『肺魚のあくび』
本作に目を留めていただき、ありがとうございます。
私は、派手な感情の動きよりも、淡々と過ぎていく時間や、世界の物理的な仕組みを描写することに惹かれる書き手です。そのため、ここにある物語も、劇的な救済よりは「それでも続いていく生活」の記録に近いかもしれません。
少し硬質な文章もあるかと思いますが、不完全な世界のありようを眺めるつもりで、読んでいただけると幸いです。
01
路地の奥から吐き出される蒸気が、視界を白く濁らせていた。
クレイは右足を引きずるようにして、石畳の継ぎ目を跨いだ。膝の皿の裏側で、錆びた蝶番がきしむような音がする。雨が近い証拠だった。頭上を走る太い真鍮のパイプからは、絶え間なく何かの廃液が滴り落ち、濡れた地面が黒く光っている。
『肺魚のあくび』の看板は、煤けて文字の輪郭を失っていた。
ドアノブを掴む。掌の皮が強張っていて、金属の冷たさをうまく拾えない。手首を捻ると、建て付けの悪い木扉が悲鳴のような音を立てて抵抗した。クレイは肩を押し当て、体重を預けるようにしてその隙間をこじ開けた。
店内に充満しているのは、焦げた豆の匂いと、安っぽい機械油の臭気だった。
昼の労働で肺に溜まった粉塵が、湿気を含んだ空気と混ざり合い、喉の奥に粘着質な塊を作る。クレイは一番奥、壁際の席へと向かった。革張りの椅子はところどころ破れ、中から黄色いスポンジが内臓のように覗いている。
腰を下ろすと、背骨の節々がぱっきりと鳴り、身体の芯から力が抜け落ちていく感覚があった。泥のように重い。
テーブルの表面は、拭き残された油膜でわずかに指に吸い付く。その不快感が、かえって彼に「座っている」という実感を強烈に与えた。
天井の隅では、古びた換気扇が回っている。カッ、カッ、カッ。自分の脈拍よりも僅かに遅い間隔で、何かに引っかかるような異音を繰り返していた。その規則的なノイズが、クレイの思考を薄く削り取っていく。
給仕の女が近づいてくる気配がした。
「いつものか」
声には抑揚がなく、まるで部品の型番を確認するような響きだった。クレイは頷こうとして、首の筋が石膏で固められたように動かないことに気づく。視線をテーブルの木目に落としたまま、彼は喉を鳴らして肯定の意を示した。
女が去ると、再び換気扇の音だけが耳に残る。カッ、カッ、カッ。
クレイは作業着の胸ポケットから、煙草を取り出そうとした。だが、指先が微かに震えて、箱の角をうまく摘めない。爪の間に詰まった黒い油汚れが、白い箱に点々と転写されていく。
汚れている。ふと、そんな単語が脳裏を過ったが、それが自分の手を指しているのか、この店のことなのか、あるいは都市そのもののことなのか、判然としなかった。思考を組み立てようとする端から、疲労がそれを押し流してしまう。
ただ、目の前の空間に漂う塵が、西日を受けて鈍く光っているのを目で追った。
ガラスコップの水滴が、テーブルの傾きに従ってゆっくりと滑り落ちていく。その軌跡が、今の自分にはひどく遠い出来事のように感じられた。喉が乾いているはずなのに、水を飲むという動作に至るまでの回路が、どこかで断線しているようだった。
やがて、盆がテーブルに置かれる硬い音が、彼を現実に引き戻した。湯気を立てるマグカップの横に、いつもの歪んだ真鍮のスプーンが添えられている。
クレイはそれを無意識に手に取った。柄の冷たさが、ようやく指先の震えを止める。カップの中の黒い液体が、小刻みに揺れていた。それは、地下の暗渠を流れる汚水と同じ色をしていたが、今の彼にとっては、この世界で唯一、体内に取り込むことを許された聖水のように思えた。
スプーンを沈める。液体が渦を巻き、底に沈殿していた粉末が舞い上がる。その混濁を見つめながら、クレイは今日初めて、深い呼吸をした。
肺の奥で、何かが軋む音がした。
02
歪んだ真鍮のスプーンが、マグカップの縁に当たる。カチリ、という硬質な音が、粘り気のある空気の中に吸い込まれて消えた。
クレイは両手でカップを包み込んだ。分厚い陶器越しに伝わる熱だけが、冷え切った指先の感覚を輪郭づけている。掌の皮が分厚くなりすぎていて、熱いのか痛いのか、その境界が曖昧だった。
顔を近づける。湯気が眼球を直接舐めるような湿り気を帯びている。それは植物の根を焦がしたような、あるいは湿った土を焙ったような匂いがした。本物の豆など、この帝都の下層に降りてくるはずもない。これは「代用」と呼ばれる黒い泥水だ。
