泉の底で
水の中なのに、自分の身体が底へ沈んで行くスピードが速い。水の抵抗がほとんどないように思える。
本物の崖から落ちた時とは比べようもないだろうが、それでも落ちたらこんな感じではないだろうか。ここが水の中だとは、信じられない。
もちろん、このまま素直に沈んでゆくつもりはないグレイヴァは、手と足を懸命に動かした。
夏の暑い盛りには、友達と川や池で遊んだりしたものだ。遠泳をやれ、と言われればあまり自信はないが、カナヅチではない。手で水をかき、足で水を蹴れば、行きたい方向へ身体は進むはず。
なのに、身体はそんなグレイヴァの努力を無視して、どんどん沈み続けるのだ。
どうして……もしかして、マルサラが話してた泉って、これかぁ?
さっきの話を思い出し、グレイヴァは背筋が寒くなる。
ここに落ちたら、自力で陸へは上がれない、ということ。
本当にどうあがいても、身体はひたすら沈み続けている。マルサラの話の通りだ。
い、いや、大丈夫だよな。アルテがいるし、俺が上がって来なきゃ、おかしいって気付くはずだろ。……息が切れてから、気付いてくれるなよな。
洞窟の中の泉だから、周りは薄暗い。その薄暗い水の向こうに、壁が見える。どこを見ても同じ物しか目に入らない。ひどく細長い縦穴に、水が溜まったような形なのだろうか。
いや、広かろうが浅かろうが、どうでもいい。ここは水の中で、どうやっても上に行けないのは同じだ。
いつまで落ち続けるんだよ……。
沈むと言うよりは、落ちるに近い感じだ。穴の中を、延々と落ちて行くような感覚。
グレイヴァの不安がどんどん増していった時。
ある地点まで来ると、突然周りが明るくなった。同時に広くなったようにも思える。急に開けた場所へ来たみたいだ。
きっとこの穴を断面図で見れば、フラスコのような形になっているに違いない。
底へ近付くにつれて、その明るさは増してゆく。
揺らめく水の中で、グレイヴァがその明るい方を見ていると、光の元になるような物があることに気付いた。
何だ、あれ……。
近付こうと思わなくても、身体は勝手に沈んで行くので近付くことになる。
石……源水石だ。でけぇ……。
光の中心にあるのは、グレイヴァ達が探していた源水石だ。
さっきの泉で見た石は色がはっきりわからなかったが、今見えている石はほとんど透明で、うっすら青い。水の加減だろうか。
源水石が光る、とは聞いていなかったが、たぶん間違いない。
しかも、大きさが人間の頭くらいもあった。これなら、確実に妖精達も助かる。
石のそばまで落ちて来ると、グレイヴァはその石に触れた。途端に、石の一部が崩れて落ちる。
ええっ、どうしてだよっ。
石が腐るはずは、と思ったが、よく見ると割れていたか何かで、そのかけらが落ちたのだ。
かけらは拳程の大きさで、丁度マルサラが言っていた必要な大きさだ。
こんな大きいのはいらないよな。こっちの割れた方を持って行けばいいか。
グレイヴァはその石に手を伸ばそうとして、ふと視線を感じて顔を上げた。
すると、石を挟んでグレイヴァの向かい側に、全身が石の色と同じように青い女性が立っていたのだ。
ほとんど輪郭だけで、水の中にいながら水が女性の形を作っているように見えた。でも、その顔は美しいとわかる。
人間のように、ちゃんと瞳があるのでもない。輪郭だけ。
でも、彼女の目に当たる部分は、じっとグレイヴァを見ている。はっきり視線を感じるのだ。
もしかしたら、石の番人かも知れない、とグレイヴァは思った。
洞窟の入口でコケを使い、侵入者を追い返すように仕向けた石の守り人。この水が全く浮力を持たないのも、ここまで来た侵入者を死に至らしめるためかも知れない。
マルサラの時は、彼女が子どもで、石を目当てにして来たのではない、とわかったから助かったのだろう。
でも、今は。
グレイヴァは間違いなく、石を目的にこの洞窟へ入って来たのだ。
相手が何もしなくても、ずっとここで睨み合っていれば、グレイヴァは勝手に窒息して死んでしまう。そして、石は守られるのだ。
冗談じゃない。ここでこの石を持って帰らなきゃ、来た意味がないんだ。この石を待ってる妖精がいるんだから。
グレイヴァは、じっと相手の顔を見詰めた。
言葉はもちろん、口を開くこともできない。だから、目で訴えるしかないと思った。
必死に念じれば、相手は人間ではないものだから何か通じるかも知れない、と。
この石が必要なんだ。俺じゃなく、洞窟の外の湖にいる水の妖精達が。この石がなきゃ、じきに消えちまうんだ。頼む。この石を俺に預けてくれ。絶対に悪用なんかしないから。どうすれば悪用になるかなんて、俺にはわからないんだから。
通じているだろうか。グレイヴァは何度も心の中で、妖精がこの石を必要としている、ということを繰り返す。
だが、水の女性は揺らめいているだけで何もしゃべらないし、表情も変わらない。
もしかして、水と光が見せている幻なのだろうか。揺れる水と、様々な角度に屈折する光のせいで、人の姿のように見えているだけかも知れない。
だが、今更そんなことを考えても遅い。止めていた息も、限界がきている。
もうこれ以上がまんできず、泡が口から出て行った。吐けば次は吸いたくなるが、ここに新鮮な空気はない。
ここで終わりなのか? 俺、終わっちまうのか? この石を待ってる妖精達も?
