第17話:カロリー収支の絶望とサボりへの渇望
謎の荒野に来てからおよそ一ヶ月。
長く過酷だった極寒の冬が終わりを告げ、極寒の森に春が訪れつつあった。
雪解け水が大地をぬかるませ、冷たい風の中にも微かな土の匂いが混じり始めている。
九条たちと先住民(タラックたちの部族)との関係は、オンドルでの越冬と食糧の提供を経て、目に見えて軟化していた。
今では九条の許可のもと、メンバーが戦士の護衛付きで集落の中を見学して回ることも許されている。
その日、集落の様子を視察に出た東航平と郷田剛は、ぬかるんだ丘の上から、村人たちの日常的な労働風景を無言で見下ろしていた。
「…………」
東の目は、まるでバグだらけのクソコード(プログラム)を見つめるエンジニアのように、冷たく、そして深く絶望していた。
「……なあ、郷田。俺、ちょっと計算してみたんだが」
東が、ボソボソと覇気のない声で口を開く。
「ん? 何の計算だ?」
腕を組み、村の構造を土木的視点で観察していた郷田が、視線を東に向ける。
「カロリー収支だよ。……あそこの水汲みを見てみろ」
東が顎で指し示した先では、毛皮を着た村の女性や子供たちが、素焼きの重そうな壺を抱え、急な斜面を下って川へ向かっていた。
雪解けでドロドロになった斜面を、滑らないように踏ん張りながら歩き、川で冷たい水を汲み、そしてその数十キロの重さになった壺を抱えて、再び急斜面を登ってくる。
『……往復で約二十分。それを一日に四回か五回。道は最悪の泥濘。壺の自重も含めれば、運搬にかかる負荷は尋常じゃない。消費カロリーは一回につき最低でも150キロカロリー、一日で600から800キロカロリーは消費しているはずだ』
東の脳内で、冷酷な数字の計算式が組み上がっていく。
「……一日800キロカロリーを消費して、彼女たちが手に入れている成果はなんだ?」
「そりゃ、水だろ。生活に必要な水だ」
郷田が当たり前のように答える。
「そうだ。水だ。カロリーはゼロだ。つまり、生きるために必要な基礎代謝とは別に、ただ『マイナス800キロカロリー』の重労働を毎日強制されている。完全な赤字プロジェクトだぞ、これ」
東の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。
さらに東は、集落の入り口へ視線を移した。
そこには、朝早くから狩りに出ていた成人男性の戦士たちが数人、疲れ果てた様子で帰還してくるところだった。
彼らの手には、小さな野ウサギが二匹と、リスのような小動物が数匹ぶら下がっているだけだった。
「……あれもそうだ。屈強な男たちが五人で、朝から八時間、極寒の森を歩き回った。消費カロリーは一人当たり最低でも2000キロカロリー。五人で一万だ」
「……」
「対して、あの獲物の総カロリーは良くて三千から四千ってところだろう。……大赤字だ。動けば動くほど、村全体のカロリーがゴリゴリ削られていく。生きているだけで破産に向かっているようなもんだ」
東は両手で顔を覆い、深いため息をついた。
「俺たちが罠で獲った肉を分け与えなきゃ、この村は遅かれ早かれ餓死してたぞ。……なんて非効率なんだ。バグだ。生活のすべてが致命的なバグにまみれてる」
郷田は東の言葉に頷きつつも、豪快に笑い飛ばした。
「ははっ! 違ぇねえ。だが、これが『自然の中で生きる』ってことのリアルなんだろうぜ。俺たちがいた現代のインフラが、いかに異常なチートだったかってことの証明だ」
「笑い事じゃないぞ、郷田……」
東が顔を上げ、郷田をじろりと睨む。
その瞳の奥には、普段の気怠げな態度からは想像もつかない、暗く、ねっとりとした執念の炎が宿っていた。
「……このままじゃ、俺たちはサボれない」
「……は?」
「いいか。この絶望的に非効率な環境を放置すれば、遅かれ早かれ、俺たち自身が水汲みや狩りの手伝いに駆り出されるハメになる。ドロドロの泥を這いつくばって、ゼロカロリーの水を運ぶ労働……想像しただけで反吐が出る!」
東は自分の頭を掻きむしった。