彼は唇をカップの縁に押し当て、熱い液体をすするようにして口内に流し込んだ。
舌先が焼けるような刺激に縮こまる。次いで、強烈なえぐみが口腔の粘膜に張り付いた。喉を通る瞬間、食道が異物を拒絶するように僅かに収縮する。だが、その不快な抵抗感こそが、クレイが求めていた「重石」だった。胃の腑に熱い泥が落ちると、浮き足立っていた疲労が、底の方へと無理やり沈められていく。
ふう、と息を吐く。白い蒸気が視界を曇らせ、店内の景色を油彩画のように滲ませた。
視線の先、三つほど向こうの席には、猫背の老人が座っている。老人は何も飲まず、ただテーブルの上の灰皿を、親指の腹で繰り返し撫でていた。シュッ、シュッ、という乾いた摩擦音が、換気扇のノイズの隙間を縫って聞こえてくる。
クレイはその指の動きを目で追った。老人の爪は黄色く変色し、第一関節が不自然に隆起している。あの指が灰皿の縁を一周するのに、呼吸二回分の時間がかかる。
なぜ見ているのか、自分でも判然としない。ただ、視線を外すための筋力を使うのが億劫だった。思考が油膜のように広がり、まとまりを欠いている。
明日のシフトのこと。配管の詰まり具合。家賃の支払い。それらの単語が脳裏に浮かんでは、カップから立ち上る湯気のように形をなさずに消えていく。考えるべきことは山のようにあるはずだが、今の彼には、目の前の液体の表面に浮かぶ、虹色の油の模様を観察することの方が重要に思えた。
この油はどこから来たのだろう。調理場の排気か、それとも自分の指の汚れが溶け出したのか。
クレイは再びカップを持ち上げようとして、手が止まった。指の震えは止まっていたが、今度はカップがひどく重く感じられた。まるで陶器の底がテーブルの天板と癒着してしまったかのような錯覚。
帰りたくない。
ふと、明確な拒絶が胸の奥で渦巻いた。ここを出れば、狭い自室に戻らなければならない。湿気た壁紙と、隣人の咳き込む声と、冷たいベッドが待っているだけの場所へ。あそこに戻るくらいなら、この焦げ臭い椅子の一部になってしまった方がいい。そんな卑小な逃避願望が、喉の奥のえぐみと混ざり合う。
彼はスプーンを再度手に取り、液体を撹拌した。底に溜まっていた黒い粉末が舞い上がり、再び渦を作る。金属のスプーンを口に含むと、鉄と血の味がした。
ズズッ、と音を立ててすする。液体は、いつの間にかぬるくなっていた。
熱を失った代用コーヒーは、ただの苦い泥水へと劣化していた。その味気なさが、彼に時間の経過を残酷なまでに告げていた。
クレイは舌打ちをしたくなり、それすらも面倒で、ただ深く椅子に背を預けた。天井のシミが、人の顔のように見下ろしている。
03
静止していた灰色の時間が、唐突にひび割れた。
「……カッ、ゴ、ホッ」
隣の席から、空気を引き裂くような音が弾けた。あの老人だった。テーブルに突っ伏すようにして、背中を波打たせている。
クレイは眉間しわを寄せ、反射的に奥歯を噛み締めた。音は一度では終わらなかった。ゴホッ、ガッ、ヒュウ……という、肺の奥から絞り出されるような湿った喘鳴が、店内の油っぽい空気を振動させている。それは錆びたポンプが無理やり泥水を吸い上げる音に似ていた。
不快だった。鼓膜を直接紙やすりで擦られるような感覚。
クレイはカップを持ち上げたまま、動きを止めた。冷めた代用コーヒーの液面に、老人の咳の振動が伝わり、同心円状の波紋が広がっては消える。その波紋を見ているだけで、胸の奥がざわついた。
老人の背中は、咳をするたびに痙攣し、着古したジャケットの縫い目が裂けそうに張り詰める。誰かが背中をさすってやるべきなのかもしれない。あるいは水を差し出すべきか。だが、クレイの身体は石像のように椅子に張り付いて動かなかった。
同情などなかった。あるのは、ただ純粋な苛立ちだけだ。なぜ、今なのか。なぜ、俺がコップ一杯分の温かさを貪っている、このわずかな隙間に、他人の内臓の腐った音を聞かされなければならないのか。
老人の喉の奥で、痰が絡む粘着質な音がした。ジュル、という水音が、クレイの神経を逆撫でする。彼はカップをテーブルに戻した。陶器の底が木板を叩く音が、思ったよりも大きく響いたが、老人の発作にかき消されて誰の耳にも届かない。
「……ッ、ウ、ウゥ」
老人が呻き声を漏らし、テーブルの端を爪で掻いた。その爪が木目を削る乾いた音が、クレイの歯の浮くような感覚を増幅させる。
店内の他の客たちも、誰も動こうとはしなかった。給仕の女さえも、カウンターの奥でグラスを拭く手を止めず、ただ無関心な背中を向けている。この帝都の下層では、他人の苦痛など、壁のシミが増える程度の出来事に過ぎない。
