017×三頭犬の咆哮
拳を覆っていた豪炎が、灰色の煙をあげて収束していく。
喰ったものを全て吐き出した。
また新たに能力を補充しなければ、《ケルベロス》を使うことはできない。精々、空気を喰らい、それをポンプのように吐き出す。それによって衝撃波を生み出す。今はそんな単純な攻撃法ぐらいしかないのだ。
それでも、もう我流は相手ではないだろう。
もはや、死に体も同然の我流は、うつ伏せになって倒れている。
「僕にも……まだ牙は残っていたみたいだ」
すっかり牙はもがれていたものと諦観していた。
もう、戦う気力なんてなく、騎士をズルズルと続けていた。いつかきっと騎士団長どことか、騎士であることを辞めるつもりでいた。
それでも、抗いたかったのだ。
そうでなければ、騎士団長などとっくに辞めていたはずだ。
だが、自分は今まで、何もしてこなかった。
待っていれば、いつか彼女がトリニティ騎士団に帰ってくる。あの頃のような笑顔を取り戻して、陽気に手を振って傍にいてくれる。そんな自分にとって都合のいい幻想を見ていた。
――でも、彼女は戻ってなどこなかった。
道端ですれ違っても、どちらともなく目を逸した。その内彼女が現れそうな場所さえ意識的に避けるようになった。そうすれば無視されることなどなくて。なにより、自分が彼女と向き合う努力をしていないという、最悪の事実に気づかずにすむのだから。
そうだ。
悪いのは自分だ。
どうしてもっと早く彼女の元に駆け寄らなかったのだろうか。
今まで生きてきて、特に困ったことなどなかった。異性にちやほやされたし、勉強だって騎士としてだって無難に成功し続けていた。だから、変にプライドが高くなってしまっていたのだ。自分から頭を下げるなんて発想がなかった。
いつだって、喧嘩やいざこざがあったら相手から謝ってきた。そんな人生を生きてきたのだ。
だから、今度だって彼女の方から歩み寄ってくるのだろうと高をくくっていた。でも、彼女は自分を拒絶した。
それは、きっと騎士団長のことを憎んでいたからではない。
きっと、傷つけたくなかったためだ。
傷つき過ぎて、騎士として再起不能と診断された騎士団長。そんな奴の動かない腕を見て、それで彼女が何もなかったように振舞ったのなら、自分はどうなっただろう。
それこそ、今以上に心を痛めのではないか。
身勝手なのは分かっている。
でも、彼女から話せないのなら、こちらから自発的に話せば良かったのだ。
それでもきっとぎこちないだろう。
懺悔しても、謝ることに不慣れな騎士団長の言葉など薄い紙のように薄っぺらいものになってしまう。そんな自分にできることといえば、戦うことだけだ。
『騎士の饗宴』の中で、語り合うことしかできない。
そんなこと分かっていた。
ずっと前から。
でも。
また、負けるのが怖かったのだ。今度負けて、骨を折るどころの話じゃなくなったらと思うと、ガタガタと体の震えが止まらない。
だから、とっくの昔に牙は錆び付いていたと思った。でも、こうしてまだ自分は戦えることを確認できた。
「ありがとう、我流くん。これで僕もやっと停止していた時計の針を動かすことができるよ。だからさ僕が、君の代わりに朝日に挑戦することにするよ」
自分にできる贖罪といえば、そんなものだ。
ずっと自分の罪に背を向け続けてきた。
逃避していたのは自分だ。
独りきりで、トリニティ騎士団の騎士団長を続けていた。そこに意味はないものだと思っていた。後悔ばかりで。でも、遠回りしたから。だからこそ、ようやく、こうして答えにたどり着くことができたのだ。
トリニティ騎士団がなければ、我流や桐咲と邂逅することもなかった。そうしたら、きっとずっと独りきりだった。
本当の意味で後悔し続けていただろう。
騎士を辞めなくて良かった。
