グレイヴァの心臓
マグノが外へ現れ、グレイヴァ達と話をしているのを見て、少し安心したのだろう。枝のあちこちに妖精達が現れ、珍しそうにこちらを見ている。
やはりマグノが力を失ったからと言って、すぐに離れてしまうことはなかなかできなかったのだろう。
マグノの話は、ここへ来るまでに夢の妖精から聞いていた話とほとんど変わらなかった。
魔物は、氷結の魔法を使って木を枯らすつもりでいるらしい。急激な温度差で葉がこんなに変色しているのだ。
もちろん、火で焼いてしまえば妖精は盾をなくすことになるから襲うのに楽なのだろうが、木の存在がなくなってしまえばよそへ逃げられてしまう。
恐らく、魔物は妖精達の木から離れられない気持ちを知っていて、じわじわと追い詰めてゆくつもりだろう。
邪魔な木の力を減らし、その場を離れられない妖精を襲えば、簡単にその力を奪えるはずだ。
「弱みを知られてるなら、とりあえず今だけでも別の場所へ逃げればいいじゃない」
妖精がいなければ、妖精が目的の魔物も来ない。その間に、マグノが力を取り戻せば。
「みんな、どこへ逃げればいいか、わからんのだよ。あちこちで遊び、ここへ戻って眠る、という習慣が身についているから。急に違う場所へ、と言われても動けないんだ」
まさか突然この木を奪われてしまうなんて、誰も考えていなかったから。こんな状況になって、ひたすら戸惑うばかりだ。
緑の妖精は、植物に属する。植物は自分で移動するのが苦手、もしくは不可能なように、妖精達も得意とは言えないのだ。
しかし、やっぱり自分達を守ってくれる木を放ってはおけない、というのが一番の理由らしい。
「そっか。妖精も、人間と似たようなことを考えるんだな。で、俺達は何をすればいいんだ? 力を取り戻す方法とかはあるのか?」
「ああ。実は……」
マグノがそう言い掛けた時。突然、枝にいた妖精達がざわめき出した。
「アルテ、来たわよっ」
その理由に、フィノが気付いた。魔物が襲って来たのだ。
「あいつ……俺の夢に出て来た奴と同じ顔してるぞ」
以前、グレイヴァの夢の中で、アージュと夢見石を探すことがあった。その時に襲ってきた魔物と、今現れた魔物が同じ姿形をしているのだ。
まるで黒いもやでできたような身体。背中には黒い翼。裂けた赤い口。黄色くつり上がった目。ねじれた二本の角。
人間に近い形で、だがこんな不気味な人間はいない。
「マグノは隠れていてください」
「ああ、すまんな」
マグノはおとなしく、木の中へ姿を消した。妖精達の姿もなくなっているから、どこかに隠れているのだろう。
その場にはグレイヴァとアルテ、そしてフィノだけになった。
「夢の中では強かったけど、現実ではどうかしらね」
フィノが、いつでも飛びかかれるように身構える。
魔物が腕を振った。冷気が吹雪となって襲いかかる。凍らせて、まずはこちらの動きを封じようというつもりか。
アルテはすぐにシールドを張り、その冷気から身を守る。あっさり弾き返せたから、そう強い魔力ではない。
すぐに反撃するべく、風を起こした。小さなつむじ風が起き、魔物へ向かう。だが、魔物も簡単にその風を弾き返した。
……ドクン……
グレイヴァは間近で、そんな音を聞いたような気がした。すぐにその音は、どんどん間隔を早めてゆく。
同時に、胸に鋭い痛みを感じて。
何だ、これ。……そうだ。昨日も、これに似た痛みが……。
魔物が腕を振ったのが見えた。氷のつぶてが、いくつも飛んで来る。
……ドクン……ドクン……
音がどんどん速まり、胸の痛みが音と共に増してゆく。
逃げる、もしくは防御しなければ、とわかっていても、痛みはあっという間に「耐えて戦える」というレベルを超えてしまう。
「うわっ」
氷つぶてのいくつかが、グレイヴァの左腕をかすめた。その勢いに押され、よろめいたグレイヴァはご神木に背中を打ち付ける。
魔物はそこを狙って、さらに氷の槍をグレイヴァに突き刺そうとした。
ぎりぎりのところでアルテが防御の呪文を唱え、グレイヴァの目の前で見えない盾に槍が突き刺さり、小気味いい音をたてて折れる。
攻撃の邪魔をされた魔物は、その黄色い目をアルテに向けた。
口の形は笑っているように見えるが、その目は笑っているようには思えなかった。
「まったく、もう……面倒なんだから」
アルテとフィノが、同時に風の魔法を起こした。さっきよりは大きなつむじ風が、二つできる。その風が魔物を両脇から挟み込んだ。
魔物はさっきのように弾き返そうとするが、風の勢いが強いのでそれができない。
あっという間につむじ風の中に巻き込まれ、その姿を保っていられず、もやのような身体は空気中に霧散した。
もう何の気配もない。
「ずいぶん早く、決着が着きましたね。姿は同じでも、レベルが違うんでしょうか」
「これが現実よ。……グレイヴァ、あれくらいの攻撃がどうして防御できないの」
魔物が完全に消えたのを確認して、フィノがグレイヴァの方へ寄る。その口調は、かなり不満そうだ。