そう思った刹那、ふいに水の女性が動き、欠けた方の石を持つとグレイヴァの手に持たせた。
え? と思っている間に女性はふっと消えてしまい、後ろから手が回ってきた。
驚いて振り返ると、アルテの顔が間近にある。アルテがグレイヴァの腰に手を回し、もう片方の手で自分の身体に結わえているロープを引っ張った。
すると、ゆっくり二人の身体が上がって行く。
そっか。上で引き上げてもらえば、沈むばっかのここでだって陸へ上がれるんだ。崖下から救出されるようなもの、かな。
グレイヴァは渡された石をポケットにしまい、後は水面から顔を出せるのを待った。
が、石を渡された時点で、すでに限界だったのだ。
次第に、グレイヴァの意識は遠くなる……。
☆☆☆
グレイヴァの首が、がくりと前に倒れた。
それを見てアルテは焦ったが、どうにもできない。浮力がほとんど存在しないこの水の中では、グレイヴァの身体と自分の身体を支えるのも大変なのだ。
自分の身体にはロープが巻かれていても、二人分の体重が腰に食い込めばつらい。片手は腰に負担がかかり過ぎないよう、上へ伸びるロープを握ってはいるが、どういう体勢にしたって楽ではなかった。
それに、二人の体重は、外にいる女性の腕にもかかっている。いくらフィノがいると言っても、今の姿でどこまで力が出せるだろう。
アルテの息も、次第に限界に近付く。だが、水面はまだ遠い。
駄目元で、アルテはロープが縮むように魔法をかけた。
フィノ達が握っているはずの部分から、アルテが今握っている所よりも上の部分が縮めば。
ロープが短くなる訳だから、早く水の上へ出られるはずだ。
だが、何も起こらない。水の中で呪文がちゃんと効かなかったのか、やはりこの水の中では魔法が効かないのか。
どちらにしろ、フィノとマルサラが引き上げてくれるのを待つしかない。
だが、今魔法を使ったことで余計に身体に負担がかかり、アルテの腕から力が抜ける。
アルテはロープで身体を縛っているからそのうち水面へ出られるだろうが、グレイヴァを支える手の力が抜けてしまったら……。
意識を失ったグレイヴァの身体は、ひどく重い。支える腕がしびれて、感覚がだんだんと失われてゆく。
グレイヴァの身体が、アルテの腕をずるっとすり抜けかけた。さらに無理な体勢になって、支え直すこともできないアルテ。
腕の力がなくなり、もうまともに支えられなくなってきた時。
ふと、下から押し上げられる力を感じた。
下から水で吹き飛ばされようとしているような。大きな手にすくわれて、そのまま持ち上げられているような。不思議な感覚。
そして、次の瞬間には、水面から顔を出していた。
だが、それを自覚する前に、地面に放り出される。泉が二人の身体をペッと吐き出したような格好だ。
「アルテ! グレイヴァ!」
フィノとマルサラの声が重なる。アルテは咳き込んで、すぐには返事ができない。
「アルテ、アルテ……大丈夫?」
心配そうな表情で、フィノが顔を覗き込む。
いつもなら水や水を含んだものを触らないフィノが、ぬれて顔に張り付いているアルテの銀の髪を取った。
咳がどうにかおさまると、応える代わりにアルテは微笑んで見せた。
「グレイヴァ! しっかりして、グレイヴァ」
マルサラの声で、アルテとフィノがそちらを向いた。
すぐそばでアルテと同じように放り出されたグレイヴァだが、水から出ても息をしていないのだ。
「グレイヴァ? グレイヴァ!」
アルテがグレイヴァの頬を叩きながら名前を呼ぶが、反応がまるでない。遅かったのだろうか。
「あたしがやってみる」
マルサラがそう言うと、グレイヴァの鼻をつまみ、半開きになっている彼の口に自分の口を押し当てた。
数回息を吹き込み、様子を見る。と、グレイヴァが急に咳き込み、身体を横に向けて飲んでいた水を吐き出した。
しばらく荒い息を繰り返す。背中をさすられ、何度も自分の名前を呼ばれていることに気付いて、ようやくグレイヴァは顔を上げた。
「俺……助かったのか」
まだむせながら、何とか尋ねる。その声はかすれているが、グレイヴァは確かに自分が話していると自覚できた。
「ええ、ちゃんと生きてますよ」
もうダメだ、と思った。アルテが助けに来てくれたはいいが、息が続かず、そのまま気を失って。
でも、今はちゃんと呼吸している。手も足も動く。生きているのだ。
「何か大きな力が、ぼく達を押し上げて水から出してくれたんです。マルサラが話していたものと同じ力が、助けてくれたのかも知れませんね」
「そっか……。あっ」
グレイヴァは思い出して、手をポケットに突っ込んだ。冷たく固い感触を手にし、それを外へ出す。
そこには、アルテに助けられる寸前、水の女性から渡された石があった。
「それって、源水石? グレイヴァ、あんたって死にかけても、やることはやるのねぇ」
「おかしな感心の仕方、するなよ」
「でも、すごいわ。あの水の中で、石を持ち帰るなんて」
マルサラの方は、素直に感心している。
「この泉、身体が全然浮かなかったでしょ? そんな状況なのに、ちゃんと石を見付けて持って帰るなんて。普通ならパニックになるわ」
「マルサラの時と違って、アルテがいるって思ってたからな。魔法で何とかしてくれるだろうって、勝手に安心してたんだ」
「信じてもらえて嬉しいですが、実際は大変でしたよ。マルサラの糸玉をロープにしたはいいけれど、この泉の中で元の糸に戻ったらと思うと冷や汗ものでしたから。実際、泉の中では魔法も効きませんでしたしね」
「魔法が効かない所もあるんだな。……この石、俺が取ったんじゃないんだ」





