいて、その子が騎士になるっていうから立ち上げたんだ。トリニティ騎士団を――」
「朝日と一緒に――」
「え?」
言葉を失ってしまう。
朝日っていうのは、日影朝日のことだろう。
え? え? と、情報を処理できるだけの脳の許容量を超えてしまった。
騎士団長は野試合前に、日影のことを憎くないかと訊いてきた。だが、逆に、騎士団長に問いただしたいことだった。
だって、騎士団長は日影に腕を折られたのだ。
だとしたら、それを恨みに思って然るべきだ。わざとだろうが、事故だろうが。それだけ敵意を持っておかしくない所業で。
でも、同じ騎士団だった?
仲間だった?
そんなの考えもしなかった。
騎士団の中での戦闘行為は、明確に禁止されているわけではない。事実、我流は桐咲や騎士団長と野試合をした。
しかし、仲間同士でいがみ合うなんて、好き好んでやる騎士がいるものか。別の騎士団と騎士と名声や誇りのために戦うことだったなら、いくらでも考えられたというのに。
「彼女だって騎士なんだ。だったら、どこかの騎士団に所属していないと、『騎士の饗宴』にはエントリーできないはずだよね」
「でも、日影がトリニティ騎士団に入団してるなんて……初耳です」
「うん……。ごめんね、言い出せなかったんだ。彼女が去ってしまったのは、全部僕のせいだから……」
「え? 僕のせいって、どういう――」
それは……、と騎士団長は言いごもると、
「僕の口からは言えない。言うべきなんだろうけど、まだ……ね。心の準備ができていないんだ。彼女と『騎士の饗宴』をやって僕が負けた。今はそれしか言えない」
怪我の被害者である騎士団長が戦犯とは、どういうことなんだろうか。
そもそも何かしらの争いが二人の中でおこったとして。
心に傷を負ったのは。
利き腕が使えなかったのは。
騎士団長じゃないのか。
だとしたら、騎士団長がトリニティ騎士団を抜けたり、足が遠ざかった方が、より自然な流れだ。やはり、当事者でもない自分はよく分からない。
騎士団長はあまり話したくないようだし。桐咲も我流と同様にあまり知らされていないようだ。
「でも、まさか君もトリニティ騎士団を抜けたいって言いだすとは思わなかったよ。いや、正確に言えば……日影は何も言わずに去っていってしまったけどね……」
言外に、脱退宣言をした自分のことを責められているようだ。
「すいません。でも俺は……」
「分かっているよ。僕は君に負けたんだ。こんな僕にだって騎士の誇りの欠片ぐらいある。勝利者の意見には従わないとね。君が朝日と戦うことを許すよ。いや……これは上から目線で言うことじゃないね。君がトリニティ騎士団を脱退すると覚悟した意志だ。僕が許すも許さないもないよね」
ただし、と前置きすると、
「トリニティ騎士団を脱退することは許可しないよ。これは、騎士団長としての絶対命令だ」
……芽映ちゃんだって、君がいなくなれば悲しむだろうしね、と、付け足すように独りごちる。
「騎士団長……」
トリニティ騎士団を辞めると決断したには、それ相応の覚悟を持っていた。でも、桐咲や騎士団長と別れずに済むのならば、それにこしたことはない。
今、ようやく。
臨戦態勢は解かれて、ほっこりとした気分になる。
やっぱり、騎士団長は騎士団長で。
ある意味では、きっとこの人には一生勝てないだろう。
「そういえば……」
騎士団長は過去の記憶を掘り返すかのように、中空に視線を漂わせる。
「君と初めて出会ったのは……あれだよね。君が試合登録センターで職員に声をかけることもできずに、ウロウロしていた時だったよね」
「……そうでしたね」
今になってしまえば、笑い話になる。
だが、あの時は本気で困っていた。
その場の勢いで登録センターに行ったものの、勝手にパソコンを使っていいのかも分からなかった。遠慮して、助けを求めるように右往左往していた。
困惑している時、ポンと肩を叩いたくれたのが騎士団長だった。
「職員の代わりに一から全部説明してあげたよね」
「何も知らなかったですからね、当時の俺は」
今も無知であることは変わらない。
が、当時はそれ以上だった。
「そうそう。試合のエントリーの仕方も知らなかったし、そもそも『騎士の饗宴』さえどんなものかよく分からない。試合も見たことがほとんどない。そんな人間が立派な騎士になれるのかなって、僕はとても不安だったよ」
「……今思い返すと、ちょっと恥ずかしいですね」
