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ホーム

作者: さぼてん

「おはよう、緒方君」

「………」


 …どちら様? いや、知らない。

 名指しされたが、自分のほかに「緒方」がいるのかもしれない。彼女が自分じゃない別の誰かに言っているのだと思って周りを見回した。しかしまわりは大人ばかりで自分以外に該当しそうな人は居なかった。

(…あ)

 自分だと自覚した時には、彼女も少しがっかりしたような表情をしていて、とても雰囲気が気まずくなっていた。挨拶を返すべきタイミングを完全に失ってしまった。

 無視されたと、彼女は思ったことだろう。


 今日は九月一日、学校の近所から学区外に引っ越してから、初登校。友達は居ない。こんな知り合いいた覚えも無い。


 俺は何で学年のわからない、名前もわからない…しかもやけにきらきらした瞳で見てくる女子に挨拶をされるんだ?

 得体の知れない彼女を移動教室の度、気付かない内に目で探していた。一年じゃないかもしれないけど、もしかしたらいるかもしれない。 そしたら二つ横の教室で見つかった。一年で、案外近くだった。

「優香ー、理科の資料集貸してー」

「はーい」

 優香。クラスの扉に張ってある名簿の中に同じ下の名前の人を捜す。

 "姫峪 優香〟

 そういえば放課後フルートが入った鞄を手に有希と一緒に部活へ行くのを見た。



 これが始まったのは二学期が始まってすぐのことだった。俺は元々学校の近くに住んでいたのだが、夏休みに家の事情で学区外へ引っ越すこととなった。

 学区外になるといっても学校が変わるわけではないし(ちょっと登校が面倒になるだけで)、特に何も思わなかった。




 いつも通り俺に曇りの無い笑顔で挨拶してきたのは、同じ中一の姫峪優香。クラスメイトでは、ない。

 にも関わらず、彼女は毎朝同じ時間のホームで、俺に挨拶をしてくる。

 仲が良い間柄では特に不自然ではないのだが、俺の知る限り、姫峪とまともに話した覚えは、まったくのゼロだ。

 クラスメイトや友達ならば返すのだが、どうも彼女には出来ないでいる。…失礼だとはわかっているのだが。

 普通の人間なら一週間やそこらで諦めて、あるいは気を悪くして、挨拶をしなくなりそうなものだが、彼女は毎日何事も無かったかのように挨拶をしてくる。

 もうかれこれ一ヶ月。あれからずっとこの調子で、学校のある日は一方的に声を掛けられている。

 毎日よくもまぁ飽きないものだと、ある意味感心していた。

 姫峪はホームの階段を上ってきた俺に気付き、今日も「おはよう」と言ってくる。今日も返さない。

 無視しても、無視しても。彼女は次の日になれば、まるで毎回リセットしているかのように笑顔で挨拶する。

 今日もそれだけのはずだった。そう、「はず」だったのだ。

 ぴた、と足が止まる。

 いつも一人で登校している彼女が、学生服を着た男と一緒に居る。しかも随分と仲が良さそうに話しているじゃないか。

(話せる人がいるなら、俺に挨拶なんてしなきゃいいのに)