クレイは息を殺した。自分の呼吸音さえもが、老人のリズムと同調してしまうのが怖かった。右膝の古傷が、不協和音に共鳴するように疼き始める。ズキ、ズキ、と脈打つ痛みが、この空間からの逃走を促していた。
もう、コーヒーの味はしなかった。口の中に残っているのは、鉄錆のような血の味と、隣の老人が吐き出した病的な呼気の気配だけだ。
帰ろう。思考がまとまるよりも早く、身体が拒絶反応を示していた。これ以上ここにいれば、自分もあの老人のように、内側から腐った音を立てて崩れ落ちてしまうような気がした。
クレイはポケットの中の硬貨を弄った。指先が湿っている。それが手汗なのか、あるいは店内の湿気が凝結したものなのか、彼には区別がつかなかった。
ただ、椅子の革張りが尻に張り付く感触を、強引に引き剥がすための意思だけを、どうにか掻き集めた。
04
クレイは席を立ち、逃げるようにカウンターへ向かった。膝の蝶番が、悲鳴を上げるのを無視して歩幅を広げる。背後ではまだ、あの老人が肺の中身を撒き散らすような咳を続けていた。
ポケットから掴み出した硬貨を、カウンターの木の天板に置く。湿った銅貨が三枚。指先の脂と手汗で、硬貨は天板に吸い付くように張り付いた。
給仕の女は、グラスを拭いていた布巾を止めずに、顎だけで釣り銭不要の合図をした。彼女の視線はクレイを通り越し、虚空のシミか何かを見つめている。そこには「ありがとうございました」という定型句すら存在しなかった。ただ、精巧な自動販売機が、歯車に従って硬貨を飲み込んだ。それだけの事実。
クレイは舌打ちを飲み込み、出口の扉に手をかけた。
重い。入店時よりも、蝶番の抵抗が増しているように感じられた。全身の体重を乗せて押し開ける。
途端、冷たい風が顔面を殴りつけてきた。
扉が背後で閉まる。バタン、という乾いた音が、老人の咳とコーヒーの焦げた臭いを、物理的に切断した。
路地は、入店前と変わらないはずの夕闇に沈んでいた。だが、クレイが石畳にブーツの底を落とした瞬間、奇妙な違和感が足首から脳天へと駆け上がった。
地面が、浮いている。いや、自分の身体の輪郭が、風景と噛み合っていない。
頭上を這う配管群からは、シュー、シュー、と蒸気が漏れ続けている。遠くの大通りからは、巨大な歯車が噛み合う重低音と、馬車の蹄の音が混ざり合って響いてくる。それらの都市の鼓動が、今はすべて「雑音」として鼓膜を叩いた。
以前は、このリズムの一部として呼吸できていたはずだった。配管工として、この錆びた臓器の一部になりきっていたはずだった。しかし、あのぬるい代用コーヒーと老人の咳を経由した今、クレイという部品は、わずかに変形してしまっていた。
歩き出そうとして、足が止まる。
目の前を、作業着姿の男たちが通り過ぎていく。彼らの足音は、都市のノイズと完全に同期していた。自分だけが、半拍ズレている。
クレイは右手の平を見た。爪の間の黒ずみはまだ残っている。皮膚の荒れも、関節の痛みもそのままだ。なのに、この手はこの風景のどこにも触れることができないような気がした。まるで、ガラス一枚隔てた向こう側の世界を見ているような、透明な拒絶。
「……あぁ」
口から漏れた白い息が、蒸気に混ざって拡散していく。その行方を目で追うことすら、ひどく億劫だった。
帰らなければならない。あの湿気た壁紙の部屋へ。隣人の咳が聞こえるベッドへ。そこが唯一の帰還場所であるはずなのに、今の彼には、そこが巨大な廃棄物処理場の一角にしか思えなかった。
頭上のパイプから、黒い廃液が一滴、彼の鼻先に落ちた。冷たい。拭おうとして、腕が上がらない。
ただ、その冷たさが皮膚の上をゆっくりと伝い落ちていく感触だけが、彼がここに存在している唯一の証拠だった。クレイは雑踏の中に立ち尽くし、錆びついた空気を、肺が痛くなるまで吸い込んだ。
読了、ありがとうございます。
ページを閉じても、彼らの時間は止まりませんし、私たちの生活も続きます。それが時間であり、それが人生であると、私は考えています。
明快な答えや、わかりやすいカタルシスは提示できなかったかもしれません。それでも、この不完全な記録の中に、確かな「生活の手触り」のようなものを感じていただけたなら、書き手としてそれ以上の喜びはありません。
貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。