ずっと悩み続けていたから、自分の中にある牙を探し当てることができた。
もう手遅れかもしれないが、今度こそ日影と真正面から向き合おう。
前を見続ける強さを持っていて、それから日影と仲良くしているという我流に最低な言葉ばかり連ねてしまった。だから、これ以上我流に傷ついて欲しくない。
自分勝手かもしれない。
押し付けなのかもしれない。
傷つけってしまった張本人なのに……いや、そんな最低な張本人だからこそ責任を負いたいのだ。
「ごめんね。我流くん。僕は君に最低なことばかりしてしまっていた。詳しい話もせずに、ただ君を傷つけていた。でも、もう安心して欲しい。もう君は何もしなくていい。頑張らなくていい。大丈夫だよ。全て終わってから、僕は全てを君に話す」
だから――。
「僕は戦いの中で語り合うことにするよ」
我流としたように。
そうすれば、きっと日影ともやり直すことができる。キチン、と。完全に。元の関係に戻ることはできない。でも、ちぐはぐでも。それが味になって、以前よりもっと強固な絆の鎖になることだってある。
一度折れた骨がより頑丈になるみたいに、もしかしたら昔よりもっといい関係を築けるかもしれない。
「僕は不器用だから。いや、器用に生きれる人間が騎士になんかなっているはずがないよね。汗を流して、拳を交わしあって。それでようやく僕らは分かりあえるんだよね。そんな……そんな騎士として当たり前のことを僕は忘れてしまっていたんだ」
言葉だけじゃ、伝わらないことだってある。
分からないことだって星の数ほど。
だから、騎士達は戦う。
戦って、戦って。
自分だけの答えを見つけ出す。
不器用だけれど、それがきっと自分たちのやり方だ。
「君のことを否定して悪かった。……本当に、本当にすまなかった。今、芽映ちゃんを呼ぶからじっとしていくれ」
この瞬間、全てが綺麗に終わった。
お膳立ては整った。
死闘だったはずの騎士団長と我流との野試合は飾り立てられた劇のように、一時的に幕が閉じたように思えた。
これから、日影と騎士団長によって壮絶な『騎士の饗宴』が始める。それはきっと騎士達の間で語り継がれるべき伝説のような試合。
何故なら、アクアダスト市で最も知名度と、実力の伴った騎士達の戦いなのだ。それが盛り上がらないはずがない。けれど――
「まだ……終わってないですよ」
我流の瞳は死んでいない。
焦げ付く腹部を庇いながら、我流は不死身の怪物みたいに立ち上がる。
「……君は……まだ戦おうっていうのか」
もう自身の躯を支えることすらできないのか、欄干を掴んでいる。
「君の攻撃はもう僕に届かないんだ。さっきまでとは状況が違う。二本の腕が自在に使えるようになった僕は、全盛期の力を持っているってことなんだ。それでもやるのかな?」
アクアダスト市のナンバー2としての力を存分に使える。
だが、これだけ忠告しているのに、我流は全く動じない。膝が痙攣したまま《グングニル》を構える。
「騎士団長。正直、俺はあなたが何を言っているのか、ほとんど理解できません。俺が知らない過去で、あなたと日影が何かあったのかぐらいは分かります。でも……そんなの俺には関係ないですよ。俺は戦いから戦うんです。傷つくとか傷つかないとか関係ないです。だって――俺は騎士なんですから」
……そうか。
我流のことを新人だと、まだまだヒヨっ子だと侮っていた。
だけど、我流はもう、きっと一人前の騎士になっていた。彼には彼の意志で日影と再戦したい。そんな気持ちがあって、やはり騎士団長の想いなど無価値なのだ。
でも、それでも我流には譲れない。
無知で無謀な彼には。
「だったら――」
迎え撃つ。
そして、彼の覚悟ごと粉砕するのが騎士の礼儀というものだ。