 まるで悔しいと言わんばかりの口調に、ぶるぶるとかぶりを振る。馬鹿馬鹿しい。何故たかが姫峪のことを考えなくてはならないのか。

 男友達ができたならその分姫峪は俺に接触する回数が減る。つまりよくわからない奴と関わる時間が短くなる。万々歳じゃないか。

 そうやって自己完結させると、自然と止まっていた足も動き出した。

 どうせもうこうやって挨拶してくることも無くなっていくだろうから、『いつも』とは違う事をしたって構わない。

 どうしてかわからないけれど彼女に腹が立った俺は、言ってやった。

「お前、毎日毎日ウザイんだけど」

 姫峪は一瞬、驚いたような、悲しそうな表情を浮かべて、でもすぐに笑顔で、

「そっか、ごめんね」

とだけ言った。

 本人に嫌われていると知れば、さすがに明日は挨拶して来ないだろう。そう思ったら妙に清々しく思える。

 隣の男子生徒は、一瞬俺の言葉に僅かに顔をしかめたが、何か納得いった様子で、やれやれと苦笑していた。


 昼休み。親友兼腐れ縁、且つ姫峪と同じクラスのトモこと加崎智也がクラスに遊びに来た。

「なぁトモ。姫峪って女子知ってるよな?」

「けーちゃんから女子の話が出るなんて珍しいな。

 そりゃ勿論知ってるけど。クラス一緒だし。目立たない感じの大人しそーな子だよな。それがどしたよ?」

「アイツって、変わってね?」

「なして?」

 とても不思議そうなトモの表情からして、クラスでは本当に目立たなくて大人しいだけの子なんだな、と思いつつ続ける。

「九月の初めからずっと、俺に『おはよう』つって挨拶して来るんだよ。俺いっつも無視してんのにな。なんか変だろ」

「んー、俺はそんな印象なかったけどね。へぇ、挨拶してくれるんだ。よかったじゃん」

「よかない。毎日毎日、鬱陶しいし」

 あ、まずい。咄嗟に鬱陶しいとか言った。気まずくはあったけれど、鬱陶しいとは思ったこと無かったのに。

「何言ってんだよ。たかが挨拶だろー。部活でもすんじゃん」

「そうなんだけどさ…」

「別にあの子、けーちゃんが嫌いなタイプでもないでしょー」

 正直なんでそんな嘘をついたのか、よくわからなかった。

(…あれ)

 前までは、何とも思ってなかったのに?



 まさか無いだろうと思っていたら、姫峪は今日も「おはよう」と挨拶してきた。

 信じられない。相手に嫌われているとわかっていてどうして笑顔で挨拶するのか出来るのか。何を考えているか読もうとするものの、笑顔ばかりでさっぱりわからない。

 理解出来ない。

 姫峪は挨拶以外特に何も俺に話しかけず、俺と彼女を繋げているのは毎朝の挨拶だけ(繋がっているのかも微妙なところだが)。返事の無い俺に挨拶するくらいだ、友達もいないのかと思えば、普通に他の女子と話しているのを見かける。昨日は、例の見知らぬ男子とも話していた。

 姫峪優香という人物像が全く掴めない。

 女子というのは、否、姫峪優香という人物は、さっぱりわからない。

 「どうしてあんなことがあったのにまだ挨拶するのか」と聞いてみてもよかったけれど、声を掛け辛かったからやめた。

 次の日こうして普通に挨拶して来たのだから、そんなに気にしていないだろうし、まぁ、いいか。



 初めてだった。

 いつもならホームに居るはずの時間に、姫峪が居なかった。

 風邪でも引いて休んだのだろう。今、自分のクラスでも割と流行っているし。



 今日も姫峪はホームに居ない。これで一週間になる。

 きっと姫峪は乗車時間をずらしたのだ。

 嫌われてしまったんだろうな。

「…俺ってバカだよな」

 そんな呟きは、誰も聞く人がいなかった。




 更に一週間が経った。

 かれこれ二週間以上止まった挨拶。あれだけ日常と化していたものが無くなり、逆に「無い」ことが日常になりつつある。

「…暇」

 そうひとりごちたのは、果たして意識下だったのか無意識下だったのか。

 毎日あったはずの挨拶が消えた。何かが不足しているような気がする。

 電車が来るのが随分遅いと感じホームの時計を見ると、自分が思っていた以上に、全然時間は経っていなかった。



「なぁけーちゃん」

「んー?