この自分が練習相手をしているのに。アルテに才能がある、と言われているくせに。あんな程度の魔物に、防御も張れないとは何ごとか、という訳だ。
そのグレイヴァは、ご神木にもたれるようにして座り、左胸に拳を当て、肩で息をしている。
アルテはその様子に異常なものを感じ、グレイヴァへ駆け寄った。
魔物に攻撃を受けた左腕からは、血が流れている。だが、グレイヴァはその腕を押さえず、苦しそうに胸を押さえているのだ。
明らかにおかしい。
「グレイヴァ……グレイヴァ、どうしたんですか」
「わからな……急に胸が……苦し……なって……」
息を切らしながら、グレイヴァはそれだけ答える。
「グレイヴァ、その手をどけてみなさい」
いつの間に現れたのか、そばにマグノがいた。
言われるまま手をどけると、マグノがグレイヴァの胸に手をそえる。ただそれだけだが、医者が診察しているように見えた。
「ふむ……難儀なことになってるな」
「難儀って、どういうことですか」
マグノが顔をしかめた上にこんな言葉をつぶやかれ、アルテは不安にかられて聞き返した。
不安なのは、当人であるグレイヴァも同じだ。
自分の身体に、一体何が起きているのか。
「心臓に穴があいている」
☆☆☆
アルテが、グレイヴァの左腕の止血をする。そのあと、マグノが治癒の呪文を唱え、傷口はふさがった。
本当ならかなりの深手を負っていたのだが、さすがはご神木の精霊である。
今は力が衰えているから、と傷口をふさいだだけで終わったのだが、それでもかなりきれいに治っていた。
これで力が衰えてなければ、無傷の状態に戻せていたのだろう。
「楽になってきたか?」
「あ、ああ……何とか」
腕の痛みと同時に、胸の痛みもおさまってきた。
さっきは、腕の痛さよりも胸の苦しさの方が強くて、手で押さえたところで何の解決にもならず、本当につらかった。
今は腕も治療してもらって、もうまるっきり痛みを感じなくなってきたし、胸の方も時間が経つにつれて普通の状態に戻ってくる。
一体、さっきの痛みは何だったんだろう。
「グレイヴァって、健康だけが唯一のとりえだと思ってたのに、これじゃたった一つのとりえもなくなっちゃうじゃない。心臓が弱いようにはとても見えないけど。生えてた毛が抜けたってことかしら」
心配してるんだが、していないんだか。フィノの言葉はかなりきつい。
「たった一つって、何だよっ。だいたい、健康ってとりえになるのか? あと、心臓に毛が生えてるのは、フィノの方だろ」
むすっとしてフィノを睨み、それからグレイヴァはマグノの方を見る。
「俺、今まで心臓が悪いって言われたこと、なかったんだけど。今までだって、これといって支障なく旅をしてきたし。本当に俺の心臓、穴があいてるのか?」
心臓に穴があいていれば、それなりに身体の機能に何らかの影響が出るはず。
だが、魔の気配に倒れてしまうことはともかく、胸が苦しくてうんぬん……となったことはない。
マグノの言葉を疑う訳ではないが、ちょっと信じられない。信じたくないのかも知れない。
「ああ。ただし、人間の医者にはわからない。グレイヴァの心臓にあいた穴は、魔力によるものだ。あけた魔物か、私のように癒しの力を持った者がわかるくらいだろうな」
「穴をあけた魔物って……いつ遭った魔物かしら。これまで、色んな魔物に遭ってるしねぇ」
魔物に遭って、命の危険にさらされたことはある。そのうちのどれか、ということか。
「夢の中……は違いますよね。直接魔物と対峙したのはあの時と、それから……ああ、あるじゃないですか。一度は本当に命を落としかけて、でも妖精に助けられたことが」
まだ一ヶ月も経ってない。グレイヴァの心臓に、確かに魔物の刃が貫かれた。
青焔石が関わっていた時のことだ。
火の妖精を襲った魔物が、瀕死の状態にありながらグレイヴァのいる所へ報復のために現れ、その胸に氷の剣を突き立てた。
「けど、あの時はリュリーに魔法を解いてもらったんじゃ……」
「ええ。でもあの時は、魔法を解いただけです。凍らされかけた心臓を溶かす、という形で。傷ができていたなんて、あの時は誰も考えていませんでしたから……」
考えていなかったし、マグノの言うように癒しの力を持つ者にしか、この傷のことはわからないのだ。
「穴をあけた魔物の性質が、氷結だったのか? それならわかる。さっき痛みがあったのは、あの魔物が同じ氷結の魔法を使っていたせいだ」
「どういうことですか?」
「その傷は、普段の生活をする分には支障ない。だが、傷を負った時と同じ魔法に、強く反応する。故に、氷結の魔法が使われると、その気配を感じて傷が痛む。早く治しておいた方がいいな。この先、同じことが起きれば、その傷はどんどん拡がってゆく恐れがある」
傷が拡がれば、普段の生活でも心臓に影響が及ぶ。つまり、魔法が使われなくてもさっきのような状態に陥る、ということだ。
最悪の場合、生命にも危険が及ぶ。
「人間の医者が診れば、グレイヴァは健康体と言われるだろう。だが、私の目から見れば、今の状態は重病になる一歩手前だ」
とんでもない宣告をされてしまった。