「無駄だよ。君の攻撃は全て自分に返ってくる。天に唾をするのと同じだ」
《グングニル》の穂先が高速で迫ってくる。あまりにも速すぎて分裂したように知覚するそれを、《ケルベロス》で応対する。
威力のないものは払いのける。
さっきまで対応できなかった槍捌きも、両手ならば可能だ。
我流のあらゆる攻撃パターンは、脳内にインプットされている。足で打突しようが、霧のように発生する《グングニル》の予兆を隠すことなどできない。それが下に収束するのを見て取れば、簡単に封じることができる。そうして、直ぐに三発溜めて解き放つ。
三倍の威力を持った豪腕。
インパクトの瞬間、我流は体を捻って威力を流す。かろうじて、新たに発生させた《グングニル》を楯にしたが、それでも我流は轟音とともに吹っ飛んだ。蹈鞴を踏みながらも、またもや果敢に挑戦してくる。《グングニル》を携えながら、ただ懸命に。
どんなに心根が強くとも、肉体の限界はいつかくる。
それもそう先の未来のことではない。
我流は疲労のピークが差し掛かっているのか、先程までの音速を超えるような速度は見る影もない。
「――三擊目」
そうして、また《グングニル》が掻き消えた。
もう、彼に武器はない。
丸腰だ。
満身創痍でまだ立ち向かってくる我流に感動を覚える前に、あまりにも必死すぎる彼があまりに可哀想だった。彼は自分から白旗を上げることはできない。そういう潔さを持つタイプの騎士ではない。
だから、騎士団長の手で早く終わらせてやらなければならない。
「これで――」
「これで終わりです」
《ケルベロス》を掻い潜って、我流は全力で体当たりを仕掛けてきた。
なんで、いまさら原始的な攻撃を!?
テクニカルな攻撃が目立っていたために、体当たりなんてダメージをほとんど受けない小技に少々興ざめしていたが――。
元々古びていた欄干が、今までの戦闘の影響で破損した。
いや、いくら錆だらけでボロい橋といっても頑丈だ。なのに、体当たりしただけで破壊されるはずがない。なにより、この絶妙のタイミングで壊れるはずが……。
我流が何か事前に仕掛けたとしか考えられない。
「なっ――」
壊れた欄干と共に、騎士団長は空中に放り出される。
このまま突き落とすつもりか。
いや、違う。
我流もまた一緒になって落下している。
咄嗟に《ケルベロス》を発動させようとするが、我流の両脚に腕を抑え込まれる。開脚したまま、発現させた《グングニル》の穂先を高速で向けられる。
「このまま……水中まで一緒に心中しましょうか」
水中ならば、《ケルベロス》は空気を武器にすることができない。
足で両手を封じられていては、抵抗する術もない。
このままでは、弱体化させられてしまう。それどころか、我流が上になっている今の状態では、落下ダメージを一身に受けてしまうことになる。
「まさか……今まで攻撃を受けていたのは、《ケルベロス》が攻撃を最大で三擊までしか溜めることができないことを確認するため!?」
騎士団長は、戦うのに癖がある。
《ケルベロス》を最大限活かすために、相手の攻撃を三擊まで溜める癖が。そうした方が、勝つ確率が上がる。だから、いつもそうやってきたのだ。だがそのせいで、完全に動きを読まれてしまった。
最大数まで溜めている今の状態では、ただ《グングニル》の脅威に怯えながら落下するだけ。
だが。
《グングニル》が顔面に肉薄した瞬間。
ガキン、と金属音が虚空に響く。
強靭な歯は《グングニル》の穂先を噛み砕く。常人の歯とは比較にならないほどの強度を持つのは、《ケルベロス》の能力故。発動している時にしかその強さを発揮できないという弱点を持つが、今は存分に発揮できる。
そのまま我流に向かって、空気の弾丸を飛ばした。
「《ケルベロス》は、三頭犬なんだよ。我流くん」