 部活帰り、途中まで一緒に帰っていると、不意に呼ばれトモを見る。トモは俺の顔をじぃ――っと覗き込みながら(俺としてはあまり居心地がよろしくない)、そしてぽつりと。

「最近元気ない?」

「へ?」

 なんで、どこが、どんな風に、という疑問を一文字に込めて言えば、トモ自信言葉に出来るほどのはっきりした根拠が無かったようで、首をかしげた。

「何か、集中できてない気がする」

「そっかな?」

「ほら、部活で昨日思いっきり変なところにボール投げてたじゃん。それに俺のパス、ガン無視した上にシュート外すし? 注意力散漫って感じー」

「あんなパスされて入るかアホ」

 反射的に皮肉っぽく返したが、言われてみればそうだったかもしれない。普段普通に出来ていることが出来ず、イライラしっ放しだったような気もする。

「この一、二週間になんかあった?」

「別に? なんもないと思うけど」

「にしては…、なんかなぁー…」

 うーん、と必死に原因を探ろうとしているトモを見て、思い出そうとしているフリをする。だって心当たりなんて一つしかない。

「あ、そうか」

 ぱん、とトモが手を合わせる。

「通学ん時の挨拶だろ?」

「………はぁ?」

 なんということだ。トモは最近俺がおかしい理由が、姫峪にあると的中させた。

 なんでバレた。そんなわかりやすい反応をしたことがあったか? いやいやないはずだ。

 だがここでバレたと向こうに知らせるわけにはいかない。

「それはない。絶ッ対に無い。賭けてもいい」

「嘘つくなって。なんか、変化あっただろ」

 変化。姫峪がホームに来なくなって、挨拶をしなくなったこと。

「…あったっちゃあ、あったけど」

「ほらな! で、どしたの?」

「別に。二週間ちょっと前から姫峪と同じ時間の電車に乗らなくなっただけだし」

「あー、つまり会わなくなったわけだ」

 なるほどなるほど、とニヤニヤした顔で言われ、不愉快だったため一発殴ろうとしたら簡単に避けられた。

 コイツは何か勘違いをしているような気がする。

「最近なーんか妙に苛立ってると思ってたんだよなー」

 なんだ自分だけわかったような口ぶりしやがって。俺だってわかってるんだよ畜生。心の中で叫ぶ。あくまで心の中でだけ。

「…そんで、トモは何言いたいんだよ」

 さっさとこのよくわからない雰囲気から脱さないと、変なことを口走りそうな気がしたから早く結論だけ出させようとする。

「いやぁ、けーちゃんは姫峪に挨拶されなくなって寂しくって仕方ないから拗ねてるんだなーって思って。初々しいなぁもう!」

「拗ねてなんかねーし。寂しくもないし」

「はいはい。青春はいいねぇ、全力で謳歌しないと損だわー、うん」

「オヤジ臭っ。トモおまえ歳いくつだよ。つか彼女いるんだろ。しかもかなりいい雰囲気らしいじゃん。このマセガキ、いっぺん死ね」

「認めたく無いのはわかりますけど嫉妬はやめなさいな圭君。男の嫉妬は醜いですよー」

 何の話だ。でもって、何に対しての嫉妬だ。わけのわからないことを。

「物事の始まりは自覚からだゾ☆」

「…ウッゼェ」

「心から軽蔑した一言をどうもありがとう」

 友達から罵られてしれっとしていられるとはどういう神経をしてるんだこの男。

 けらけら笑っていたトモはふと、何かを思い出したように、

「そういえばさ、けーちゃん。姫峪が三週間くらい前、教室で泣いてて有希がなぐさめてた事があったんだけどさ」

(…え?)

 泣いていた? 三週間前と言ったら、正に言ってしまった日で…。

「学校来てからなら他の原因もまだあっただろうけど、朝一番となると、登校の時くらいしか泣く原因は無いと思うんだよ。この前姫峪が何でか毎日挨拶してくるって、言ってたよな」

 そこで初めて、トモは俺の眼を見据える。

「なんか、知ってるんじゃないの?」

 疑問形を取っているものの、トモの訊き方はそうだと断定しているようなものだった。

 知らないわけがない。トモの予想に違わず、原因は自分なのだから。

 でも。

「知るわけないだろ」

 言わなかった。

 言えなかった。



 昨日トモはあそこで「そっか」と言ったきりそれ以上は言及してこなかったが、姫峪が泣いていたことが気になった俺は、有希を尋ねた。

 有希は姫峪と同様に、目立たなく大人しい、おっとりとした性格だ。幼稚園からの幼馴染だから話しかけやすかった。

「三週間ぐらい前、姫峪さん…、何か様子がおかしかったこととか、あったか?」

 有希の表情が固まる。どうやら思い当たる節があったらしい。左手を軽く顎に当てる。

「えぇとね…、優香が凄くショックを受けてて、『嫌われちゃったのかなぁ』って泣きながら登校してきたのがそれくらいだったと思う。けーちゃん、あんたが何か言ったんでしょ」