『ITエンジニアである俺の本来の仕事は、空調の効いた部屋で、高いコーヒーを飲みながら、キーボードを叩くことだけだ。肉体労働なんて絶対に御免だ!』
「俺は、俺が絶対に働かなくて済む環境を作る。指先一つ、キーボード以外は一切触らなくて済む、全自動インフラを組む……!!」
それは、究極の後ろ向きな理由から生まれた、強烈なモチベーションの爆発だった。
エンジニアとは「一時間の定型作業を自動化するために、百時間の残業を喜んでこなす」という狂気を孕んだ人種である。
東は今まさに、この村全体をハッキングし、全自動化するための設計図を脳内で猛烈な勢いで引き始めていた。
「おい郷田。お前の土木知識と、俺の計算ロジックを合わせるぞ。まずはあのふざけた『水汲み』というバグを完全に消し去る」
「……おいおい、本気か? この設備もない状況でか?」
「やるんだよ。俺の安眠とサボりのために……死ぬ気で働くぞ」
***
一方その頃。
オンドルの暖かい拠点内では、九条蓮が新たなフェーズの言語解析に取り組んでいた。
彼の前には、大量の石板と、消し炭が置かれている。
向かいに座っているのは、タラックではなく、タラックの妹である『アナヒータ』という若い女性だった。
九条は手元の石板を指で弾いた。
「……ローマ字だ。日本人が無意識に使う、母音をベースにしたヘボン式あるいは訓令式のローマ字表記。これこそが、音を記号化する上で最も無駄がなく、俺たちの脳に直結する完璧なプロトコルだ」
九条はアナヒータに、木で作られた器に入った水を指差した。
「アナヒータ。もう一度だ。これは?」
アナヒータは、九条の真意を探るように賢敏な目を細め、はっきりと発音した。
「……ンビ」
九条は即座に石板に書き込む。
【 nbi 】
「肉は?」
「オヨス」
【 oyosu 】
「木は?」
「ヒットゥク」
【 hittuku 】
『……完璧だ。日本語のローマ字表記のルールに当てはめれば、彼らの発音の9割以上を正確にトレースできる。鼻音からの連結も、促音も、すべてローマ字の法則で処理可能だ』
九条の口元に、冷たくも確信に満ちた笑みが浮かぶ。
「よし、アナヒータ。お前は飲み込みが早い。次は動詞の活用パターンを検証するぞ」
九条が次の石板に手を伸ばしたその時、拠点の重い木の扉が乱暴に開かれた。
「九条! 帰ったぞ!」
息巻く東と、その後ろで苦笑いする郷田が入ってくる。
「……騒々しいな。視察はどうした」
九条が消し炭から顔を上げ、冷ややかに問う。
東は九条の前にズカズカと歩み寄り、血走った目で言い放った。
「あの村のシステムは完全に破綻してる。俺は三日で限界だ。あんな無駄な労働をこれ以上見過ごすわけにはいかない」
「ほう?」
九条は興味深そうに目を細めた。
普段は「どうやってサボるか」しか考えていない東が、これほどまでに熱量を帯びているのは珍しい。
「……で、どうするつもりだ?」
「水だ。まずは川から村までの『水汲み』という物理的なバグを潰す。高低差と管を使った、重力灌漑システムを組む。郷田、お前も手伝え。竹や中空の木材をかき集めろ!」
東の宣言に、郷田は太い腕を組んでニヤリと笑った。
「へっ、仕方ねえな。基礎工事と配管のルート設計は俺に任せとけ」
九条は二人の様子を見て、ふっと静かに笑った。
『……人間の行動を最も強く突き動かすのは、高邁な理想などではない。「楽をしたい」「苦痛から逃れたい」という根源的な欲求だ。東のその欲求こそが、この未開の大地に技術革命を起こす最強のトリガーになる』
「許可する。好きなようにやれ、東。お前のその執念がどれほどのものか、見せてもらおう」
九条の言葉に、東は不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、見てろ。明日から数日、俺は過労死する一歩手前まで働く。……未来永劫、完全にサボり倒すためにな!」
狂気的なITエンジニアと、現場を知り尽くしたインフラ屋。
二人の天才による、原始の村を根底から書き換える「強制アップデート」が、今まさに始まろうとしていた。