「でも、そんな君のことを放っておけなくて、色々お世話してたら……。自然と僕の騎士団に入団してたよね。普通、最初に書類に記入してもらうはずなのに……。あんな入団の仕方、僕の知る限りでは君ぐらいなものだよ」
「…………」
我流は微苦笑する。
ポロポロと騎士団長から心の断片が出てくる。最初に、我流から騎士団長に対して、いつから騎士になっているのかという質問をした。だからその社交辞令的に、二人が出会った頃の話をし始めたのかもしれない。
そうだとしても、全然いい。
だって、騎士団長は忘れ去りたい過去を振り返るように、苦るしそうに語っているわけではない。いつまでも心の引き出しに仕舞っている話を、自慢するみたいに喋ってくれている。
しかも、笑いながら懐古しているのだ。
「……なんだ、そうなんですね……」
「……………?」
唐突に晴れやかな顔をした我流に、騎士団長は疑念の表情を浮かべる。
「騎士団長戦う前に言ってましたよね。負けても得るものなんてなにもないって」
「ああ、そうだね。ごめん。君に心にもない失言を……」
「そうじゃないです。俺が言いたいことはそんなことじゃないんです。別に、俺のことはどうでもいいんです。俺が戦う前から気になっていたのは、騎士団長がそんなに、『騎士の饗宴』のこと嫌いなのかなって。憎んでいるのかなってことで……」
騎士団長は彼女に、日影に試合で負けたらしい。
我流に日影が憎んでいるかと訊いてきた騎士団長。でも本当は自分が日影のことを憎んでいる裏返しだったとしたら……それはとても哀しいことだ。
騎士団長がいたから、我流は騎士になれた。一番最初に騎士としての戦い方を教えてくれたのは、彼なのだ。
でも、この戦いの前に、散々騎士団長は『騎士の饗宴』で積極的に戦うことについて否定し続けていた。日影のことだけでなく、もしかしたら『騎士の饗宴』でさえも嫌悪しているみたいだった。
「でも、違ったんですね。良かった……。骨を折るぐらい辛いことがあったのに……それでも……」
「こんなに楽しく世間話ができるぐらい『騎士の饗宴』が好きだったんですね」
騎士団長は瞠目する。
……好き? 僕が? と、まるで他人事のように呟くと、
「そうだね。僕は『騎士の饗宴』が好きだ。好きだから、騎士になって、そしてここまで続けてきたんだ……」
誰だって最初は好きだから、騎士になるはずだ。
でも、なる前に抱いていた理想と、そしてなった後に待ち構えている現実。その板挟みに苦しんで、圧迫された心は簡単にひしゃげてしまう。好きで騎士になったのに、騎士でいることがただの義務になっていって。そしていずれは、純粋だった気持ちも憎しみに変貌してしまう。
騎士以外でも、そういうことはある。
だからこそ、騎士団長もそうなりかけていたのかもしれない。
「我流くん。僕がこんなこと言えた義理じゃないことは分かってる。ただ戦ってみて。そして今話してみて確信したよ。君は朝日と戦うべきだ。むしろ戦って欲しい。そして彼女を助けて欲しい……。僕は彼女に何もできなかったから……」
それとね、と騎士団長は悔しそうに目を眇める。
「僕が朝日と戦おうと思っていたよ。それが僕なりのけじめだった。だけど、やっぱり同じ種類の人間が彼女と戦うことに意味がある。そしてそれは、あそこにいる彼女も薄々気付いているはずだ」
どういう意味だ、と思いながら、予感がして振り返る。
橋のたもと。
桐咲とは逆方向の場所に日影がいた。
「……なんで、ここに……」
「僕が呼んでおいたんだ。僕と我流くんが戦うことになるから、見に来てくれないかって。――あっ」
日影が、慌てたように背を向けて走り出した。
というより、脱兎のごとく逃げ出したように見えるが。
「ここがきっとターニングポイントだね。どうする? 我流くん。君はどうしたい?」
騎士団長の問いかけに、我流は間断入れずに答える。
「帰りますよ」
日影が同じ騎士団であることを知った。知らなかった時は、ただ漠然と戦いたいという意志だけで日影のことを追い回していた。
執拗に試合をせがんだ。
そして、今もまたその繰り返しだ。
また追いかけて捕まえて、そしてまた同じ言葉を発するだろう。でも、今度の懇願は今までとちょっと違う。戦ったその後に、得られるものがあると知ったから。より、強い意志で日影の背中に追いすがることができる。
「日影を連れて、トリニティ騎士団へ」