 う、と言葉を詰まらせると、やっぱりねと溜息をつく。

「優香は、毎日けーちゃんに挨拶するのを楽しみにしてたんだよ。

 自分が嫌なら時間をずらせばいいのに、ずっと同じ時間でいてくれて、挨拶しても返してくれないけど聞いてくれてるのはわかってたから嬉しかったって」

 知らなかった。知らなかったのだ、そんなこと。

 知っていたら、「ウザイ」なんて言わなかった。否、言えなかっただろう。

 あぁ。自分はなんて最低野郎なのか。

 理解出来ない奴と勝手に姫峪を決め付けた。深く考えようともせず、相手を罵った。

 姫峪はいわれのないイライラをぶつけられて。

 学校でも、軽はずみな行動をするなと、よく考えてから行動しろと言われていた。自分は割と守れていると思っていた。

 でも実際は逆で、三週間前のあれなんて、軽はずみ以外の何でもない。自分が苛々していただけで、簡単に姫峪に酷いことを言ってしまった。

 毎日挨拶している相手にあんなこと言われたら、誰だって傷付く。なのに次の日から一週間、その前と何ら変わらず挨拶してきたから、何も気にしていないのだと思い込んでいた。

 最低だ。…本当に。

 余程暗い顔をしていたのだろう。有希に「けーちゃん」と名前を呼ばれる。

「何を言ったのかは知らないけど、自分がやっちゃったなぁっていうのはわかってる?」

「…うん。謝るべきだと思ってる」

「だったらいいよ。じゃ、私に任せて」

 そういえば忘れていた。

 このクラスメイト兼腐れ縁、素晴らしいお節介焼きだった。


 公園を目指し歩きながら、俺は緊張から変な汗をかいていた。

 妙に自信に満ちた表情で任せろと言った有希は、

「今日の部活帰りに、相談があるとか何とか言ってけーちゃん家の近所の公園、あったでしょ? そこに日曜、優香呼び出すから」

「はい?」

「そこで会って優香と話せばいいって言ってるの。学区外だから同級生と出くわす可能性もかなり低いし、丁度いいでしょ」

 今回ばかりは有希がお節介なのを感謝する。幼馴染だとはいえ、そこまで気を利かせてくれるとは思ってもみなかった。

「ありがとう」

「うやむやなまま終わったら駄目だからね」

「うん」

「じゃあ、頑張って」

 そんな経緯があって、今、公園に向かっている。

 公園が見えてきた。ブランコと、滑り台と、ジャングルジムと。

 そして、こっちに背を向ける形で、姫峪がベンチに座っていた。日曜日であるため、彼女も自分と同じく私服である。

 距離が五メートル以内に詰まってからは、姫峪に近付いているのが実感できて、ばっくん、ばっくん、と激しく心臓が跳ねていた。一歩一歩踏み出す足が凄まじく重く、沼を進んでいるような錯覚さえ覚える。