ひゅんひゅん、と風を切りながら回っていた《グングニル》に、一瞬視線を奪われていた我流。
即座に、次の空気の弾丸を飛ばす。
直撃した我流は橋の欄干を掴もうとしたが、爪の先がかすっただけ。
そのまま為すすべもなく落下していく。
この高さから水の衝撃を受ければ、無事ではすまないだろう。今までのダメージも計算に入れれば、確実に戦闘不能状態に陥るはず。
だが、騎士団長は両手から空気の弾丸を飛ばして、難なく橋の上に着地する。眼前には《グングニル》が落ちていた。ここまで飛ばされていたのか。
「アイディアの着想は悪くなかった。……けれど、君にはまだまだ実戦経験が足りない」
待てよ。
ピシリ、と三日月型に作っていた表情が凍りつく。
……どうしてここに《グングニル》があるのか。ここに《グングニル》があるのはおかしいはずだ。
何故なら、《グングニル》は我流の意志によって形成されている物質。彼が気絶したならば、一瞬にして消滅するはずなのだ。
だが、それがまだ構成されている。
ということは、まだ我流は――
「えっ――」
振り返り際。
目の前に飛び込んできたのは、空中にも関わらず、我流が突進してくる姿だった。
「ぐっ」
メキメキッと嫌な音を立てる。
砲弾のように突進してきた我流は、拳を突き出していた。その固く握った拳が、確実に急所をついていた。
衝撃を殺すことができず、前方に刺さっていた《グングニル》を巻き込みながら、橋の上を転がり回る。
欄干に衝突した後。
激痛にもんどり打つ。
今までの我流の体捌きがまるでスローモーションだったかのような、桁違いの速度だ。これほど速さく動けるのに、今まで温存していのか。
いや、そんはずはない。
ずっと本気で勝負していたはず。一体何があった。
ズキン、ズキンと、腹部が痛む。
前方か、後方か。
攻撃を喰らった箇所がそのどちらかであれば、まだ救いはあった。だが、痛めたのは肝臓。そしてこの鈍痛は、骨を何本かイったか。骨折した経験があるせいで、今の自分が骨折しているかどうか即座にわかるなんて、皮肉なものだ。
よりによって最悪の場所を攻撃されてしまった。
振り返ろうとした動作の最中に、拳を喰らってしまった。彼が起死回生の一撃を持って立ち向かうことにもっと速く察知することがだきれれば、もしくは遅ければこんな結果にはならなかっただろう。
恐らく、我流も狙ったものではないだろう。
呼吸するのすら辛い。
息を吸い込むだけで、ズキズキと骨が頭蓋にすら響くような悲鳴を体内で上げるのだ。
立ち上がろうとするが、うまくいかない。
少しでもインパクトの場所がズレていれば、ここまで痛むはずはなかったのに、彼は運が良すぎる。
いや、この幸運をたぐり寄せることができたのは、我流が不屈の精神で何度も応戦したからか。
息絶え絶えな我流が、強く握っていた手を微かに開く。
指の間から落ちてきたのは、闇のように黒い砂だ。
そうか。
そういうことか。
我流が体当たりして壊れた欄干に目線をやると、予想通りだった。欄干の一部分は、まるで砂時計のように粒子状になって落ちていた。まるでそこだけ砂漠化したような異常な現象。
《グングニル》を二本使用したのは、奇策のため。特に考えもなく振るっていただけだと断定していた。だが、我流は橋を脆く、そしてぶち壊すために、わざわざ二本の《グングニル》を顕現させた。
そして、最終的には我流が立っていて、自分が横たわっている。こうなることを予期した上での行動だったのか。そこに至るまでに、我流は自分が膝をつくことを考えなかったらしい。
最後の最後まで自分の勝利を信じ、そして幸運を掴みとるほどに足掻いたのだ。
自分の敗因がなんなのか察知した騎士団長は、悔しげに。
だがそれ以上に晴れやかに笑った。




