9.キツネの嫁入り
ハァハァハァ…
息を切らしながら無我夢中で走って、二人は気が付くと神社の境内にいた。
―思わず逃げてここまで来てしまったが…よく考えると、仕事をほったらかしてしまったこの子の今日の給金はどうなるんだろう…
あの場ではしょうがなかったとはいえ、月白は我に帰ると、娘に対して急に申し訳ない気持ちになった。
「アハハハハ…何そんなしょぼくれた目で見てんのさ。」
思いがけず娘は月白を笑い飛ばした。
「…だって…君の今日の給金、もらえなくなるんじゃないか?」
「…それは…そうね。」
娘は首を傾げて考え込んだ。
「…本当にごめん。」
月白は深々と頭を下げた。
ー見た感じ、娘は自分より若い。こんな若さで働いているところを見ると、きっと貧しい家の家計を助けるために働いているに違いない。あの時、俺が考え無しに飛び出して行かず、冷静に警察を呼んでいたら良かったのだろう。あんな風に仕事をホッポリ出して出てきたんだ。
ーきっとこの子はもうあの店では働けないだろう。それにもし働けたとしてもあいつらが仕返しに来るかもしれない。…俺は大変な事をしでかしたのかもしれない…。
「いいのよ。仕事はあの店だけじゃない。それにね、お客さんも分かったでしょう? 私、こんなに不愛想なんだもの、接客業は向いてないのよ。」
娘は言った。
―この娘は自分の事を客観視できるんだな…。若いのに大したものだ。俺なんかいい年して自分の事がまるで分かっちゃいない…
月白は何故か落ち込んだ。その時、
「ほら、見て! 街の灯りが綺麗。」
娘は眼下に広がる街を指さした。
祭りは宴たけなわで、そこら中一帯が家や店、通り沿いに吊るされた提灯の灯りで煌々と輝いている。
―すごい…
月白は見たことも無い景色に心を奪われた。名家の後継ぎに生まれた彼は、このかたずっと勉学と武道に励み、こうして祭りに出かけたことなど無かったのだ。
「見てみたかったの…外の世界を。」
月白は娘が自分の心を読み取ったのかと思った。きっとこの娘も外の世界を見る暇などなかったのだろう…状況は違えど、我々は同じ境遇なのだ、と親近感が湧きあがった。
娘を見ると、店で見た仏頂面はどこへ消えてしまったのか、月白の目に移ったのは、目を輝かせた美しい娘の横顔だった。月白は胸の奥をギュっと掴まれたような気がした。すると突然太鼓を打ち鳴らすような動悸がしてきた。
―何なんだろう…この気持ちは…
月白は娘を抱きしめたい衝動に駆られたが、彼の理性がやっとのことでその衝動を抑えた。
「私、もう行かないと…。」
娘は言った。
―もう少し一緒にいたい…
本当はそう言いたかった。
しかし彼の口から出た言葉は
「…送って行くよ。」
というのが精一杯だった。
「ううん…それは出来ない。ここでお別れしよう。」
娘はそう言うとすぐに走り出した。
「君の名前は? せめて名だけでも教えてくれないか!」
月白は叫んだ。
娘は一度立ち止まって月白を見て言った。
「藤の…藤の霞!」
そして娘はあっという間に闇夜に消えていった。
―藤の霞…そういうのか…君の名は…
月白はいまだ高鳴る胸を押えた。