 姫峪から三歩後ろで、立ち止まる。

 名前を呼べばいいだけなのに、口が開かない。息が詰まる。

 左手を心臓の位置に添えて、深呼吸。

 そうだ、落ち着け緒方圭。

 ぎゅっと爪が白くなるほど拳を握り、すぅっと息を吸い込んで。


「姫峪さん」


 言えた。


 呼ばれた瞬間彼女はばっと振り返り、目を見張った。

「緒方君…?」

 戸惑ったような、焦っているような、泣きそうな表情の姫峪と目が合った。両方が両方、非常に気まずいし空気が重い。

 じっと見ているだけでは何も始まらない。用があって呼び出したのはこっちだ。

 しどろもどろになりながらも謝罪の言葉を口にする。何しろこんな緊張した状態で謝ったことなんて無いため、どうすればいいのかわからない。

「あ、あの…さ、一ヶ月ちょっと前、ウザイとか言った…じゃん?」

「…うん」

「有希に、泣かせたって聞いて…、それで…、…えぇと、………ごめん」

 最後はかなり声が小さくなってしまったが、それだけでも自分では頑張った方だ。

「………」

 姫峪は無言で聞いている。ああ失敗したか、と虚脱感に似た何かが頭を真っ白にする。何も考えらない、どうしよう。

 彼女は身体ごと俺の方に向けると、一度俯いてから、立っている俺を見上げた。

「…緒方君は、私のこと、嫌いじゃないの?」

「え?」

「私、迷惑じゃなかった…?」

「え、えぇぇえ?」

 もしかして姫峪は、悪かったのは自分だと思っていたのか? それで、理由こそ違えど俺と同じように気まずくなって、電車の時間を…?

 彼女が時間を変えたのは、俺と会いたくなかったからじゃなかったのか?

「…ちがう、の?」

「違う、全然迷惑とか嫌いとか思って無かった!」

 それを聞いて、姫峪はぱちくりと目をしばたたかせる。

「…ほんとう?」

「ホント!」

 ここまで叫ぶように言ったら逆に言い訳みたいで不自然じゃないかとか、そんなのを考える余裕は一切無かった。

「…よかったぁ…」

 姫峪は暗かった表情を心底安心した笑みに変える。

 と、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれてきた。

 そして残念ながら、この俺緒方圭は、女子に目の前で泣かれた経験は、この十三年間でまるっきり無い。

「ご、ごめんっ」

「違うの、緒方君。あのね、私…」

 どう対処していいのかわからず、また自分のせいで泣かせたのかと思い、あわあわとなんだかよくわからないが周囲を見回す(人間パニックになるとびっくりな行動を取るものだ。多分)。

「嬉しい」

 泣いたままで、彼女は笑った。綺麗な笑顔だった。

「二学期始まってすぐ声掛けちゃって、その日から何だか気まずくなったでしょ?

 それでも私は挨拶したけど、どうしても最初を引き摺っちゃって、なんだかなぁって感じで」

「…うん」

 気持ちはよくわかった。こっちはする方じゃなくて返さない方だったけど、一度気まずくなってしまうと、どうしてもそこから立ち直ることが出来なかった。

「…あのさ」

 ずっと気になっていた。聞くならここしかない。

「どうして知りもしない俺にに挨拶したんだ…?」

 姫峪は苦笑する。

「緒方君は覚えてないみたいだけど、私、中学入る前に一回緒方君と会ってるんだよ?」

「…嘘」

 覚えが無い。中学に入る前なら、小六か、春休みかそのあたりのはずだが。

 姫峪は自分の右隣の空いたスペースをぽんぽん、と叩く。座って、というジェスチャーなのだろう。ぎくしゃくした動きでそこまで行くと、ちょんと腰掛ける。

「ちょっとした思い出話、聞いてくれるかな?」



 それは中学校に入る前の、物品販売の日。

 学区外からその中学に行く私は、勿論その日も電車で行っていた。

 本当はお母さんがついてきてくれるはずだったけど、働いているから急に仕事が入って一緒に行けなくなってしまった。

「一人で行ける? 結構駅と学校近いんだけど…」

「じゃあ私一人でも行けるよ、大丈夫」

 お母さんはそれを訊いて安心し、駅から学校までの地図を私に渡した。

 私は地図を服のポケットに入れ、ショルダーバックを提げて家を出る。

 ポケットなんかに入れてたら、何かの拍子で落としそうだなんて、誰でもわかったのに。

 今なら、それが緒方君と出会うきっかけになったと思えば、その無用心もまぁいっか、って思える。

 そして私は、中学の最寄り駅で降りてホームを出ようと切符をポケットから取り出した。その時、気付かず地図のメモを落としてしまった。

 落としたのに気付いたのは改札口から出てきてすぐで、ポケットを探してもメモが無かった。メモが無いと、中学校までの道がわからない。しかも学区外に住んでいる私からすれば、そこは見慣れない、未知の世界同然で、急に凄く心細くなった。

 訊けば早かったけど、どちらかというと内気な私は、そのあたりを歩いてる大人に話しかける勇気は無い。

 どうしよう、どうしよう。お母さん。誰か。誰か話しかけられそうな人。知らないって言われたらどうしよう。誰か、知ってる人、いないかな。

 その時目に入ったのが、中学校の名前が入ったビニール袋を提げて歩く男の子。物品販売の帰りだとわかった。

 この子なら間違いなく知ってる!

「あの!」

 多分捨てられた子犬のような目をしていた私は、泣きそうになりながら縋りつくようにその男の子に声を掛けた。

「何?」

 男の子は私を見て、その必死さに何かを感じ取ったのか、

「…どうかした?」

「中学校までの道、教えてくれませんか…?」

 うるうるうるうる。

 自分でそうしようとしたわけではなかったけど、相当切羽詰っていたらしくて、男の子はうなずいた。

「書くもの持ってない?」

「こ、これを」

 鞄に入れているボールペンを取り出し恐る恐る渡す。

 男の子は自分の袋についていた紙をはがすと、それを裏紙にざかざか地図を描いた。少し雑ではあったものの、充分わかるぐらいだった。

「はい」

 手描きの地図と自分のボールペンを渡され、受け取った私はぎゅっと大切そうに抱える。

 私がぺこ、と頭を下げると、男の子は「そんじゃ」と言ってすぐに去ってしまった。

「あ、あの…」

 結局男の子にお礼は言えなかった。言いたかったのに。言いたかった言葉はいっぱいあったのに。

 同級生の子なら、中学に入ってから言えるかな。ううん、入って、会ったら言おう。


 無事に物品販売で注文していたものを買えた私は、帰りの電車で、何気なく地図の紙をひっくり返した。

「緒方…圭、くん?」



「―ありがとう、緒方君。今更でごめんね」

 そうだ。やっと思い出した。確かに、やたらと必死な女の子に一度、学校までの道を書いた。

「…それが、姫峪さんだったのか」

「うん」

「…気付かなかった…」

「名前知ってたから、名簿見たときにわかったよ」

 話を聞いて今頃、最初のあのきらきらした瞳の理由がわかった。そうか。だからだったのか。これでやっと辻褄が合う。

「…一つ、聞いてもいいか?」

「うん」

「俺が…、その、ウザイって言った日に一緒に居た人って、誰だったんだ?」

 ずっと気になっていた。あれが誰だったのか。

「え? …あぁ!」

 〝誰の事?〟と言わんばかりの表情が一転、彼女はくすくすとおかしそうに笑い出す。

「あれね、私の三つ上のお兄さん」

 お兄さん?

「いつもは私と緒方君が乗ってる電車の二つ次のに乗ってるんだけどね。あの日は珍しく一緒に登校したの」

「そう…だったんだ…」

 …あれ。

 もしかして自分は、そのお兄さんの前でとてつもなく失礼なことを言ったんじゃ…。

「…お兄さん怒ってなかった?」

「ううん、全然。『青いなぁ』って言ってたよ」

「…?」

 言っている意味がよくわからなかったが、そろそろ何となく居心地の悪くなってきた俺は、帰らねばと思い、ベンチから立ち上がって姫峪に背を向ける。

「またね」

「…また、明日に」

 見なくても彼女が嬉しそうに笑ったのがわかった。自分もそれにつられて笑ったなんて、まさかそんな。




 今日も姫峪は俺が着くよりも前にホームにいて、俺が階段を上がってくるのを見ると、にこっと柔和な笑みを浮かべる。

 俺も、はにかんで笑った。


「おはよう、緒方君」

「おはよう、姫峪さん」


私の中では始めて書くジャンルです。

これまで「ファンタジー最高ーー!!」と叫びながら書いていたので、非日常・非現実が無いことに対して何だか物凄く心細くあり新鮮でもありました。


ファンタジーならちょっとした矛盾が起きても、「…ま、あとでこじつけるか」ってなって放っておくのですが、現代物ではそうもいかず。


色々言ってますが全体的に楽しく書きました^^

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